69節から70節
69 逸れ、簑毛圭人
眩しい。どうやら、最後の色相、黄色を失いつつある無色の陽光が僕の瞼を執拗に打ち据えているようで、きっとついにはその内のいくらかが貫いているのだ。観念して目を開く。窓越しに朝日を背負っているらしい。目覚めのいつもの癖で端末に目をやると、成る程、日の出の時刻をとっくに過ぎている。……ん?
僕は狼狽えながら立ち上がった。その為に支えを失った箱卸さんは、芒のようにしなだれながら目を醒まして、不愉快げに、
「何? 圭人君、朝?」
僕は情けなくふためきながら言った。
「そうだよ、朝だ、僕達は眠っていてしまったのか、」
箱卸さんは欠伸をしながら、不明瞭に、
「だとしたらどうしたの?」
「どうしたもこうしたも、良くも僕達は無事生きているものだ。」
彼女は中指で目を擦りながら言う。
「どういう意味? どこかの誰かが寝込みを襲わなくて幸運だったってこと?」
「違うよ、どこかの誰かじゃない、武智君達だ。彼らが、竿漕さんが帰還するや否やこちらに取って返して攻撃をしかけに来ることは当然想定されたのに、ああ、僕達はなんて愚かな真似を、」
箱卸さんは、昨夜のあの怜悧さが嘘のように、白痴みたいな眠たげな目で、しばらくぼーっとして、その後頬を張ってから、ようやく頭に血が巡ってきたらしかった。
「そうか、私は昨日、美舟さんと言い合って、そして、」
いきなり彼女は、そういう仕掛けの玩具であるかのように、びよん、と立ち上がり、振り向きざま僕の両手を捕まえ、纏めて、そして彼女の手で包み込んだ。これは恐らく、強引な握手だ。
「圭人君。本当に、有り難う。よかったよ、本当に良かった、私は、君さえ居てくれれば、……ああ、本当に有り難う。」
僕は、心地よく彼女に両手を縛められながら、
「頑張ろう、箱卸さん。きっと頑張れば生き残れる、後少しだ。」
そうして浮かんだ彼女の笑顔は、昨日さんざ見せられた竿漕さんのあまりに強かな笑顔とは似ても似つかず、つまり一切毒がなく、ただ、暖かだった。僕はしばし戦いのことを忘れて、そのままじっと、彼女と共に朝日を快く浴びたまま時を過ごしていたかったのだが、こういう時に限って水は刺さるものであるらしい。
僕の端末が、なにやらを受信して蠢き始めたのだ。箱卸さんが慌てて手を放してくれたので、僕は右手首を引き寄せて画面を注視する。
僕は息を呑んで、無言のまま、その画面を箱卸さんの方へ差し向けた。促されるままに覗き込む彼女も、やはり凍りつく。武智君からの通信だった。
僕達はしばし見交わし、そして、彼女が頷いたのを踏ん切りとして、僕は通信を受諾した。
『ようやく出たか。そっちはどうなっているんだい、簑毛?』
この一切敵意のない声を聞いた瞬間、僕は二つのことで動揺した。一つは、これまでに何度も武智君からの通信が入っていたらしいということに対して少々驚いたのだ――通話履歴は残るくせに、着信履歴、所謂〝留守電〟のような機能が一切ないところがこの端末の欠点のうちの一つだ。
もう一つ驚いた、より重要なことは、僕のではなく向こうの動揺だった。つまり、その声音から判断すれば、武智君がなにやら狼狽えて、かつ、僕達を心配しているのだ。これに僕は強か驚かされた。だって、てっきりこの通信では、竿漕さんから昨夜の訣別の委細を知らされた武智君から、悪意と敵愾心に満ちた声での宣戦布告が――竿漕さんの態度が僕に想像させたこととして――為されるとばかりに思っていたのだから。
あまり間を置くべきでないと理解していた僕は、急いで考えを纏め、この状況に対しての確からしい分析を何とか導き、そしてやはり急いで言葉をでっち上げ、それらを紡ぎ上げ、口の先から端末の受音部に向けて転がし落とした。声音を乱さないようにと苦心する。
「御免、色々と大変だったんだ。妙な奴らに襲われた挙げ句に竿漕さんと逸れてしまって、しかも、どうやら、その、」
僕はここでわざと口ごもった。僕は、無用意に武智君との通話に臨んでしまったことを後悔しながら――何せ、一度切れてから、たっぷり準備して折り返せば良かったのだから――ある可能性に対して賭けていたのだ。さあ、どうだ。このはったりは通用するか?
『ああ、やはりそうか。……まあ、通信先に竿漕の名前が出ないから分かってはいたのだけれども、やはり彼女は殺されてしまったのか。』
僕がほっとして息を吐き、箱卸さんがびくんとして目を剥いた。そうだ、武智君がまったく尋常で、特に怒り狂っていないということは、彼が竿漕さんの話を聞いていない、つまり、竿漕さんと再会出来ていないということがもっとも自然な可能性として考えられた。その場合つまり、竿漕さんがあの後まもなく討ち死にしたということだ。理窟ではそうなり、事実そうだったが、しかし信じ難い。あの彼女が、こうもあっさりと死んでしまうだなんて。
僕は急いで次の言葉を繰り出した。それらが上等かどうかを逐一精査している暇はない。言葉一つ一つの選択が博打だった。
「もみくちゃというか、とにかく大変な状態だったから、どうしても不明瞭になってしまったのだけれども、確か別れ際に竿漕さんは、元の場所に戻ると言っていたのだけれども、やはり武智君も彼女を見ていないの?」
『いや、竿漕は僕達が待機していた場所に戻ってきていたかもしれないし、そうでないかもしれない。しかしとにかく、彼女と僕達は――二度と――出会うことが出来なかった。』
「それは、何故?」
『そもそも、僕と筒丸は当然あの部屋で待機していたわけだけれども、しかし、その最中にどこぞの連中から襲撃を受けたんだ、僕達の方もね。』
「え? 大丈夫だったのかい?」
『ああ、僕と筒丸の聖具に怖れを為したか、向こうから休戦というか、停戦というか、とにかく戦いの幕を引くことを提案してきたんだ。向こうの方が人数が多くて困っていた僕は、それを受け入れて襲撃者達を見送ったのだけれども、しかし問題が起きた。
その襲撃者は三人ばかりだったが、しかし、どこかに彼らの更なる仲間が居る可能性はゼロでなかった。つまり、加勢を募って、改めて僕と筒丸を襲いに来る可能性があった。』
自分と彼のと思考の相似に感心しながら、僕は続きを聞いた。
『そこで、しばらく時間が経ってからその部屋を放棄したんだ。そうしてから、君たちの帰還時間が近づく頃までに新しい部屋を見繕って、聯絡しようと思っていた――焦った挙げ句に安全性の低い場所を選んでしまってはしょうがないからな。
しかし、いざ通信を行おうとしたら、竿漕は居なくなっているし、君や箱卸はちっとも出ないし、と言うわけだ。ようやく応じてくれてある意味では安心しているが、しかし、どうやら大変な状況だ。とにかく、竿漕を失ったことなどについて話し合わなければならないだろう。戻ってきてくれるか?』
「何処に?」
『……ああ、失礼。大学側の4D棟、4D311教室だ。』
「諒解。しばらくしたら向かうよ。」
少し間があって、
『何故今すぐではないんだ?』
「箱卸さんがちょっと貧血気味で気分が悪くてね。もう少し様子を見たいんだ。彼女の弁では、いつもこういう場合は
『成る程、分かった。では、箱卸が恢復ししだいすぐに帰ってきてくれ。』
「ラジャー。」
通信を切った僕の顔を見て、箱卸さんは、
「言いたいことは山ほどあるけれども、まずは、お見事だね圭人君。君がそんな役者だとは思わなかったよ、見逸れていたかな。」
「僕も驚いているよ。咄嗟にあれだけ出任せが言えるだなんて。それに、寧ろそれを言うなら、昨日の君が突然見せた理智と舌鋒も、僕には大きな驚きだった。」
「お互い、火事場の馬鹿力を出したんだよ、きっと。まあ、とにかく、良かった。圭人君の機転のお蔭で、美舟さんとの一件をひた隠しに出来た、と。ついでにこうやって話し合う時間も少なくとも
「彼女にとって不幸だったね、苦労して慎重に帰還した先に、居る筈の仲間が居なかったのだとしたら。流石の彼女でも、一人で多数の敵に囲まれてはひとたまりもないだろうし。」
「しかし、私達にとってはある意味幸運だね。最大級に敵愾心を持たれる筈だった三人の内の一人が消えて、そして、最大級に敵愾心を持たれる材料が、まだ向こうに知られていないのだから。……勿論、かつての仲間が死んでしまったことへの寂しさもあるけれども。」
「それは仕方ない。簡単に割り切れるものではないだろうから。」
「そうだね、うん。」
難しげな表情を見せる彼女を、僕は諭す。
「しかし今は、今すべきことを考えなければならないね。」
彼女は僕の目を見て、
「そうだね。圭人君の機転を活かさないと。しかし、本当に君は上手くやったよ。もしも私達がこのまま武智君達と戦うにせよ、それとも、二度と出会さないことを願って逃げるにせよ、彼らをその4D311教室とやらにしばらく釘付けにできるというのは、とても望ましいね。
そしてこれら以外の選択肢はほぼ有り得ないだろうね。武智君達と戦うのならば、不意討ちが期待出来る今すぐ向かうべきだし、逃げるのならば、わざわざ一度顔を見せに行く理由が殆どない。穿鑿されてはややこしすぎるもの。」
「ああ、その通りだと思うよ。」
「で、君はどう思うのかな。戦うべき? それとも逃げる?」
僕は少し悩んでから、
「難しいね。箱卸さんはどう思うんだい?」
「私はね、断固逃げるべきだと思うな。」
「それは、何故?」
「さっき簑毛君は言ったよね、咄嗟に武智君相手に誤魔化しを喰らわせることが出来た自分に驚いたと。そして、昨日美舟さん相手に散々喋った私にも感心したと言ったね。で、私は、これらを火事場の馬鹿力だと称したんだ。
そこでふと思ったんだ。もしかして、こういう急場の力は、今、武智君達も得ることが出来るんじゃないのかなって。何せ彼らも大変な状況だからね。」
「どういう意味?」
「つまり、最悪の可能性として、武智君がいつもの洞察力を更に増強させていて、結果、全てに気が付いているのではないかな、と思ってさ。」
「全て、とは?」
「全てだよ。全部。オール。つまり、美舟さんが私達に看破されたことと、私達が離反したことを、武智君は気が付いているのかもしれない。」
僕はぎょっとした。
「何でまた、君はそういうことを思うんだい?」
「武智君が、あまりに簡単に君に騙されたからさ。君のお喋りは確かに美事だったけれども、完全無欠だったというわけでもない。例えば、不明瞭とはいえ竿漕さんと会話が出来る状況下で、なぜ大いなる危険を冒してまで彼女と別れる必要があったのかが説明されていない。」
「いや、それは、咄嗟に喋ったことだったから、」
「別に、君を責めたいわけでも、詐欺の反省会をしたいわけでもないよ。ただ、事実として、武智君はそういう点を――彼が私達を信用しているにせよ、していないにせよ――訊くことが出来た筈。しかし、彼はそうしなかった。他にも、色々あるよ。今まで私達がどこで何をしていたのかも彼は訊ねなかったし、襲撃を受けて大変な事態になっていたのにも
勿論これらはたまたまかもしれない。たまたま武智君はそういう点を問わなかったのかもしれない。しかし、同じくらいの確率で、武智君の策略なのかもしれないんだ。つまり、私達をおびき寄せて、早いこと始末してしまおうという作戦。」
「だとすると、いくら火事場の馬鹿力とはいえ、武智君、あるいは筒丸さんは、」
「いや、桃華さんはそういうことに全く気が付かないと思うよ、そういう
「彼女には悪いけれども、同感。じゃあ、もし君の言う通りだとすると、武智君は何故気が付くことが出来たのだろうか。」
「簡単だよ。だって、美舟さんが彼らの許に帰ってきてないんだよ? んで、私達は平然と生きていて、しかも、聯絡を寄越さないし、向こうからの聯絡を無視してたんだ、仲間が死んだのにも
そもそも、彼らが美舟さんから聯絡を受けていないというのも甚だ怪しい話だよ。普通なら、私達の場所から去った直後にでも美舟さんは、武智君達に聯絡しそうなものじゃない。君も、そう言ったよね。武智君達がここに来なくて、つまり、竿漕さんがここへの襲撃を言い出さなくて良かったと。実際そうはならなかったけれども、しかし、美舟さんが彼らと聯絡を取るというのはやっぱり至極自然な話だよ。となるとさ、武智君が全てを察している可能性は、少なくとも無視出来る程度ではない。いや寧ろ私の意見としては、とても高いんじゃないかなとすら思うんだ。
ついでに言えばね、いずれにせよ、戦うよりも逃げる方が何かとリスクが低いんだよ。だって、確かにいずれ彼らには消えてもらわないといけないだろうけれども、しかし戦うとなったら大きなリスクを背負うことになるし、場合によっては向こうが罠を用意しているかもしれない。でも、この、武智君達を倒すという仕事は、たとえ不可欠にせよ、私達が必ずしもやる必要はないんだ。逃げ延びているうちに、どこかの誰かが達成してくれるかもしれないからね。」
「そう上手くいくかな。誰かが勝手に殺してくれるだなんてことがさ。」
彼女は微笑んで、
「じゃあ、一つクイズだ圭人君。美舟さんの死因は?」
僕はしばらく間を置いた後、神妙に頷いてから、
「箱卸さん、少なくとも君は一つ誤解していると思うよ。」
「え? 何が?」
「昨日君が見せた知性は、きっと、火事場の馬鹿力なんかじゃなかったんだ。だって、箱卸さんは今日もそんなに聡明じゃないか。どうやら君は本当に賢いんだね。」
彼女はまた微笑んで、
「分からないよ。だって、まだ、火事場は過ぎてないもの。
……さあ、納得してくれたなら逃げよう! 善は急げだ。」
「ああ、でも、どこへ?」
「彼らの居ない、高校側へ逃げるのが筋だろうね。そしていつものように、出来る限り安全そうな場所を探そうよ。」
「諒解。」
僕は彼女と逃避行を始めた。
70 欠番
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