80節から81節
80 井戸本組、絵幡蛍子
井戸本様への通信はすぐに繋がった。誰にも聞かれぬよう事前に思い切り音量を絞ってある為、私はまるで写真を取られる為に気取っているかのように、肘を思い切り上げつつ、右手首を頬へ当てる羽目となっている。
『絵幡君か。そろそろ決行の時だろうね。』
「はい、井戸本様。私から紅林への指示が出次第、本隊は渡り廊下へ突入します。そして同時に、私と綾戸は階段を無理矢理上り始めます。」
『何はともあれ任せたぞ、頑張ってくれたまえ。ああ、ところで訊いてもいいかな。先程、その本隊の
「ああ、あれはですね。我々がここに向かう途中にたまたま男女の二人組を見つけまして、数に物を言わせて襲撃したのです。その成果をお送りしたまでです。」
『そうか、怪我はないのだろうね。』
「
『ああ、いや、よしてくれたまえ絵幡君。私はそんな即物的な心配したのではないんだよ。ただ君達の身が心配で、』
私は、井戸本のお優しさに感謝しながら、
「申し訳ありませんが、今は急ぎますのでこれくらいで失礼します。この話の委細につきましては、作戦を終えてから、その報告と同時にでも、」
『ああ、済まない。では、武運を祈る。』
通信を終えた私は、綾戸に視線を向けた。つい先程まで大人数で移動していたので、またどさくさに紛れてどこかに行ってしまうのではと少しだけ心配したが、結局そんな面倒も起こさずに綾戸は素直についてきて、そして今私と二人きりで2D棟四階――すなわち奴らの塒のすぐ下の階――の階段で佇んでいる。何を考えているのか分からないその表情は、いつも通りのようにも見えるが、しかしどうなのだろう、
「綾戸さん、大丈夫?」
この潜め声を聞きとめた綾戸は、私の目を見て、小さく、しかし力強く頷いた。そして、
(頑張ろう、絵幡。)
彼女の口が確かにそう動き、私のことを強か励ましたのだ。私は、頷き返すと、端末を再び操作して、本隊の隊長の紅林へ通信を繋げた。
通話は不要だった。紅林の右手首が震えることが、私の決めていた号令であったのだ。彼らの進撃がもたらす、先入観がなければ決して識閾を超えなかったであろう、弱く幽き、しかし確かに存在する振動を足許から感じた私は、本隊がE棟五階から渡り廊下へ駈け込み始めたことを確信し、自分のすべき行動を始める。
まず、肩車の要領で綾戸を先に登らせ、次に、持ち込んできた硝子の破片を足許に、音を立てぬよう慎重にばら蒔いた。栄養ドリンクの瓶を軽く砕いたものなど、立体的な破片、有色の破片を多く選んである。床がゴム材なのは幸いで、音を出さぬ為には破片同士の衝突さえ避ければ良かった。
そして私は、登るべき地点に立ち、上で待つ綾戸と目を合わせると、自分の聖具を断頭台の刃がごとく、体の脇で縦向きに構えた。そして、破壊でなく、反動をイメージし、床を叩きつける。
私の体は舞い上がり、目標点に僅かばかり届かない程度の跳躍を為した。もしも私一人きりにならこのまま無様に元の辺りに転がり落ち、血
階段の、この上なく荒い鋸の刃のような段差に全身を打ち据えた私は、その痛みを堪えながら起き上がり、綾戸と見交わす。相変わらず無表情の、しかし、何故か私を鼓舞するその
砲弾が壁を砕くような音、間髪容れずに続く悲鳴。本隊の方の戦闘が始まったかと私は一瞬想像したが、しかし、明らかに異常であった。その悲鳴の響きは、あまりにも哀れで、あまりにも痛ましかったのだ、まるで、天が落ちてきたことを嘆くの清教徒のような、あまりに凄惨な悲鳴。私がそれを怪しんだ刹那、続いて聞こえてきたのは、地が崩れたかのような轟き、弱々しくも束ねられることでなんとか届いてくる呻き声、そして、悪魔のような高笑いだった。恐らく廊下で幾重にも反響して、高まり、綾戸の音撃に耐える私の耳すら劈かんとするその笑い声が、私の心を、まるで鷲摑みにでもしているかのように、いとも容易く脅している。
私は、階段を抜け、廊下に出、目標の507室の存在する右方を完全に無視し、ただ、渡り廊下に直結する左方を、必死に睨みつけた。私の心に発した、そちらに向けての血の滲むような興味と、強烈な動揺とが、皿のように大きくさせた私の
後ろから、自重を求める綾戸の声が聞こえているような気もする。しかし、取り合っている場合ではない(とこの時の私は思った。)。私はそのまま廊下を駈けた。
十分にそこへ近づいた筈の私は、やはり未だ、渡り廊下を見つけられないでいた。今見えている光景は、隣のE棟の姿だ。今朝から太陽の熱線をさんざ浴びせられた結果、丁度、茹だった豆腐が音を上げて身を引き締めたような姿に見える、薄灰色のその棟は、ぽっかりと大きな穴を顔面に穿っている。どうやらその横長長方形の穴は、私にこの視界を与えている、こちらD棟に開けられた大穴の真正面に存在しているようだ。向かい合う両棟に開けられた
実は、この光景はあまりよく見えていなかった。視界の妨げとなる障碍物があったのだ。その障碍は、丁度、高校生の体格くらいの大きさと形を持ち、そして、丁度女子高生の甲高い笑い声くらいの音を放って、私の耳を遺憾なく侵している。そして、向こうの大穴にも、同じような大きさの障碍、人影が立っているようであった。その、遠くの方の人影が動く。まるで、正面の同胞に、背後の危機を知らせようとしているように。
果たして、手前側の障碍が、悪魔のような笑みを湛えて、こちらへ振り返る。私は自分の目が一瞬信用出来なかった。こんな恐ろしい表情を人間が作ることなど出来ないと思ったからだ。しかし、結局、私はすぐに思い直した。何故なら、私の存在を認めた瞬間、その女の表情が、更に歪み、私の心を凍らせたのだ。成る程、これほどの表情が作れるのであれば、先程程度の恐ろしさはなんてことがないのであろう。私の裡の恐怖は、早くも更新された。
追いついてきた綾戸が私の袖を引っ張ると同時に、その女が、つまり、恐らく鏑木あんずが、銃口をこちらに向けた瞬間、私はようやく部分的な冷静さを取り戻した。殺される! 私は右手一本で聖具を捧げ、そして咄嗟に、左手で綾戸の腕を摑み返すと、
僅かな音が聞こえると同時に、画板を容赦なく打ち据える凄まじい衝撃を感じた私の体は、またも廊下を翔けることとなった。摑まれたままの綾戸も、仕方がなく、呻きながらついてくる。
十数メートルばかりの飛翔の後、私達は床に叩きつけられた。その床から全身へ立ち上る痛みに顔を顰めながら、何とか左方に目をやると、よし、上手くいったぞ。私は急いで立ち上がり、綾戸と共に、丁度目の前にきた階段へ駈け込んだ。
「な、小賢しい真似を!」
鏑木の声を無視し、私は急いで、倒壊している階段を下りる作業を始める。あの銃はどうやら銅座のそれ同様に連射が利かないようだが、しかし、いくら何でも我々に追いつく頃には次弾発射の準備が整うだろう。急がねば。
私は画板を放り投げ、下の床に落とした。躊躇う時間すら惜しんで、その上に、二本の脚で飛び降り、着する。そして、私が見上げる頃には既に身を投げていた綾戸を、両腕で何とか受け止めた。綾戸の身を降ろして先に行かせると、私は靴を貫かんとする勢いの硝子の破片達を踏まぬよう努力しながら、画板の上から
「畜生め、どこまでも小賢しい真似をしてくれる!」
この、治療手段の一切ないサバイバル、大怪我をしたら一巻の終わりだ。鏑木に少しでも理性が残っていれば、硝子の撒き菱に向かって身を投げることは出来ない。勿論こんな撒き菱は、下階に居る者なら簡単に片づけられるが、しかしだからこそ、鏑木はそのような協力を得てから下に降りるのが賢明であり、ますます今この瞬間の私達を追い兼ねるわけだ。
そして彼女の理性は、階段に向かって上から銃撃を見舞うことをも禁止する。あの渡り廊下が崩壊した以上、4D棟五階から脱出する経路は、この、階段以外に存在しないのだ。銃撃で階段を破壊すれば、奴はあそこに取り残され、餓死することになる。故にそんなことは出来ない。
勿論、鏑木の理性がいつまでも保たれるという保証はないので、私と綾戸は一目散に駈けおり、ついには階段を降りきり、飛び出し、ついでD棟そのものからも飛び出した。そして、鏑木の手中の物を始めとする、彼方組の銃口から逃げ延びきる為に、足を止めずに駈け続けたのだが、しかし、その最中にふと右方へ目をやると、
4D棟と4E棟の狭間、底辺を欠いたデジタル数字の八に見える筈のその光景は、しかし今や異常であった。二本の渡り廊下が消滅し、デジタル数字の十一のようで、つまり、今や二つの棟が完全に独立しているのだ。そして私は思い出す。そうだ、同志達は? 五階の渡り廊下に居た筈の紅林達はどうなった?
いつの間にか足を止めていた私は、その狭間の底に鎮座坐している瓦礫の山を見つめ始めていた。
眉唾物の話として、豆腐と泥鰌を鍋で煮ると、泥鰌が熱さから逃れようとして豆腐の中に逃げ込み始める、という逸話を聞いたことがある。私はそれを髣髴とさせられていた。目茶苦茶に積み重なった白っぽい瓦礫が煮崩れた豆腐のように見え、そこから泥鰌の体が
私は絶叫した。
そちらへ駈け寄ろうとする私の身が、服のどこかを摑まれたことにより、びぃんと、縛められる。邪魔をするな! 私がそう憤慨して振り返ると、綾戸の顔があり、そして、
衝撃。その後、頬に走る痛み。蹌踉めき。私の頬が張られたのだ。
「馬鹿絵幡! さっさと逃げるよ。」
その綾戸の表情は、どこまでも凛々しく、つまりこの彼女は私の頼もしき司令官、綾戸彩子そのものであった。
「逃げるって、綾戸さん、何を言っているの、まだあそこに皆が、」
「馬鹿。もうミンチだよ。私達が今更何をしたって、助かりやしないさ。」
「でも、」
「でもじゃない!」
綾戸のこんな大声を、私は初めて聞いた。いつか私の胸を涙でびしょぬれにした、つまり、いっそう低い位置にある筈の彼女の顔は、私の顔を懸命に見上げながら、しかし、とても頼もしい声で、
「助からないんだよ! きっと彼方組の連中が、紅林達の居た渡り廊下を、三階の渡り廊下とほぼ同時に破壊して、落としたんだ。あんな酷い状態じゃ、もう、彼らは助からない。じゃあ、私達が逃げなくてどうするのさ。もう、これで私達はたったの七人しか居ないんだよ? ここで私達まで死んだら、誰が井戸本様を護ると言うの!」
何も言えずに立ち竦む私を見る綾戸の顔が、いきなり、目を見開きながら歪んだ。そして彼女は私の腕を引っ摑み、有無を言わさず駈け始める。次の瞬間、私が連れ去られた地点が、雑草の根と土埃を撒き散らしながら爆ぜ飛んだ。駈けながら思わず振り返ると、D棟三階に穿たれた穴から、こちらを睨みつけている男が、いかにも獲物を仕留め損ねたような、不満げな顔で銃を構えている。ああ、そうか、奴らは三階にも潜んでいたのか。彼方組の銃手は四人、各棟の三階と五階に一人ずつ配置すれば、二本の渡り廊下の両端をそれぞれ同時に破壊出来たのか。ああ、なんということだ、なんと、いう、
私は頭を真っ白にしながら、必死に綾戸の背中を追った。まずは、逃げねばならない。
81 葦原組、躑躅森馨之助
『残念ですが、そのお申し出は断らざるを得ません。』
「何でだ?」
『僕は――少なくともある一定の程度は――中立で、公平でないといけないからです。これからも躑躅森さんとお付き合いしたいとは思いますが、しかし、具体的に行動を共にすることは出来ません。』
「そうか、残念だ。」
『他に御用命があれば何なりと。ではまた。』
俺は、今度は佐藤を仕留めて見せようとして、奴へ手を組むように打診したのだったが、あえなく断られてしまった。まあ、これくらいの慎重さがなければ、アイツもとっくに誰かに騙されて、つまり殺されているだろうから、妥当というか、当然の結果ではある。
仕方ない、逆に言えば、佐藤を死なさずに済んだということだ。アイツから買える情報を上手く使って誰かを出し抜く術を考えて見せるかな。
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