58節

58 周組、霜田小鳥

 私達はここ最近、戦闘を出来る限り回避しながらの生活を送っており、その為にすっかり長閑であった。緊張するのは、精々自動販売機の元に赴く時くらいだ。

 他所の連中が飢えに苦しんでいるように、しかし、我々も持て余しているものがある。無聊だ。平たく言えば、あまりに退屈なのだ。勿論、誰かがこの部屋に飛び込んできたらすぐに対応出来る様に最低限の気の準備はしているが、だからといって、起きている間ずっと只管待ち続けるだけ、というわけにはいかない。人間の精神はそういうことが可能なふうに出来ていないのだ。

 そういうわけで、なのかどうかは知らないが、最近、周姉様は霊場姉妹に対し勉強を教えられることがあった。幸いここは廃校である。いくらかは破壊されているとは言え、それでも尚、黒板や白墨の数には困らない。

 どうせノートを取る道具もないので、席に着くのではなく、広い床――恐らく机や椅子が薙ぎ払われることで広くなった床――の上にちょこなんと居並んだ双子姉妹が、まだ一面が硯のように黒いままの黒板を見上げていた。私は遠くから所在なげに眺め、霧崎は全く興味なしと言うていでそっぽをむいている。

 姉様が黒板の前に立たれて、

「さて、今日は古文の話をしようということになっていたわね。と言っても、ここにはテキストがないから、私達が何とか諳んじられる作品を題材にするしかない訳だけれども。

 さて、千夏さんに小春さん、例えば、平家物語はどこまで憶えているかしら。」

 姉妹は一度顔を見合わせ、その後黒板に向き直ってから、ぞれぞれ小首を傾げた。私からはその後頭部しか見えないが、どうせいつもの如く、人形のように変わらない顔を提げているに違いない。

 姉様は軽く顰められて、

「まさか、全く知らない訳がないでしょう。いい?『祇園精舎の、』で始まる物語よ?」

 姉妹はそれぞれかしいでいた首を元に戻した。

「それならば、」「少しは。」

 嬉しそうな顔になられた姉様が、

「では、諳んじてみて。」

 これを受けて、姉妹のまるでやる気のなさそうな声が響き始める。この授業ごっこはあの二人から言い出したことなのだから、実際やる気はある筈なのだが。

「ぎおんしょーじゃの、」「カネの声。」

 その後すぐ、虚しいしじまが教室を支配した。どうやら姉妹がぴたりと口を噤んでいるらしい。

 姉様は最早驚かれて、

「そこまでなの? せめてもう一句くらい出てこないかしら。」

 座ったままの姉妹は、また一旦互いに見交わしてから、

「申し訳ないですが、」「ここまでです。」

 姉様は伸ばした指を額に当てて、渋い顔をお作りになった。あんまり可愛そうなことを――不便ふびんな――双子姉妹へ言ってやらないようにと、努めておられるのかもしれない。

 結局姉様の仰ったことは、

「まあ、いいわ。私がもう少し憶えているから。」

 そう言うと周姉様は、白墨を手に、向こうへと振り返られた。気味の良い、理智をもって黒板を叩いているかのような音が、リズミカルに私の耳朶まで及ぶ中、触れれば指先が切れそうなほどに美しい文字が刻まれていく。まるで、まるきり乾燥していた黒板が瑞々しくなっていくかのようだ。


   祇園精舎の鐘の声、

   諸行無常の響きあり。

   娑羅双樹の花の色、

   盛者必衰の理を表す。

   奢れる人も久しからず、

   唯春の夜の夢の如し。

   猛き者も遂には滅びぬ、

   偏に風の前の塵に同じ。


 ここまでさらさらと書かれると、姉様は、軽く両手をはたきながらこちらへ振り返り、

「ひとまずはこんなところかしら。そうね、書きながら気が付いたけれども、助動詞や古典ならでは用言があまり多くないから、教育訓練的には面白くない題材かもしれない。どうりで、知名度の割に高校古文で取り上げられない筈だわ――殿上闇討までいけば大分古語らしくなるけれどもね。とにかく、重要な文献には違いない。」

 姉妹が手を挙げているのに気が付かれた姉様が、

「何か?」

「姉様、」「ジョドウシって、」「何ですか?」

 おいおい、と私が思うと同時に、姉様も呆れてしまったに違いなく、その表情は正直であった。ふと気が付かれた姉様は、首を振って失礼な相好を追い払われてから、

「助動詞を勉強することは古文を学ぶ上でとても重要な基礎になるから、おいおい教えてあげるわ。とは言え、折角ここまで書いたのだし、まずは平家物語を読み下してみましょう。

 ええっと、まず、〝祇園精舎の鐘の声〟ね。千夏さんに小春さん、祇園精舎のことは御存知かしら?」

 当然のことのように首を横に振る姉妹を、姉様は一応確認してから、

「では、霜田さん。」

 ぼんやりと眺めていた私はぎょっとした。そりゃ、霊場達よりはものを知っているつもりだが、しかし、

「祇園精舎、何のことだかあなたは御存知?」

 私は少し口ごもってから、自信なげに、

「確か、印度の、釈迦が説法を行ったと言われる寺院でしたか。」

 姉様は微笑んで下さった。

「素晴らしい。そう、細かい話は省くけれども、この祇園精舎とは仏教の開祖たる釈迦が活動を行った寺院の一つであり、すなわち、同宗教において非常に重要な場所なの。」

「定めし、立派な鐘楼があったのでしょうね。その音が日本でも謳われるのですから。」

 姉様は、ふふ、と、声に出して笑い、私の無知を窘められる。

「そう思うでしょう? でもね霜田さん、実は、祇園精舎に鐘なんてなかったの。」

 私は少しだけ目を大きくさせて、

「では、何故平家物語の書き出しはそんなことになってしまっているのですか?」

「仕方がないわ。当時の日本人が、どうやって印度の様子――祇園精舎はもとより、その国のどの寺院にも鐘など存在しないこと――を知ることが出来たでしょう?

 それにね、別に構いやしないのよ。この書き出しのひとくさりは、半ば、本題の軍記の前に取ってつけた、詩のようなもので、迫力や情緒があれば真偽など関係がない。そう考えてみると、実際、ここには祇園精舎の鐘という言葉があまりにしっくり来るわ。」

 姉様は、黒板に書かれた〝諸行無常〟という文字を、力強い楕円で囲まれた。

「この言葉の意味、さあ、どうかしら?」

 姉様が、いかにも期待せずに双子姉妹へ問いかけられる。そして、その虚ろな期待は、姉妹の首の動きで見事応えられたのだった。

 姉様はめげずに、

「諸行無常、この言葉は仏教における重要な教義とされているわ。否定しただけで、四千九十六億年間、焦熱地獄に落とされるとされているくらいには。――ああ、仏教のオーヴァーな時間感覚にいちいち取り合っていては労力の無駄よ。

 で、残念だけれども、〝諸行〟と言う言葉は、平家物語の時点でも年月を経すぎていて、本来の字義から既に外れているの。特に、〝行〟がやや意味不明ね。とにかく意味としては、森羅万象のあらゆるもの、となるわ。そして〝無常〟。これはまあ、文字通りの意味で、一定でない、不変ではない、という意味になる。つまり、〝諸行無常〟とは、この世の全ては儚く、決して留まってなんかいない、ということを表しているの。

 さて、これを踏まえるとどうかしら。打ち鳴らされた鐘の響かす、どこまでもいつまでも届くような、力強い、しかし、結局最後には絶え入ることとなるその荘厳な音色は、この、〝諸行無常〟を実感させるのに、いかにも相応しいものと言えるでしょう?

 特に私達は、祇園精舎の鐘など実在しないということを知っているから、ますます、その寂しさを感じることが出来るわ――作者の意図とは全く別にしてね。」

 ここで姉様はそびらを返され、黒板の字を見つめながら続けられた。

「それで、まあ正直、残りの部分も似た様なことが語られているわ。花というものは美しくもいつかは萎れ、権力なんて一夜の夢の如く虚しい。そして、盛んな者は、とうとう滅びた、と。……そう、ここ、この下り、『猛き者も遂には滅びぬ』が、この先延々と語られる、滅びゆく平家を表している部分なの。」

 ここでこちらへ振り返った姉様は、またも姉妹が手を挙げているのに気が付かれ、

「何か?」

「周姉様。」「そこには寧ろ、」「〝盛んな者も結局滅びなかった〟と、」「書かれているように思うのですが、」「果たして。」

 姉様は、七行目を、恐らくは特に最後の一文字、〝ぬ〟を見やってから、その、困った表情をこちらに向けなおされた。

「ああ、そうだったわ。あなた達は助動詞の心得がないのよね。」


 その後の姉様から双子姉妹へ施された、否定の「ず」と完了の「ぬ」の講釈に関しては、流石に冗長にならざるを得ないことと、姉妹の飲み込みの悪さによってあまりに甲斐なく終わったこととで、語る気にならない。

 とにかく、姉様はどこか疲れた様子で教壇から降りられた。私が迎えて言う。

「お疲れ様です。」

 姉様は、心労が顔に刻ませた麗しい翳りを蠢かされながら、

「私の説明って、そんなに分かりにくいのかしら。」

 私は、姉様と霊場姉妹のいずれをも誹らぬ返事を急いで探した。

「古文というものは慣れが必要ですから、今日のところは多少飲み込みが悪くとも詮無きことです。霊場達も、今後多くの文章に親しめば、助動詞の理解もしやすくなるでしょう。」

 姉様は微笑まれて、

「一つ修正。〝古文は慣れが必要〟ではなくて、〝言語は慣れが必要〟とすべきでしょうね。」

 私は素直に訊いた。

「どういう意味でしょうか。」

「あなたへの皮肉と、忠告よ。あなたも、もう少し英語に親しむようになればいいのだわ。まずは、音読でもしてみることね。あとは、然るべき英語音声を聞き流してみるとか。」

 私はつい渋い顔をするが、しかし、

「御忠言有り難う御座います。生還した暁には、是非とも。」

「そうよ、来年度には受験もあるのだから。」

 この手の皮算用は、我々の心を強か癒やすのだった。

 適当な椅子にお座りになった周姉様に、私が問いかける。

「姉様、少し宜しいでしょうか。」

「何か?」

 その声の調子は、先程の霊場姉妹の挙手に応じた時の物と全く同様で、姉様の表情も、その様に穏やかだった。しかし、

「先日端末に届いた通知についてなのですが、」

 私の質問が、平家物語、遥か昔の軍記物語などではなく、今現在の我々を呑み込む戦争についての話であることを悟った姉様は、只管に柔和だった笑顔をやや引き締め、無色の表情を作られた。私はそのお顔に向かって続ける。

「残りが五十名となった通知に付属していた追加ルールの予告について、」

「色々とあったけれども、どのルール?」

「一等気にかかりますのは、値上げ予告ですね。自動販売機の各食料の値段をまず二倍に、そして状況に応じてそれ以降も引き上げ得るぞ、という。」

 姉様は少し座り直されてから、

「色々な理由が考えられるわね。さっさと終わらせないと、我々の体がそろそろヴィールスに本格的に冒されてしまうとか、あるいは、娑婆の方でこのサバイバルに対する反対気運がますます強まっているとか。――反対も何も、今ここに居、あるいは既にここで死に逝った者達は皆、自ら希望してやって来た者ばかりなのにね。勿論、無制限に私達の命を救える方策があるならこの上なく有り難いけれども、でも現実はそうでないのだから、中途半端で短絡的な偽善感情なんかで邪魔をしないで頂きたいものだわ。」

「意義も興味深いところですが、生き残る為に今我々が考えるべきはそちらではなく、このルール追加以降にどうすべきか、ということでしょう。つまり、数多のポイントを有する我々に対して、このハイパーインフレーションはどう働くのか。そして、我々はどう身構えるべきか。」

 姉様のお返事は淀みなく、

「少なくとも、直接的な作用としては、私達や那賀島達に大きく有利に働くルールね。そして、只管大所帯の井戸本達は只管危うくなるでしょうし、抱える武力の割に妙に消極的な彼方達も苦しくなるかもしれない。

 ただ、そんなことは井戸本組や彼方組も承知の筈だから、あの通知をきっかけに、今頃奮起している可能性もあるわ。餓えに殺されるくらいなら、やってやる、と。問題は、この矛先がどこに向くのかということだけど、」

 姉様と私の目がまともに合った。

「さて、霜田さん。餓えつつある他所の組からみて、打ち倒した挙げ句にもっともポイントを稼げると思われるのは、一体何処かしら?」

 私は少しだけ眉根を寄せてから、

「当然、〝ジャック〟を抱える我々でしょうね。」

「そう。その通り。故に私達は今後ますます警戒する必要があるでしょうが、とはいえ、今でも十二分に慎重な過ごし方をしているのだから、残念だけれども、この必要に応じる術はないわね。これまで通り、危機に対して身構えながら待つしかない。私達の敵が、ポイントを実質半減させられたために、陽光を奪われた青草の如く日々痩せ衰えていくのをただ待つのよ。」

 私は少し躊躇ってから、言った。

「待つしかないと姉様は仰いますが、」

「他に何かあって?」

「我々にはまだカードがある筈です。切るべき時期かもしれません。」

「どういう意味かしら。」

「那賀島達へ譲渡した、ポイントについて、です。」

 目を不穏に細められた姉様に、私は続ける。

「以前あなたが仰った様に、我々から那賀島達への大量のポイント譲渡が行われていることを、佐藤を通じるか何かして他の連中に吹聴すれば、矛先があちらに向くでしょう。我々は名高き〝ジャック〟を含む五名で、向こうは、一人増えたとは言えまだ三名です。明らかに、戦力的には那賀島達の方が脆いですから。

 勿論、我々の流布する情報を他の者達が信用するのかと言う問題はありますが、しかし、今までの慎重姿勢を抛ってまで我々に挑みかかるくらいに切羽詰まっているのであれば、決して有り得ない可能性では、」

 姉様の突き出された手の平が、私の口を噤ませた。

「前も言ったけれども、それはあくまで保険よ。彼ら、那賀島達が我々へ具体的に歯向かってからの手段。それまでは、彼らは頼もしい同盟相手として扱うべきだわ、道義的にも、戦術的にも。」

 私は、その優しい口調の裏に縫い付けられた迫力に無理に対抗して、なんとか話し始める。

「何故あなたは、そこまでアイツを信用なさるのですか? 霧崎の命を助けられたことは確かですが、しかし、アイツらを生かすことで霧崎ごと我々全員が危険に晒されるようでは帳尻が合いません。となると、あなたには、那賀島組を信用できる更なる理由があるように思われますが、どうでしょうか。」

 私は内心おどおどとしながらこれを申したが、しかし、姉様は愉しそうに笑って下さった。

「だって――あなたも言っていたように――彼らの、個々はともかく綜合力は、私達より明らかに弱いもの。裏切られたからと言って、どうなるのかしら。」

 意表を衝かれた私へ、周姉様のお優しい声が続く。

「そして、以前も言ったように、私は本気で、彼らと共に生き残れれば最良だと思っている。しかし、どうしようもなくなった時の為、どうしてもその最良の道がとれなくなった時の為に、いつでも縊ることが出来る首を三つ用意しておくと言うのは、魅力的ではないかしら。何せ、これは残り七人まで絞るという形式のサバイバルなのよ?

 彼らは富める、故にポイント稼ぎを焦る必要が全くなく、恐らく分不相応に最終盤まで生き残る。そして、もしもその時、状況がどうしても要求するのであれば、」

 姉様は、携えていた聖具をまともに構えてみせた。そのどっしりとしたヒッコリーの持ち手が、戦いに飢えて唸っているようにも思える。

「手折る。仕方なく、しかし、一切の躊躇いなしにね。」

 神妙に頷いた私がふと気が付くと、霊場の姉妹が近くに来ていて、いつからかこの話を聞いていたようだった。

 姉様はそちらへ顔を向けられて、

「あなた達はどう? 那賀島達との同盟に関して、どう思うかしら。」

「究極的には、」「姉様の御決断に従いますが、」「しかし、私と千夏の考えを申せば、」「やはり、致し方なきことかと。」「おいおいの同盟の破断、がです。」「人と人との関係は常ならぬもの、」「命懸けであればなおさら、」「そう、」「ショギョームジョー、」「です。」

 姉様は、姉妹の諧謔に満足して微笑まれた。

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