60節から61節

60 葦原組、躑躅森馨之助

 俺はその後、あの場で見た忌まわしい光景を思い返していた。実際に見せられてみれば、まあ、そういうことをする奴が出てくるのも納得だが、しかし、それまでは夢にも思わなかったことだった。いや寧ろ、今夜あたり早速夢に出そうな光景だよな(何と言う悪夢か!)。

 しばらくはその場面自体を、反芻するように繰り返し思い返すだけであったが、ふと、その前後に纏わった光景が気になり始めた。まず、奴らの一人が俺の気が付いた時のあの顔。まるで慌てふためいているようであった。俺は当然、不意を衝かれたことによる動揺がそのおもてに現れていると想像したのであったが、しかし、奴が見せたもう一つの表情と合わせて考えてみると、おかしいこともある。

 もう一つの表情、すなわち、俺がアイツらの気が付いた直後に、奴が改めて見せた表情だ。あの顔から見て取れたのは狼狽なんかではない、単純な、激しい忿怒だった。つまりアイツは、俺があれを見知ったことで怒り狂ったことになる。すると、第一の表情の意味も変わってくるんじゃないか? つまり、敵と遭遇したことによって慌てたのではなく、あれを悟られたくないが為に慌てたのでは。

 もしそうだとすると、あの行為は知られたくない秘密というだったということになる訳だが、しかし、この、社会から断絶された超閉鎖空間、あるいは、五十名弱からなる超極ごく小社会において、今更誰に対して秘密にするんだ? 勿論、アイツら三人の中では知ったことなのだし、はて、

 廊下をぶらつきながらの俺の思索は、そこで中断させられた。角を曲がろうとして、いつもの習慣として無意識に、その先を密偵のように覗き込んだところで、人影を見つけたからだ。

 俺は急いで隠れ直し、今認めた人影について頭の中で精査した。数は三つ、男一人に女二人だった気がする。そしてその内の一人が、見憶えのあるものを、決して見紛いようのないものを携えていた。いや、携えるという表現は不適当なのかもしれない、何せ背丈よりも大きいのだから。しかし、アイツ、よくもまああんなデカイものを抱えながら俺のことを追いかけたものだ。

 ここで俺はふと気が付いて、もう一度だけ、角の先をちらと、いや、しっかりと覗いた。あの馬鹿でかい聖具を持った奴は、うん、間違いない、今さっきまで俺が考えていた光景の登場人物、すなわち、俺をどこかの十二階で追い掛け回してきた奴だ。しかし、残りの二人はどうやら違うぞ。髪形も顔つきも、持っている聖具も、あんなものではなかった筈だ、あの、忌まわしい光景を繰り広げていた三人組のうちの残る二人は。

 ここで、先程に俺が考えていたことがふと呼び起こされ、今現在俺が考えていることと重なり、見事に調和した。そうか、もしかすると、

 俺は近くの窓から外を眺め、ここの階数を確かめた。外燈と思しき物体が、まるで爪楊枝か何かのように見える。よし、高さは十分。ここは俺にとって安全だ。ならば賭けに出るのも悪くない。

 俺は徐ら角の先に出て、自らの身を人影達に対してあらわにした。


「よう、久しぶりだな。」

 俺がそう言うと、三人はこちらを見やり、おのおの聖具を構えた。こうしてまともに眺めてみると、やはり、あの女の巨大杓文字だけが見憶えのある代物で、残り二人の、異常に長い庖丁と異常に大きい鍋蓋は見知らぬものだ。当然、持ち主にも見憶えがない。庖丁の男と鍋蓋の女は、それぞれ、真剣な、しかし、怪訝な表情をこちらに見せている。そりゃそうだろう、いきなり見知らぬ奴から友好的に話しかけられるという異常事態に見舞われたのだから、戦闘に対して最大限備えつつ、かつ、この不可解な状況を解釈すべく頭を働かさねばならない。

 さて、そうなると、杓文字の女は違う表情を見せてくれて然るべきだ。俺がそう思いながら目をやると、案の定、そいつ一人だけが、明らかに深く動揺していた。丁度、俺との初対面の瞬間にも見せた、あの顔だ。

 その口から、あの時と同様に、おかしなイントネーションの言葉が転げ出てくる。

「あてがいなことをいうなまだらま、おまえとうちらと、みしったことなどあらんぞいや!」

 相変わらず何を言っているのかいまいち分からんな、と俺が思っていると、向こうの残る二人も首を曲げ、信じられないものを見るかのような表情で杓文字女を見つめていた。

「み、美舟さん。何を言っているの?」

 そう鍋蓋の女に話しかけられた杓文字の女は、はっとした表情となり、わざとらしく咳き込んでから、

「失礼、郷里の言葉が出てしまいました。……ええっと、そう、とにかく、いい加減なことを仰らないで下さいませんか、あなた? あなたと私達が出会ったことなどないでしょう?」

 ああ、成る程、動揺して方言が出たのか。となると、俺の推測はやはり正しいのかもしれない。今この瞬間と、あの時と、それぞれにおいて同じ種類の動揺が発生すると言うのであれば。

 俺は、杓文字の女の狼狽えにつけ込むべく、急いで言葉を返した。

「不細工な空とぼけは止めようぜ、ええっと、ミノリというのかな? 確かにこの間、近くの棟で会ったばかりじゃないか。憶えているだろ、俺の大ジャンプをよ。」

「知りませんね。」

 俺は、生来通りの悪い鼻を鳴らして、

「まあミノリよ、別にお前と仲よくなる為に出てきた訳じゃないから、それについてはどうでもいいさ。俺がわざわざ身を晒したのは、そう、そっちのお二人と話をする為さ。」

 ミノリと呼ばれた女は、目を円かにし、その丸い目を、俺が指さした二人へと向けた。そいつは早い口調で、ところどころで舌を縺れさせながら言葉を発する。

「簑毛君、箱卸さん、一刻も早くこの愚か者を討たねばなりません。悪辣な蜚語に耳など貸してはいけません、さあ、仕掛けますよ!」

 こう言われた二人のうち、男の方、恐らくはミノモと呼ばれた方は悩ましげにたじろいだが、しかし、鍋蓋の女、ハコオロシと呼ばれた方は微動だにしなかった。その聖具を真正面に掲げたまま、俺の顔をじっと見つめてくる。

 ミノリはますます聞き取り辛い口調で、

「箱卸さん、何をなさっているのです、さあ!」

 しかしハコオロシは動かない。ミノリのほうに視線を寄越すことすらしなかった。ただ、じっと俺を見据えている。

「いや、」彼女が神妙に口を開く。「私は、あの人の言うことを是非聞いてみたいな。」

「何を、世迷言を、いけません、箱卸さん。」

 ハコオロシはやはりミノリの方へ一瞥もくれず、ただ顎を軽く上げて見せることで、ミノリへ応じていることを表しながら、

「美舟さん、あなたの態度はさっきからおかしいよ。どうしたと言うの? 美舟さんも、あの人とは初対面なんでしょ? ということは、まだ、彼が何を言うかも分かっていないのに、あなたはそんなに必死になっているということになってしまうけれども、それは、一体どういうことなのかな。」

 ミノリは顔を険しくして、相変わらずハコオロシの方を向いたまま、

「何を仰るのですか、箱卸さん! 流言というのは、それの侵入を最初僅かにでも許してしまえば、たちまち毒となり、そう、丁度土塁が決壊するように、後はいくらでも流れ込み、傍若無人に害を為すものです! 最初が肝腎なのです。」

 対照的にハコオロシは、相変わらず神妙な顔つきで、相変わらずこっちを向いて、仲間へ一瞥もくれぬまま、

「悪いけど、意味不明だよ美舟さん。もっともらしい言辞や比喩を並べればいいというものじゃない。あの人の話を聞いたくらいでなんなの? それが確実な話なら、利用すればいいし、僅かにでも疑わしいのなら、忘れればいい、それだけでしょ? あなたの言う、一度耳に入れただけでどんどん危険が増幅すると言う話は、意味が全く分からない、想像も出来ない、理解も出来ない。」

 ミノリと呼ばれている杓文字女は、この、ハコオロシの忌憚のない切り返しを受けて、口元を歪めながら言葉に窮し、目を見開いたまま黙り込んだ。この二人に挟まれている庖丁の男、ミノモは、左右に目を游がせて、どうしたものか悩んでいるようだ。

 何にせよ、向こうの一人が聞く気となり、聞かぬ気の女は黙り込んだのだ。俺は好機と見て口を開く。

「端的に話そう。ハコオロシにミノモ、聞いてくれ。その女、ミノリと他に二人の、」

 俺の言葉はここで中断させられた、ミノリが、突然大音声だいおんじょうを発しながら、聖具を振りかぶったからである。

「貴様ぁ、黙れぇぇえぇ!」

 この距離で何をするのかと思う俺の前で、杓文字の女は、その持ち上げた聖具を思い切り、ゴルフのティーショットの様に振り下ろした。そのまま、本当のゴルフであれば、「ダフ」と呼ばれて一笑される、地面を叩きつける行為、女はそれを犯したが、しかし、ここはゴルフ場ではなく、また、あの杓文字は聖具であった。故に、芝生よりもずっと頑強な筈の床建材を、女の杓文字は、まさに飯をよそうかのように軽々と破壊し、そのまま俺の方へ無数の破片として迸らせてきたのだ。

 俺は目を剥いて、さっきの角を曲がって身を隠す。致命的な破片が俺の居たあたりを通過すると同時に、「待てぇ!」という、あの女の声が響いてくる。殺される! そう思った俺は、一も二もなく手近な窓を開き、そのまま飛び降りた。

 

61 彼方組、鉄穴凛子

 鏑木があからさまにイライラしている。決して身勝手な苛立ちではなく、仲間のことを思っての感情だ。

 彼女が言葉を吐いた。

「アイツはどうしたのよ、銅座は、何で帰ってこないの?」

 彼方君は座り込んで、自分の端末を弄りながら、

「相変わらず、銅座へ通信を打診すること自体は可能なようだ。例えば針生への通信は、そもそも端末画面に通信先として針生が表示されないから不可能だというのに。つまり、銅座は決して死亡していない、生きている。」

 鏑木が彼方君の方へ振り返った。苛立ちが声を強くしているらしい。

「そんなことは分かっているわよ、でも、じゃあなんで銅座は、帰ってこず、聯絡も寄越さず、こっちから通信しようとしても応じないのよ!」

 銀杏君が呟く。

「瀕死の重傷、とか?」

 釘抜君が淡々と言った。

「しかし、銅座が消えてから――つまり、ここに帰還する筈だった時刻から――既に二時間弱が経過している。もしも二時間前から帰還も通信も出来ないくらいの重症に追い込まれているのならば、もう、絶命しているのが自然だ。しかし、幸いにもそうではないらしい。」

 鏑木が、無意味にそこらへんを行きつ戻りつしながら言う。

「もしかして、銅座の奴、端末を故障させたとか?」

 彼方君が言った。

「端末が機能停止状態だとすると、何故銅座の端末にこちらから通信を行えるのだろう。向こうが受諾操作を行わないから会話が出来ないだけで、電波は繋がるのだ。」

「中途半端に壊したとか。」と鏑木。

「それなら公衆電話を使って故障を申し出るだろう。そして一時退場となり、やはり電波が繋がらなくなる筈だ。そもそも、端末の故障では、ここに彼が帰ってこないことを殆ど説明出来ない。」

 彼方君の返答を受けて、さっきから顰め面の鏑木は、最早何も言えず、悩ましげに、自分の額を拳の底でごんごんとやるのみであった。

 この騒ぎの中で、私はというと、ただ、ぼーっと噤んでいる。そもそも、針生君が殺されて以来、私はまともに喋る気力を無くしていた。しなければいけない鉄穴印のBB弾製作に全ての気力を注いで、それで力尽きる日々。といっても、まだ数日も経過していないが、しかし、十分に苦しい日々だ。

 銅座君は、正直、きっと絶望的だ。ああ、何と言うことなのだろう。あれだけ盤石に思われた、私達の――皆の言葉を使うならば――〝チーム〟が、ぺらぺらと、いとも容易く崩壊しようとしている。私達から針生君、銅座君が毀たれ、残るは五人。というか、私が生き残っても何も出来ないから、事実四人だ。たったの四人! ああ、やっぱり、私達はこのまま終わっちゃうのかな。

 ふと、私と目が合った鏑木が、驚いたような表情を見せつつ、

「ちょっと凛子、大丈夫?」

 へ?

 はたと気が付いた私が頬に手をやると、成る程。気が付かぬ間に、何粒もの涙が零れていたらしい。そんな私を見て彼方君が言う。

「鉄穴、もう今日は休んだ方が良い。僕達はなるべく静かにするから、寝入ってくれ。」

「でもまだ、今日の分の弾を作り終えてないから、」

「良いから休むんだ。無理をするな。」

 私は嫌がった。

「でも、でもさ、」

「どうしたんだ?」

 私は涙を拭いながら彼方君の顔を見据えつつ、重い口を開く。

「銅座君って、……最悪の場合、が考えられるのよね?」

 彼方君が頷くのには時間がかかった。

「ああ、最悪の場合、はね。」

「もしもそうだとすると、」

「まだ何も決まっていない。」

「だから、もしもだって。〝もしも〟銅座君が、その、……最悪の状況に今陥っている、つまり、ただ生物学的に生きているだけで、最早どうしようもなくなってしまっているとした場合、もしかして、私のせいなんじゃないかな、と思って。そう思うと、ますます私は、頑張らないといけなくて、そう、他でもない私が、私にしか出来ないことを、」

 彼方君は私の語りを無理に止めた。

「そこまでだ鉄穴。言いたいことは分かる、自分のBB弾製造が遅いせいで銅座が満足に銃弾を持てずに窮したのではないかと、君はこう訝るのだろう。

 確かに客観的事実として、針生が倒れて以来、君の製造ペースは明らかに遅くなっている。しかし、僕達はそんなことで君を責めたりしない。鏑木も言っていたが、僕達は本当に君に感謝しているのだ。そんな君が、無意味に不誠実な仕事をしているのならばともかく、精神的な平静を失ったせいで多少作業を遅らせようとも、僕達は決して君を恨まない。そもそも、今回銅座は、待ち伏せとその際の応戦に十分な量のBB弾を充塡していった筈だ。それは一番君が知っているだろう!

 もしも、銅座が最悪の状況に陥っていて――考えたくないが――このまま二度と戻って来ないにせよ、君に責任は一切ない。馬鹿なことを考えないで、無理せず休んでくれ。僕達のことを思ってくれるなら、尚更だ。君が倒れたら、それこそ僕達は終わりなんだ。」

 彼方君が長々と何やら語っていたが、私は何も聞いていなかった。ただ、寝ても恨まれないという雰囲気だけは何となく伝わってきたので、大人しく部屋の隅っこに行って、いつか拾ってきた布切れに包まりながら横になる。頭が痛い。思考が定まらない。目を閉じると、一度も見たことがない筈なのに、血肉が物質的に躍る忌まわしい光景が瞼の裏の浮かび、私を苛んだ。

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