62節から63節
62 武智組、簑毛圭人
何だか、今回の出回りはロクでもないことばかり起こっている。出発早々に訳の分からない男に出会うし、その後すぐ、新鮮な恰幅の良いバラバラ死体に出会したりもした(流石に、凄惨なものを見るのにも大分慣れて来ており、恐怖や悪心を覚えることはなくなったが、やはり愉快でないことに変わりはない。)。ついでに、その死体を漁ってみても情報含め何ら収穫がなかったのも、ロクでもないことの一つといえるだろう。
いや、実はそういったことはどうでもよく、ただ残念なのは、あの不審な男に出会ったことをきっかけとして、竿漕さんと箱卸さんが喧嘩を始めてしまったことだ。折角、最近少しずつ仲よくなってきていたのに。そしてまた、あの一連の騒ぎの間、何も出来ずにきょろきょろしていた僕は、非常に残念な男だろう。でも僕は、何をしたら良いか分からなかったのだ、箱卸さんの言うように、竿漕さんの態度は異常で、語る言葉も確かに支離滅裂だった。しかし、だからといって、箱卸さんも、決してまともな状態じゃなかったのだ。そうなると、果たしてどうすればよかったというのか。
僕達三人は、あれ以降、蛸が海中で吐いた墨のようにもやもやとした空気を引き連れながら、一言も発さずむっつり歩いていた。途中、箱卸さんが転びかけて、竿漕さんの身に思い切りよりかかってしまった時、もしかしたら仲が直るきっかけになるかなと期待したのだけど、彼女らはとてもよそよそしげに互いに言葉で謝ったのみで、何ら甲斐がなかった。
そんな葬列のような行進を続ける中、突然、箱卸さんが口を開いた。彼女の顔は景気の悪いままだが、しかし何にせよ、この煩わしいしじまが破られると言うだけで、僕は救われた気分になる。
「ねえ、そこの部屋で休まない?」
僕が意図的に口を噤んでいると、竿漕さんがにこりとして、
「いいですね。是非ともそうしましょう。」
僕達は安全を確かめつつ、その部屋に侵入した。
電燈を点けると、何もない部屋だった。元から何もないのか、それとも、このサバイバルの経過によって破壊や投棄が行われたのか――最近はなかなか通用しないだろうけど、窓から適当なものを放り投げるのはかつて良い攻撃手段の一つだった――とにかく何もない部屋だった。
竿漕さんは、夜を映す窓の方に寄って、その、真っ黒い鏡のような硝子に映った自分の顔を、ところどころの皮を指の腹で引っ張ったりしてみせながら、しげしげと見つめている。
「早く生還して、そうですね。たとえば肌の手入れなどもしたいものです。手入れと言っても我々の歳では精々石鹸で洗顔するくらいですが、しかし、ここではそれすらままなりませんからね。」
そう言ってからこちらへ振り返った竿漕さんは、一瞬目を見開き、しかしその後すぐ閉じて、ふふ、と笑った。成る程、この状況すら彼女にとっては予測の範疇なのか。
彼女が見て、一瞬だけ驚いて、結局笑った光景は、箱卸さんが僕にしっかりとしがみついている様子だった。僕は何もしていない。ただ彼女の右腕が、巻き付くように、僕の右腕をしっかりと摑んでいるのだ。
竿漕さんは徐(おもむろ)に目を開けて、全くその笑みを毀たぬまま、優しい口調で、
「何のつもりですか、箱卸さん。まさか、また私の事を疑っているのですか。」
そこまで言うと彼女は、わざとらしく目を少し大きくし、ほんのり口を尖らせてから、
「『また』というのは、失言でした。あなたは、私達を疑っていることを気付かれていないつもりだったのでしたね。どうか許して下さい。」
対する箱卸さんは、竿漕さんと対照的に、思い切り緊張した様子で、
「まあ正直、気付かれているかもしれないなとは思っていたよ、あなたはおかしいくらい察しがいいし。それに、勝手に私から疑ったことなのだから、それが察知されたことで美舟さんを誹るのはお門違いだと思う。」
竿漕さんはまた笑った。
「そう言って頂けると有り難いですね。実は私も全くの同意でして、先程謝ったのは醜い阿りに過ぎませんから。勝手に疑られて、勝手にバレて、それで憤られても困ります。」
この穏やかでない物言いを、箱卸さんは無視して、
「そして、確かに私は一時期、あなたのことを、実は敵なんじゃないかと疑っていたけれども、でも、今は全くそんなことはないよ。あなたと私は仲間、これはまず間違いない。」
「素晴らしい。それこそ、全くの同意ですよ。そう、私達五人は、皆、大切な仲間なのです。もうゴールは目前、悪夢の目醒めは目前、ならばいっそう一致団結して、共に戦い抜くべきなのです!」
竿漕さんは、笑顔のまま眉根を寄せた。
「しかし、本当に私とあなたが同じように考えているのであれば、これはどういうことなのでしょう? まるで今のあなたの姿勢は――物理的な意味でも――その簑毛君のみを仲間として見做し、私をことは敵、あるいは他人と認識しているかのようです。」
「少し違う。」箱卸さんからの返事は早い。「私はあなたを仲間だと思っている。でも、もしかしたら……いや、まず間違いなく、ここで袂を分かつべきだとも思っているんだ。」
縋られたままの僕は目を剥いた。
「何を言い出しているんだ、箱卸さん!」
彼女はこの言葉を聞いてか聞かずか、竿漕さんの方を見据えたまま、
「私と圭人君は、金輪際あなた達の許から出て行く。」
竿漕さんは、突然冷たい顔になって、
「意味不明です。何を言い出すのですか?」
「そんなに言わせたいのなら、じゃあ、ずばりと言うよ。良いんだね?」
竿漕さんは、如何にも不愉快げに顔を顰めながら、
「あなたが簑毛君を勝手に連れ去った後で彼に適当なことを吹き込まれては、私からの反駁の機会が損なわれてしまいます。あなたが――恐らくそうでしょうが――もしも誤った推論によって誤った事実を導き出している場合、あなた、私、簑毛君、全員が不幸となります。
ですから、その、あなたの蒙昧が導き出した結論をここで晒してみて下さい。きっと、きちんと説明して差し上げます。」
応ずる箱卸さんは、一つ息を吐いてから、
「もしもあなたが、心の底からの言葉としてそう言っているのであれば、やっぱりおかしいよ。『蒙昧』だとか、『晒す』だとか、そんな攻撃的な表現が出る筈がないもの。
やっぱり美舟さんは焦っているんだ、認めたくないことを私に指摘されるのではないかと、」
「いいから話しなさい!」竿漕さんの声が強くなった。「御託や揚げ足取りは結構、本題を切り出して下さい。」
僕はまた、彼女ら二人が話している様を、何も出来ずにぼんやりと、おろおろと見ているだけだ。明らかに大変なことが起ころうとしているのだけれども、しかし、一体なんだ? この場で何が行われているんだ?
箱卸さんの右手の力が、ぎゅっと、強くなった。そうして覚悟を決めたらしい彼女が、重そうに口を開く。
「じゃあ、ずばり言うよ。美舟さん、あなたと、筒丸桃華さんと、武智恵君。あなた達三人は、」
彼女は一旦目を伏し、いかにも苦労して言葉を継いだ。
「食べているんだ、死体の人肉を。」
僕は耳を疑った。
箱卸さんの言ったことを理解出来なかった、あるいは、認めたくなかった僕の前で、竿漕さんが笑う。
「何を言い出すかと思えば、馬鹿馬鹿しいですね。」
「図星のくせに、白々しいんだね。」
箱卸さんの言葉に、竿漕さんは明らかに不機嫌となって、
「随分と御挨拶ですね。ならば、私達三人が、人肉を食しているという証拠を示してみて下さい。」
この言葉で、僕はようやく事態を把握した。把握したが、ちょっと待ってくれ、
「箱卸さん、君は本当に何を言っているんだ! 竿漕さん達が、人の肉を喰っているだって?」
「ほら、
竿漕さんの揶揄いに取り合わず、箱卸さんが話し始める。
「まず、私が不審に思い始めたきっかけは、そう、あなた達三人が、妙に飢えに対する耐性が強かったことだよ。美鈴さんが殺される直前の、本当に食べるものに困ってた、……あるいは、困ってるべきだった時期。私自身も本当に辛かったし、圭人君や美鈴さんも、明らかに窶(やつ)れ、ふらついていた。なのにあなた達三人は、ずっと尋常な様子だった、健康そうだった。」
竿漕さんは鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。個人個人の間で食習慣が異なるのは常識です。」
「食習慣の話なんてしてないよ。絶食やそれに近しい状況に陥った時に、どれだけ耐えられるかと言う話だよ。そりゃ、人によって基礎代謝量は異なるけれども、でも、私達はみな同じ高校生で、誰かが明らかに――それこそビルダーばりに――筋肉量が多いとか、逆に筋量が少なくて針金みたいにがりがりだとか、そんなことはないじゃない。つまり、何倍も基礎代謝が異なるだなんて、有り得ないんだよ。精々平均的な数値から少し上下するくらい、私達の基礎代謝は皆そこに収まる筈なんだ。
じゃあなんであの時、私達三人はあんなに弱っていって、あなた達三人はあんなに元気だったのさ。これは普通の個人差なんてレヴェルの話じゃない。何か理由がないとおかしいくらいの、明らかな差だよ。」
一転して眉間に皺を寄せた竿漕さんに、彼女はまだ言葉を続けた。
「それでね、だから私はあなた達を、敵あるいはそれに近い存在なのではないか、と一時期疑ったんだ。つまり、例えば、不正にポイントを誤魔化して、自分達だけで食事を取っているのではないかと。でも、この疑惑は圭人君の行動によって否定されてしまったんだ。……そう、否定されて
とうとう竿漕さんが言葉を発す。その声は、これまでに聞いたことがないくらいに冴え冴えとしていて、そちらへ手を伸ばしたら凍てついてしまいそうだった。
「あなたは馬鹿ですね。箱卸さん。それくらいのことで、私達に人食の疑いをかけるのですか? そもそも、人を喰らうにしても、どうやってするのです? 人間の死体が転がっているというのは、スーパーマーケットでこま肉を買うのとは違うのですよ? だいたい、ここはあなたのお家でもなければ、また、全うな家庭科室が保存されている場所でもないのです。人体であろうとなかろうと、ものを調理する際に、なければならぬ道具が一切ありませんね。」
「聖具だよ。」
不愉快げに顎を上げた竿漕さんへ、箱卸さんは続けた。
「あなたの聖具はミンチを作ったり漠然とした破壊行為を行ったりするのに都合がいいよね。……まあ、これはなくても良いのかもしれないけれども、問題は残り二人の聖具。聖具たる電動フードナイフなら、骨くらい容易に断てる筈だから、……〝解体〟に都合がいい筈だよね、あなた達がどの部位を好むのかは知らないけれども。
で、何よりも重要なのが、桃華さんの焼き鏝だね。電燈や水道以外のライフラインがほぼ活用不可能なこのサバイバルにおいて、貴重この上ない熱源、すなわち、肉を焼くことができる道具を彼女は持っているんだ!」
驚愕する僕など構わずに、竿漕さんは反駁した。
「成る程、私達三人が人体を解体して食するのに適当な聖具を揃えていることは確かなようですね。しかし、それがなんだと言うのですか? 庖丁を持つ者は皆殺人者なのですか? 健全に機能する腕を持ち、電車で通勤通学する者は、皆痴漢犯なのですか? 運転免許を持つ者は皆轢き逃げ犯なのですか? ……違うでしょう! 罪を犯せる能力があるということと、実際に罪を犯すことは全く次元の違う話です!」
箱卸さんは、納得したような顔をして、
「美舟さんは、今、『犯罪』を引き合いに出したよね。」
「だとしたらなんです!」
「するとやっぱりあなた達は――あるいは少なくともあなたは――人食を罪深いもの、恥ずかしいもの、許されざるもの、……つまり、決して知られてはならぬものとして、考えているんだね。犯罪と等価に扱うと言うことは、そういうことでしょ?
そして、だからこそ、あなたはあんなに慌てふためいて、さっき出逢った男子生徒の口を噤ませたんだ。あなたが人肉を喰らっていることを知らされたくなかったから。まあ、正解だよ。現にそれを悟った私は、もうこれ以上あなたと一緒に居られないと思ってるから。」
竿漕さんは冷たく言い放つ。
「成る程、
しかしやはり全く無意味な議論ですね! いいですか? もしも私達に羽と翼と、然るべき筋力があれば、私達は空を飛ぶことが出来るでしょうが、しかし、あなたは実際空を飛べますか? 前提条件のおかしな、ぽんこつな議論からは、それに相応しいがらくたのような結論しか出ないのです! あなたの語っているところは、全く意味を為しません! 私が確かに人肉を喰らっていることを客観的に証明出来なければ、あなたの弄している言葉は、全て無意味な戯れ言に帰すのです。」
箱卸さんは首を振った。
「これは裁判じゃないんだ。だから美舟さんのしたことを正々堂々と証明する必要はない。私と圭人君が納得出来れば、信じられれば、……言い替えれば、諦められればそれでいいんだよ。」
「成る程、では証明とまではいかなくとも、今後の命運をそれに委ねられるくらいの確信を提供するロジックを示して下さい。そうでなければ、私はもとより、簑毛君に迷惑です。」
「じゃあ逆に訊くけれどさ、さっきの男子生徒、彼は何をしに来たの?」
竿漕さんが顔を歪めて言葉に詰まった。
箱卸さんは畳みかける。
「私はこう思ってるよ。彼は何らかの手段で知った事実、つまり、あなたが人食家であることを曝露して、私達を仲違いさせようとした。これは、すなわち私達が弱体化するということだから、彼にとって得だよ。論理だった行動だ。
でさ、これが違うとするなら、竿漕さんはどう説明するの? さっきの彼の行為を。三人相手に姿を曝すという、危険極まりない愚かな行為を、あるいは、それに見合う彼の狙いを。」
竿漕さんは、口ごもりながら、何とか意味をなす言葉を発す、という体(てい)で、
「彼は、何か事実無根なことを唆して、私達を惑わそうとしたのではないでしょうか。」
「全く知らない三人組の前に飛び出て?
そうだよ、ここがおかしいんだよ。私はあの男子を知らなかったし、圭人君も知らなかった筈。そして、あなたの言葉まで信じてしまうと、あの男子生徒は、私達の誰をも知らなかったことになるんだよ。これっておかしいよね? だって、顔も名前も知らない三人組の前に飛び出て、謀略を仕掛けようだなんて、明らかに無謀すぎるよ。こんな危険な行為、せめて上手くいくと思えるくらいの材料がないと出来ないって。で、私の思う材料というのは、あなたが人食家であるという、ネタなんだ。」
「あなたは、私の主張における、彼と私との間に面識がないということを不自然に思い、これを足がかりとして私の不誠実、つまり、嘘を証明しようとしてらっしゃるのでしょうが、一つ忠告しましょう、我々と直接の面識がないことと、我々を強請(ゆす)るネタがないことは、イコールではありませんよ。どこかの誰かから、適当なことを吹き込まれたのかもしれません。」
「違う、そんな訳がない。彼は確かに美舟さんだけを知っていたんだ。」
「なぜそんなことが言いきれるのです?」
「憶えてる? 彼が、私達のことを何と呼んでいたか。」
竿漕さんは、片方の眉を上げ、正直な言葉なのかどうかは分からないが、とにかくこう言った。
「全く。興味もありませんでしたので。」
「彼は、美舟、箱卸、簑毛、と私達をそれぞれ呼んだんだよ。」
「はあ、それが?」
「あなただけ下の名前で、私と圭人君は苗字だ。これってどういう意味かな。」
「そんなこと知りませんよ。彼が何故か私のことを親しく感じたのではないですか。」
箱卸さんはまた頭(かぶり)を振って、
「違う。この呼称には共通点があるんだよ。いい? あの場で圭人君は一言も発さずに、私と美舟さんが喋っていただけだった。」
「そうですね。」
「すなわち、あなたのことは私が〝美舟〟と呼んで、簑毛君が黙っていた以上、誰も〝竿漕〟とは呼ばなかった。そして、私達の中で、皆のことを下の名前で呼びかけているのって、私くらいだよね。つまり、私は圭人君に話しかけなかったし、自分で自分の名前を指すこともしなかったから、圭人君は〝簑毛〟、私は〝箱卸〟としか呼ばれていないんだ、つまりはあなたからだけなんだ。」
竿漕さんが眉根を寄せる。
箱卸さんは手を緩めない。
「つまり、あの男子生徒は、私達が目の前で行っていた会話から盗み聞いた呼称をそのまま使っていたんだよ。そもそも、〝ミノモ〟や〝ミノリ〟が上の名前か下の名前かすら確定出来てなかったかもしれない。――流石に私の〝ハコオロシ〟は、苗字だと思ったろうけれども。
となると、美舟さんが言うことはおかしいんだ。彼が私達を騙くらかすネタを聞き知っていたんなら、
この、彼が名前を知らなかったのにも拘(かか)わらず私達に工作を試みた、不審で無謀な行為の説明は一つしかない。彼は私達の内の誰かの姿だけを知っていたんだ。それも、あの口調からすれば、こっそり一方的に見たのではなく、互いにしっかりと姿を見知っている筈。その見知った相手とは、勿論私ではないから、あなたか圭人君のどちらかで、……アイツがあなたに話しかけたことと、あなたのおかしな振舞を考えれば、結局それは、あなたしか有り得ないんだ、美舟さん!
そしてかつて彼と見知った時、その瞬間に、きっとあなたは耽っていたんだ、……人食行為に!」
竿漕さんはこめかみの辺りをぴくりとさせたが、しかし、それだけだった。つまり、その剣幕は相変わらずで、
「本当に、あなたの話は馬鹿馬鹿しいですよ。全て憶測ではないですか。……ねえ、簑毛君!」
圧倒されていた僕は、急な問いかけに驚かされる。
「あなたは良いんですか? こんな、憶測に憶測を重ねた、砂の城に、あなたは命運を預けられるのですか? あなた達二人でこの先を戦い抜くという、リスクは、この箱卸さんの語る根拠無き……すなわち全く無意味なロジックによって負っていいものでしょうか! そんなわけがないでしょう!
さあ、あなたも手伝って下さい。箱卸さんは平静さを失っているだけなのですよ。また彼女を安心させて、我々は一致団結しないといけません。」
「あんな言葉に耳を貸さないで、圭人君。」箱卸さんが言う。「彼女は食人鬼だよ。絶対間違いない。私達は、彼女達と戦わないといけない。」
竿漕さんの声音は、とうとう、背負う窓硝子を揺るがすほどになった。
「箱卸沙保里さん! いい加減になさい! 今ならぎりぎりで許しますが、これ以上の誹謗は私といえども本当に許しませんよ! いくら何でも度を越しています! そんな、何の証拠もなく、」
「あるよ。」
竿漕さんは怪訝げに、
「はあ?」
「証拠ならある、多分ね。」
「はあーそうですかー、……馬鹿げたことを!! あなたは! 先程、証拠など何もないと! 仰っていたでしょう!」
「そんなこと言ってないよ。まっとうな証拠なんてなくても良い、とは言ったかもしれないけれども、証拠が無いとは言っていない。」
この言葉を聞かされて竿漕さんは少し黙り、その後笑った。より深く鼻翼の両脇に刻まれる翳りから、興奮と苛立ちと悪意が遺憾なく滲み出ている笑顔。こんな恐ろしい笑顔を、僕は見たことがない。
「では、その証拠とやらを見せて下さいよ、箱卸さん。」
「違うよ。」
少し間があって、
「はあ?」
「証拠を見せるのは私じゃない、美舟さん、あなただよ。だって、あなたが証拠を持ったままなのだもの。
私さっき見てしまったんだ。あなたが穿いている、制服のスカート、その、真っ正面のあたりの襞の内側に、べったりと脂肪がくっついているのを。……こんな生活を続けているから、今更見紛わないよ。あれは確かに脂肪だった。そして、この環境で出会す脂肪ということは、それは人間のものだ。きっとあなたが直近に食した人間のものだ。」
竿漕さんは、その笑顔を、世にも恐ろしいものから尋常なものに切り替えつつ、
「馬鹿馬鹿しい張ったり、鎌かけですね。それを聞いた私が狼狽えるとでも思ったのですか?」
「じゃあ、上着を脱いで、スカートがよく見えるようにしてから、その襞を捲って見せてよ。当然出来るでしょ?」
竿漕さんの笑顔は、尋常な微笑みから、とうとうとびっきりの笑顔となって、
「勿論ですとも、それであなたのふざけた妄言を封じることが出来るのならば、お安い御用です。」
彼女はそう言いきると、上着のボタンを外し、ワイシャツ姿を露にした。白いシャツは黒っぽい上着やスカートと異なって、忌まわしい染みをそこら中に映えさせている。
彼女の手はスカートに及び、蓮っ葉な調子で襞を撮み、そして開いた。
「ほら、どうですか? 何もないでしょう?」
しかし、彼女の顔は怪訝そうになった。恐らく、勝ち誇った箱卸さんの顔と、僕の、愕然とする顔を見つけたからだろう。彼女はそんな顔のまま、襞を摑んだ右手を自分の顔の方に持っていき、……そこで認めた筈だ。自分の指に、べったりと黄色い脂肪がついていることを。
竿漕さんは、行儀などなりふり構わず、自分のスカートを捲り上げて、そこにもしっかりと脂肪が付着していることを確かめると、わなわなと、目と口を全開にして、過呼吸気味となり、言葉を失った。しばらく僕が茫然と見つめていると、ようやく彼女は、
「な、なんで、どうして、あんなに気をつけたのに、……シャワーすら浴びて、その時に服のチェックもしたのに! そもそも、え? なんで、……なんでこんな場所に!?」
箱卸さんは、にやりとして、
「何でか知りたい?」
目を見開いたまま唖然として佇む竿漕さんの様を、肯定と取った箱卸さんが、
「御免ね、それ、私がさっきつけたんだ。」
少しの沈黙があり、
「はあ?!」
「あの男子生徒と出会った後で、死体に出会したよね? そこでこっそり、脂肪分を握り込んだんだ。あの死体はいろんなものが露(あらわ)になるほど凄惨だったから、簡単だったよ。勿論多少は不愉快だったけれども、まあ、それだけだった。わたしもここでの生活長いしね、既に
そしてその後で、転ぶ振りをして、あなたのスカートに脂肪をなすりつける、と。」
彼女はそう言うと、左手を開いた。露になった手の平では、べとべととした油、あるいは脂らしきものが、鰤の切り身のようにてらてら光っている。
「だからさ、あなたの後片づけは完璧だったし、その脂肪の付着は私の捏造。
もしもこれが裁判だったら、卑怯な誘導尋問と言うことでその供述は無効な証拠になるだろうけれども、でもこれは裁判じゃないんだ。正しければ何を根拠にしても良い。そう、
僕は二人の女性に関して、全く信じられなかった。箱卸さんが、ここまで聡明で、かつここまで強かな人であったというのも大きな驚きだし、そして、何よりも、……何よりも!
僕はやっとのことで、絞り出すように言った。
「竿漕さん、君は、本当に?」
彼女は、縁日で売られるお面のような驚愕顔を、目を閉じることで打ち消した。そのままたっぷりと黙り込み、再び目を開ける頃には、いつもの竿漕さんらしい、余裕の笑みを湛えつつ、
「まあ、そうですね。その通りですよ。」
僕はぶるっと身顫いしてから、
「一体、何時(いつ)から、」
「さあ? 大分前からですね、」
「少なくとも、」箱卸さんが言う。「私が感づいた時期よりはずっと前、間違いないかな?」
竿漕さんは頷いた。
「その通りです。その頃には、すっかり吹っ切れていましたからね。……さて箱卸さん、色々と問答を繰り広げてきましたが、で、それがなんだと言うのですかあなたは?」
僕が堪らずに挟(さしはさ)まる。
「どういう意味?」
竿漕さんは、その目を流すように僕に向けて、
「言葉の通りですよ、簑毛君。私と武智君と筒丸さんは、人を喰らっていました。……で? それで? それがどうしたと言うのですか?
確かに、尋常の状況では、人の死体を糧とするのは忌み嫌うべき行為でしょう。しかし、今この状況は明らかに尋常ではないのです。いいですか? あなたや箱卸さんがどう思っているのかは知りませんが、私は、是が非にでも生還したいと思っているのですよ。そう、ヴィールスに感染するとは運が悪かったね、などという、下らない理由で死にたくないのですよ。……そもそも! あなた達もそう思うからここに来たのでしょう? 自分の命の為に、他者を殺める覚悟を携えつ!」
顔を上気させ始めた竿漕さんは、僕や箱卸さんからの返事など待たずに続けた。
「そう、私達は泥水を啜ってでも生き延びると誓っている筈なのです、事実、数もしれぬ回の禁忌、つまり殺人を犯してここまで生き延びてきているのです。簑毛君、あなたも先日、一人の男性の命をこともなげに奪ったばかりではないですか!」
僕は、あの時の、竿漕さん筒丸さんと一緒に一組の男女を打ち破った時のことを思い出した。いつからだろう、あの時の様に、人の体を断ち切っても一切感情を揺さぶられなくなったのは。精々、これでしばらく糊口を凌げる、と思うだけになったのは。
竿漕さんは少しだけ穏やかな顔になって、
「では、今更さらなる禁忌を一つばかり重ねたところでなんになると言うのでしょう。既に我々は皆殺人鬼です、この上で、その、箱卸さんの仰るところの〝食人鬼〟とやらになったところで何が困りますか? 寧ろ、そんな下らない躊躇などの為に死んでは、我々が今日まで生き延びる糧とする為に殺めてきた方々に申し訳が立たないでしょう。そう、彼らに報いる為にも、彼らの骨の髄までしゃぶり尽くすべきなのです! ……ああいえ、」
竿漕さんは、まるで小洒落た皮肉でも零すかのような調子で、
「物のたとえです、実際には骨髄など食しませんが。脚の肉が最近の我々の好みでしたね。」
僕は思わず顔を顰めた。
「ねえ、一つ聞いても良い?」と箱卸さん。
「何なりと。」
「あなたは、人食なんて今更なんてことのないことだと言うけれども、じゃあ、何でこれまで私達に対してひた隠してきたの?」
「これは、怜悧なあなたらしくない質問ですね。」
「さっきは馬鹿だって言ってきたくせに。」
「その節は失礼、言葉の弾みですよ。実際、あれ程の幽き情報から真実を射止め、そして、この私を罠に嵌めるだなんて、箱卸さん、あなたは何と聡明な方なのでしょう。しかもその推理の仕上げと罠の着想と準備は、あの男と出会った後の、ほんの僅かな時間の内になさったのですよね。いやはや、感服致します。今私が一所懸命に話しているのは、そんなあなたや、また非常に頼もしい戦士である簑毛君と、この先も協力したいからなのです。」
「少なくとも、私は死んでも御免だけれどもね。」
「それは残念。ところで箱卸さん、このサバイバルにおいては、〝死んでも〟という表現を無責任に使うべきではないですよ。」
「分かってるよ。私はこう言ってるんだ。あなたと組むくらいなら、死んだ方がマシだって。」
竿漕さんは笑って、
「随分嫌われたものですね。」
「御免。正直、人食云々の前に、あなたのことは初めから好かなかったよ。」
「うすうす存じ上げておりましたとも。」
「それはよかった。ところで、質問に答えてよ。人食行為が正しいのなら、何故、今まで秘密にしてきたの?」
「今さっきのあなたの態度が答えですよ。私が人食者であることを知ったあなたは、私の事を……
「理解は出来るけれども、感謝はしないよ。苦労したんだから有り難がれだなんて、随分と手前勝手な話だもの。」
「今日のあなたは随分とはっきりものを仰いますね。まあ、私としてもその方が快いですが。とにかくそういうことです。このような仲違いを防ぐ為に、私達は懸命に秘匿したのですよ。我々の食事情を。」
「本当にそうかな。」
「どういう意味ですか?」
「それだけの理由で食人行為のことを隠していたのなら、あの、さっきの男子高校生に遭遇した時の美舟さんの様子は、いくら何でも取り乱し過ぎなんじゃないかな。
本当は、美舟さんもうすうす、人の肉を喰らうことに関して後ろめたさを憶えているんじゃないの? それで、曝露されかけた時に、慌てふためいた、と。」
「成る程。それで? もし、そうだとしたら? わざわざ確かめようとしているのですから、何かあなたにとって意味のある話なのですよね。」
「大有りだよ。もしもそうだとしたら、ここで訣別した後、あなた達は私達をこの上なく敵視するでしょう? だって、忌まわしい事実を知っているのは私と圭人君と、あとはあのよく分からない男子高校生くらいだけど、この内の一人でも生還させればあなた達の行為は白日の下に晒されるかもしれないんだから。もしそうなったら、勿論罪なんかには問われないけれども、それでも、食人鬼のレッテルを貼られた人生を送ることを余儀なくされるかもしれない。あなた達がそれに耐えられないと考えるのならば、私や圭人君を是が非でも殺したくなる、と。この予想が真実なのかどうかを確かめておきたいんだよ。今後、呉越同舟のチャンスくらいはあるのか、それとも既に不倶戴天の仲なのか。
まあ、もしもあなた達が要求するのであれば、食人行為に対して私は生還後も一生口を噤む、と誓っても良いけれどもね。正直、自分から話したいことでもないし。」
少し間を置いてから、竿漕さんは莞爾として笑った。
「御安心下さい。もしもあなたや簑毛君が我々の元を去ると言うのであれば、その瞬間から、あなた達は
箱卸さんは眉を吊り上げて、
「諒解。じゃあ、どうでもいいや。」
「それよりもあなた、」今度は竿漕さんから彼女に問いかける。「あなたは先程から、勝手に、簑毛君があなたについて行くと断定していますが、」
「それこそ言葉の綾だよ。一々『私あるいは私達』なんて言ってたら煩わしいじゃない。分かってるよ、圭人君の命運は圭人君が決めることだ。」
竿漕さんは僕と箱卸さんの顔を代わる代わる見て、言った。
「ならば宜しいです。では、決めてもらいましょう簑毛君。宜しいですか? 私が主張しているのは、我々は、我々自身の為にも、ここまで斬り伏せてきた他生徒の為にも、絶対に生き残らねばならないということです。そう、勝ち残らねばなりません。しかし、〝ジャック〟のような武闘派でない我々の所持ポイントは、決して多くなく、更にこの先自動販売機の値上げも予告されている以上、今のポイント不足は焦眉の急なのです。一刻も早く解決せねばならない問題なのです。ならば、無駄にポイントを使う道理など全くありません、出来る限りで節約しなければなりません。さすれば、数知れぬ命を奪ってきた我々が、殺人よりも余程軽い行為、人食を躊躇うとは何事でしょう。無意味で無価値な嫌悪感、罪悪感で生存確率を毀つなど、決して許されません。ましてや、その為に仲違いして勝手に窮するなど、言語道断です。あなたが箱卸さんとただならず親しいのはうすうす理解していますが、しかし簑毛君、生き残らなければ話にならないのです。……いえ、寧ろ、あなたが残ると言って下されば、箱卸さんを説き伏せることすらも可能かもしれません。その場合、勿論、今日の彼女の無礼な物言いは全て水に流します、何せ私も歯に衣着せぬ方(ほう)ですから。
簑毛君、お願いです、あなたを軽蔑させないで下さい。あなたの理性に相応しい、論理的な行動を取って下さい。正しい選択をして下さい。」
彼女は満足げに言葉を一度切って、
「さあ、あなたからも何か仰ったらどうですか、箱卸さん。簑毛君をあなたの望む方へ説き伏せて見せて下さい。もしも可能であるならばね。」
そう言ってから思い出したように、
「ああ、簑毛君。一つだけ付け加えますと、この先も我々と共に歩むにしても、必ずしもあなたや箱卸さんに人肉を食せなどと命ずる気はありませんよ。寧ろ、状況においては、そうして浮いた私達三人のポイントによって、あなた達の尋常な食生活を助けられるかもしれません。あなた達はただ、私達の哲学を許容して下さればいいのです。共感や追従までは求めません。……勿論、それが一番望ましいですが、無理はさせません。」
長口上を終えつつある竿漕さんは、彫像のようにまっすぐに立って、返した手の平で僕の横の女性を指し示す。
「さあ、今度こそあなたの番です。箱卸さん。」
僕は、竿漕さんの話を聞いていて、正直、迷っていた。確かに、彼女の言うことももっともで、今更嫌悪感や道徳心に苛まれる必要などあるのだろうか。人も殺しても全くの無感動となった僕に、そんな、贅沢な感情、そして、贅沢故の敗北が許されるのだろうか。
それに、彼女は、僕に人食を強要しないとも言っている。ならば、竿漕さんの弁に一定の正しさがある以上、僕が彼らの元を去る必要は無いのではないか? そもそも、五人でも危うかったのに、箱卸さんと二人きりでこの先戦い抜けるのであろうか? きっと、無茶だ。無謀だ。ならば、精いっぱい箱卸さんを説得した方がいいんじゃないだろうか。生き残る為に。しかし、それに失敗すれば、彼女を一人きりにすることになる。それは、見殺すのと同義だ。
悩める僕がふと箱卸さんの顔を見ようとしたところ、途端に目が合った。つまり、彼女は、ずっと僕の顔を見つめていたのだろう。
その口が動き出す。
「圭人君、悩んでるんだね。分かるよ、私もそうだったから。美舟さん達が人肉を食べているからと言って、私に責める義理が、権利があるのだろうかと、……寧ろ、尊厳を抛ってまで懸命に生き延びようとしている彼女達の方がよっぽど崇高なんじゃないかと、私も一時期悩んでいたんだ。
でもね、あることに気が付いてから、私のそんな感情はまるきりどこかに行ってしまったんだ。今私は、美舟さんを全力で軽蔑し、嫌悪し、憎悪している。
寧ろ私から言っておくべきだった。アンタ達はこれ以降完全な敵だよ、美舟さん。」
この箱卸さんからの意趣返しに竿漕さんは、目を閉じて、ふん、と笑って見せるものであった。しかし、そんなことよりも、
「箱卸さん、その、君の心を変えた『あること』というのは何?」
彼女は、また僕の顔をじっと見てから、意を決した。
「じゃあ、言うよ。ねえ、圭人君、憶えてるかな。美鈴さんが殺されたすぐ後、五人全員で話し合った時のことを。私が泣き出したり腹の音を響かせたりしたんだけれども。」
「憶えているよ。」
「それはよかった。じゃあ、その話し合いが終わった後のことも憶えてる?」
「忘れる訳がない。君が初めて、例の疑懼、竿漕さん達への不信を僕に相談したんだよね。」
箱卸さんは首を振った。
「それじゃない。もう少し前の話だよ。恵君が、美鈴さんの死体のことを妙に気にかけたよね?」
ここまで聞かされて僕ははっとした。……まさか! 待ってくれ、いや、しかし、
箱卸さんの言葉は止まってくれなかった。
「で、あの時に、美鈴さんの死んだ姿を見に行くというときに、どうも恵君は美舟さんと桃華さんを連れていくべきだと思ってたみたいだった。そして、その後で一度残りかけた美舟さんはこう言ったんだ、『今度の機会には私に融通して下さい。』と。あの時、『命懸けで遺体を拝みに行く必要が本当にあるのだろうか。』と訝ってた私は、この不自然な言葉が――また美舟さんの悪趣味な言葉遊びかなとも思いつつ――妙に気になって、なんとなく忘れてなかったんだけれども、最近ようやくその意味が分かってしまったんだよ。実は、不自然でも何でもない言葉だったんだ。
どう、圭人君? これら三つの事実、節さんの死体にあの三人が興味を示したこと。あの三人がそこへ一緒に連れ立ったこと。そして、美舟さんが残るとしたら――恐らく代価として――彼女に何かを
僕は、化け物でも見るような気持ちで、しかし、同時に縋るような気持ちで、竿漕さんの方を見た。否定して欲しかったのだ。
彼女は一言だけ、天気のことでも語るかのような調子で、
「節さんは直前に散々飢えていらっしゃいましたからね。脂が少なく、残念ながら私の好みではありませんでしたよ。」
気が付くと、僕の手が重くなっていた。自分でも気が付かぬうちに、聖具を構えていたのだ、目の前の女に向かって。
刃を差し向けられた竿漕は眉一つ動かさず、
「それがあなたの答えですか。残念ですね、簑毛君。」
「何処まで節操がないんだ! あの日まで寝食を共にし、戦ってきた仲間を、一切の躊躇もなしに!」
「だからどうしたと言うのですか? 節さんはどうせ死んでしまっていたのですよ。今更その空っぽな肉体から少々失敬したところで、」
「黙れ、人の心を無くした鬼め!」
竿漕の表情が凍りつく。断じて、彼女が戦いたのではない。寧ろ、殺意を研ぎ澄ましたかのような顔だ。
「完全に幻滅しましたよ。もう良いです、もう口説きません。まさか、あなたがそれほど非論理的な方だとは、」
「論理がどうとか、そんな話じゃないんだよ!」
竿漕は最早笑わなかった。箱卸さんは同じく聖具を構えて、僕にぴったり身を寄せてくる。そんな臨戦態勢の僕らに、竿漕は、
「申し訳ないのですが、会話の通じない相手と顔を突き合わせる趣味は私にありません。しかし、もう少し我慢して、最後のやり取りをせねばならないでしょう。
我々の間に隠し球はありません。このまま戦えば、結果は見えています。恐らく私は殺され、しかし、その前にあなたか箱卸さんのどちらかを絶命、あるいは手痛く負傷たらしめるでしょう。まあ、このサバイバルでは、重症も死亡も殆ど同じ結果というのは、分かって頂けると思いますが。
つまり、今ここで我々が戦うのは、双方にとって不利益です。勝負は次に会った時としませんか? 私達三人があなた達を追い、あなた達がそこから逃げきるか、という戦い。あるいは、あなた達が周到な準備によって我々三人を罠に嵌め、撃破するかという戦い。いずれにせよ、勝者が無事で済む可能性のあるこういった戦いの方が、この場での野蛮な殴り合いよりは望ましい。そう思いませんか?」
僕は少し考えてから言った。
「分かった。この場はただ別れよう。」
竿漕は気取った調子で左手を舞わせ、出口の扉を示した。きっと、彼女の諧謔を見るのもこれが最後だろう。
「では、レディ・アンド・ジェントルマン。御退場下さい。」
「いや、出て行くのはアンタだよ。」
そのままの姿勢で片眉を上げる竿漕へ、箱卸さんが続けた。
「竿漕、アンタの聖具は遠的攻撃が出来るじゃない。それで、後ろから攻撃されたら堪ったものじゃないよ。だから、アンタが出ていって。」
竿漕は不満げに顔を歪めたが、結局、諦めたような表情で、
「独り身で出歩いては危険ですから、あなた達が出ていった後でここに武智君達を呼ぶつもりだったのですがね。しかしまあ、ここで交渉決裂して死ぬわけにも行きませんし、大人しく従わせて頂きましょう。」
彼女は大きな聖具を背負ってしっかりと歩いていき、扉に手を掛けた。そこで僕から話しかける。
「竿漕さん。最後にお願いがあるんだけれども。」
彼女は振り返らずに、横顔を晒したままで、
「なんですか、簑毛君?」
「出て行くついでに、電気を消していってもらえないかな。」
竿漕が、仏頂面を崩して笑う。
「その諧謔、気に入りましたよ、簑毛君。あなたのことを先程幻滅したと申し上げましたが、再び、少しだけ見直させて頂きます。」
彼女が、パチパチと電燈のスイッチを切り替えると、時刻に相応しく、部屋の中が真っ暗になった。そして扉が開かれる。廊下の蛍光燈からの青白い光を浴びる彼女の姿は、室内の闇へ向かって光の糸を無数に引いており、神々しくすら見えた。
竿漕が、部屋を出る間際に少し振り返って、
「今度会う時は敵同士です。お手柔らかに。」
そして扉が閉められる。僕と箱卸さんは、単純な闇の中に取り残された。
明かりを落としたのは、外から僕達の存在を察せられないようにする為だ。故に僕と箱卸さんは、竿漕がどこか遠くまで離れたと確信出来るまで、この闇の帳の中で過ごすことになる。そもそも、あまりにも疲れて、部屋を移る気になれなかったと言うのもいくらかあるけれども。
僕と箱卸さんは、闇の中探り探りで壁まで辿り着き、睦まじく居並んだ。視界を失って冴えた僕の肌が、すぐ隣の箱卸さんの熱を敏感に感じ取る中、同じく冴えた僕の耳に、彼女の声が響いて来る。
「有り難う、圭人君。良かったよ、君が私と同じように考えてくれて。不安だったんだ。彼女、美舟さんの言い分もまるきり間違っているわけじゃないから、もしかすると、圭人君があっちについてしまうかもしれないって。」
僕は返答に困った。確かにそうだ。竿漕さんの言ったことも、ある意味では正しい。仲間の肉を喰らってでも生き延びようとする態度、無条件に責めるわけには行かないだろう。仲間の死を無駄にせず懸命に生き抜こうとするという意味では、正しいとすら言えるかもしれない。これは、林檎を十個盗むのは一つの林檎を盗むよりも悪いとか、そんな簡単な話と違って、とても難しい、禅問答というか、哲学的な話だ。
では結局何が僕の態度を、選択を、決定づけたのか。それは、竿漕さんからの、仲間の肉を喰らったと言う白状を聞いた時に僕が憶えた原始的な怒りと、そして、僕から箱卸さんへの想いだった。あの怒りは短絡的な性質のものだったので、一応は一度(ひとたび)僕の心の中で障壁を打ち据えたものの、でもきっと、あれ単独では、その堆い障壁を越えること能わずに、僕の心の水面は、また、どっちつかずの領域で、元の水位にゆらゆらと戻っただろう。つまり、決断をする前に、怒りが引いてしまっただろう。しかしあの怒りは単独ではなかった、僕の心には、箱卸さんの身を案ずる意志があらかじめ存在していたのだった。この意志が、すなわち、彼女への想いが、バイアスとなり、障壁を傾け、波濤がそれを越えるのを助けたのだ。つまり僕は、箱卸さんを想うが故に、あの場で啖呵を切ることになった、それが正しいかどうかを判断する前にだ。一度竿漕を糾弾した手前、引っ込みがつかず、そして、彼女からの感情的な反駁と、僕からの安直な罵詈と、加えて、身を寄せてくる箱卸さんの存在が、全て触媒となって、僕の心の海水は、結局全て、竿漕を誹り、箱卸さんに与する方向へ雪崩込んだのだ。
つまり、僕が箱卸さんに味方することになったのには、多くの綾が絡んでおり、半ば、たまたまだ。しかし後悔はしていない。こうなったら絶対に、箱卸さんを僕が守って見せる。最後まで、生き延びて見せる。
僕はこうしてうだうだと考え込み、しばらくおし黙ってしまったが、しかし、箱卸さんからは特に返事をねだられないでいる。訝った僕が彼女のほうに視線をやると、少しずつ闇に慣れてきた僕の目を信じれば、彼女は既に寝入ってしまっているようだった。彼女は少し前に睡眠を取っていた筈なのだけれども、その時によく眠れなかったのだろうか、とても深い眠りのように見える。
本当は早い内にこの部屋を離れるべきなのだけれども、何となく、しばらくこのままで居たかった僕は、壁に体重を預ける彼女の身を、少し引き寄せて、僕の体へ寄りかからせた。箱卸さんの寝息が肌にかかるのを感じる。壁にすら嫉妬を感じるくらいに疲れていた僕は、うっかり、そのままうつらうつらと、
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