53節から54節

53 葦原組、躑躅森馨之助

 驚くべきことに、俺は生きていた。怪我の一つもない。あの時ハラダに大見得を切って七階から飛び降りたわけだが、落下中にふと、自分の聖具のことを思い出したのであった。ちょっと待てよ、このシューズなら、落下の衝撃を和らげられるのではないか? そう気が付いた俺は、我武者らに体勢を空中で整え、それをどうやったのかは自分でも思い出せないが、とにかく両足――両脚ではなくきっかり両足だ――から地面に激突したのであった。その刹那に、聖具の与える凄まじいエネルギーが、土埃と砂埃を舞いあげ、俺は強か咳き込まされたので、自分の身に怪我はおろか、走る痛み一つもないことに気が付くのに多少の時間がかかった。その後思ったのだ。何と馬鹿なこと! こんな便利な逃走手段に、俺は今の今まで気が付かなかったのか! この先、常時建物の高層階でうろうろしていれば、どんな状況からも逃げおおせるじゃないか!

 俺はそうして少し笑い、その後、怒り狂った。今さっき起こった出来事を思い出したのである。そうだ、彼方組の奴らに嵌められて、兄貴と、路川の奴が、

 俺の頭はそうして忿怒に茹だったが、しかし、しぶとく生き残っていた僅かばかりの冷静さを何とか捕まえて、どうにかこうにか考え始めた。今後彼方組への復仇を遮二無二になすにせよ、現実を鑑みて諦めるにせよ、とにかく、まずは生き残らないと話にならない。犬死にするようでは兄貴と路川に面目が立たないのだから、今すぐにでも、生き残りに向けての手段を取り始めなければならないのだ。


 その後俺は、気が付いたばかりの逃走手段を活かすべく、早速どこかの建物の中に戻ることにした。勿論、今飛び降りたばかりの棟が一番近いのだが、しかし、またあそこに向かって、早速彼方組の連中に射殺されては、何が何だか分からない。そこで俺はもう二つ隣りの棟まで、何事もないようにと願いながら駈けたのであった。何せ、近くの建物の窓から適当な物、それこそ聖具でも何でもない机か何かを落とされるだけでも致命的なので、屋外は危険が多いのだ。幸いにも、俺は無事に目的の棟まで辿り着き、無駄に体力を使わないようにのんびり階段を上って、(エレヴェーター? そりゃ大学の高層棟だから探せばあるだろうけれどよ、あんなもの、九割方は、乗っている奴を閉じこめて飢え死にさせる鬼畜の所業のような戦法の為に破壊されているし、残りの一割に乗ったらそういう目に遭うに決まっている。)今丁度最上階の十二階に来たところだ。

 人気のない廊下、俺は適当な一部屋、教室というよりも研究室であったと思しき部屋を見定め、その扉を開いた。とにかく、どこか安全そうなところに籠って、今後のことを考えたかったのだ。

 しかし俺の思わくは外れた。その部屋の中には、先客が三名。唯一の味方であった葦原の兄貴と路川を失った俺が誰かと遭遇するということは、九分九厘敵との遭遇ということであり、実際、まさにそれであった。

 俺が入っても、向こうはこちらに気が付かないようであった。その三人は、揃ってこちらへ背を向け、何物かに向かってしゃがみ込んでいるのである。何か必死な作業であるようでありながら、しかし、その様はどこか楽しげでもあった。〝歓談〟という日本語は不正確な気もするが、俺の語彙ではこれが精いっぱいだ、とにかく、その三人は気を緩めて楽しそうであったのだ。向かって左端の一人が、残りの二人に笑顔を見せる為に首を曲げると、その目が、俺と合った。その笑顔はすぐに搔き消え、代わりに露骨なまでの狼狽が顔面を支配する。そいつは、不意をつかれた無様として、蹌踉めきながら聖具を手に取って立ち上がり、叫んだ。

「き、貴様!」

 当然残りの二人も状況を察し、振り返りつつ立ち上がり、それぞれの聖具と思しき物品を構える。俺はこの一瞬で色々なことを考えた。例えば、「こいつら、俺が戸を開けた時の音やら気配やらに全く気が付かなかったとは、一体何をしていたのだろう。」なんてことなどをだ。俺はその好奇心に背を押され、立ち上がったことで三人組の間に生じた間隙を睨んだ。すると、そこには、

 俺が納得と驚愕で中途半端に顔を歪めるのを認めたか、一番に俺の存在に気が付いてきた奴が、湯気でも沸き立ちそうな、目に血走る形相で聖具を振り上げつつ、

「えーな、きさまはここでしにいけまいや!」

 その怖ろしい顔と、さっぱり意味の分からない台詞によって、いやそもそも、三人の敵と対峙しているという事実だけで、俺はすっかり怖じ気づき、慌ててその部屋から逃げ出した。

 このサバイバル、誰しも、まずは自分たちが生き残ることが第一であるので、しっぽを巻いて逃げれば大人しく追ってこない連中も多い。しかし今回の場合は、あの三人組のうちの二人が、執拗に俺を追い駈けてきた。俺は必死に逃げる。

 しかし、この追い駈けっこの勝負は目に見えていた。向こうは大柄な聖具を携えながらの不細工な走り様であり、俺は、逆に聖具にいくらか助けられての――別に足の回転数が増すわけではないので、人外の速度で走れるわけではないが、それでも、地面を叩く力が増すに越したことはない――疾走であった。事実として俺とアイツらの距離はどんどん離れていったし、そもそも、目的が違いすぎる。奴らは俺に追いついた上で更に仕留めなければならないが、対して俺は、適当な窓か何かに辿り着けさえすれば良かったのだ。

 俺は廊下の突き当たりに、非常階段に出るらしい硝子扉を見つけると、急いで押し明け、そのまま、一切の躊躇なく、ハードル走の選手のように欄干を乗り越えて外へ飛び出した。後ろから、それぞれ高さの違う、「はあ!?」とでもルビを振りたくなる声が二つ聞こえてくるのを無視して、俺の体はどんどん地面に向かって落下していく。さっきは七階だったが、今度は十二階。奇蹟や幸運など全く期待出来ない、しくじれば確実に、トマトの如く瑞々しくっ潰れることになるだろう。俺は全神経を集中させて、足の裏を地面にしっかりと差し向けた。

 砂埃は舞い上がらない。そのかわりに轟音が鳴り、そして、地面のコンクリートが、まるで酔っ払いの運転した重機がそこを叩きつけたかのように、蜘蛛の巣みたいに執拗な割れ目を走らせながら粉砕された。俺の体はまたも無事だ。

 上を見上げると、さっきの二人が非常階段から身を乗り出して、こちらを覗き込んでいるようであった。勿論、十二階に居る二人の顔などここからは見えないが、それ故に寧ろ、さっき見せられた、世にも怖ろしい表情がまたあそこに浮かんでいることが想像されて、俺は背筋が冷たくなる。

 とにかく、あそこから駄目元で投下攻撃をされたら万が一のことが有り得る。俺は急いでその場を駈け去り、次に上るべき棟を見繕った。ある程度の高さがあれば何でも良いのだ。

 その最中俺は、馬鹿と煙は〜、という文句を思い出し、自分の今の状況とそれを重ねて、自嘲気味に笑った。


54 彼方組、鉄穴凛子

 私はずっと泣いていた。かつての人生でこれほど泣いたことがあっただろうか。お母さんが胃癌にやられて死んだ時ですら、ここまでは大泣きしなかった気がする。

 でも。これもある程度は仕方あるまい。母親の死は、何せ癌であったから、話を聞いてから実際の死までに期間が有って、それなりの覚悟を固めることが出来たし、それに、いざその時に私の涙腺を襲った感情は悲しみだけだった。

 しかし今は違う、確信に近い悲哀だけでなく、この先への凄まじい不安と、今この時に関するおどろおどろしい恐怖と、只管に真っ青な後悔、その他諸々の雲霞の如き感情が、私のちっぽけな身を、一切の予告なしに襲ったのだ。この、溺れているかのような歔欷も、きっと仕方がないんだ。

「おい、鉄穴、落ち着いて。」

 貴重なBB弾補充役を死なせない為に、私と二人で待機している彼方君が、肩を揺さぶりながらそんな言葉を投げ掛けてくる。出来ることであれば、私はその、身にかかる手を振り払いたかったが、それも叶わなかった。どんな動作をも起こす気が全くせず、ただ、泣きじゃくりに呼応させて肩を顫わせる以上のことが出来なかったのだ。

「鉄穴、しっかりしてくれ。ここは大丈夫だから。」

 私は、きっと顎を上げ、涙や諸々の液体でびしゃびしゃになった顔面を晒した。それによって気圧された彼方君の虚を衝くかのようにして、私の口からロクでもない言葉が転がり出て行く。私に僅か残った冷静な意識は、人事ひとごとのようにそれをただ見守っていた。そのずぶ濡れの雑言は、しかし、ところどころが吃って意味を不明瞭にしているのが、まだ救いなのかもしれない。

「大丈夫って? 何を言ってるの! さっき聞こえた、皆の悲鳴、あれは絶対に、皆が襲われた印なんだってば! 彼方君は他の他人の声か何かの聞き違いかもしれないと言ったけれども、そんなわけがないじゃない! だって、あの悲鳴に続いた、鏑木の怒声と、銃声、彼方君もあれを聞いたでしょう!

 ああ、どうせ皆死んでしまうんだよ、このまま、皆、無様に、何にも出来ずに、死んでしまうんだ。ここまで頑張ってきたのも全部、ぜーんぶ無駄なことで、結局は、死ぬほど痛い思いをしながら、無様な、真っ赤な死体になるんだよ。みんなみんな、ああ、」

「鉄穴! お願いだからしっかりしてくれ!」

「こんなことなら、私、もっと皆、特に鏑木さんとか対して真摯な態度を取るべきだった。私一人じゃ何も出来ないくせに、そのくせに、私は、何も出来ないくせに、斜に構えて、一人だけまともな人間の振りをして。私分かってたよ。一番汚い人間は、私なんだって。そう、私だ、私が汚いんだ。皆が命懸けで、忌まわしく仕方なく手を汚しているのに、そしてそれを、せめて軽々しく扱うことで皆が色々な心の傷を癒やそうとしているのに、わたしはそんなこと分かっていたのに、まるで、自分だけがまともにみたいに、皆を軽蔑して、ああ、そう、私は、まるで自分だけが、なのに、皆を非情な人間扱いして。違うんだよ。分かっていたんだよ本当は。本当は私だけが、汚いんだ。私が一番生きていちゃいけないんだ。」

「鉄穴!」

 私はもとよりとして、彼方君までもが、外へ声が漏れるのを憚らなくなっている。ここは異様な空間だった。

 そんな中、突然この教室、大海組と葦原組をぶつけることになっていた教室からさして離れていない、この七階の教室の扉が外から開かれた。すぐに、見慣れた顔が中に入ってくる。最初は全員、まさに仏像みたいに生気を欠いた憮然たる顔を並べていたが、しかし、皆すぐにその表情に生き生きとしたものを、つまり狼狽と心配を浮かべた。

 特にこの反応が速かったのが鏑木である(彼女は生きていた!)。彼女はすぐに私の元にやって来て、突き飛ばすように彼方君を退かしつつ、自分はしゃがみ込んで、私の肩を正面からまともに、力強く摑み、身を引き起こして立たせた。その真剣な瞳に、私のみっともない顔がしゃくりあがる様が否応なしに写り込む。

「どうしたの! 凛子、何が有ったの? ねえ、大丈夫?」

 私は堪らず、鏑木の柔らかい胸元に顔を突っ込んだ。その時に漏れた声からするに、彼女は少したじろいだ様だったが、しかし結局、まるで母親のように、私の頭を両腕で、しっかりと力強く、しかもこの上なく優しく抱え込んでくれたのだ。私はそのまま存分に泣き続けた。私にとってこれは、あまりにも懐かしすぎる感覚であったのだ。

 しばらくすると、一向に私の涙は止まらなかったものの、皆の会話が聞こえてくるようになった。まずは彼方君が、いかにも言いにくそうな声音で、

「針生はどうした?」

 これを聞いて私は思い出す。そうだ、一瞬見えた皆の姿、そこに、人影は四つしかなかったぞ。

 鏑木の、私の頭を包む腕に、新しい力がぎゅっと加わる。ほんの僅かに頭蓋骨が軋む感覚が、まるで、悍ましい事実に対して身構えるよう、私に事前の通牒を寄越しているかのようであった。

 彼女が語り始める。その声は蒼ざめていた。

「彼は死んだわ。大海組の残党、頗羅堕の手によって。」

 私の涙は魂ごと凍りついた。

 その後、頭の上から語られ続けた委細は、私に、忌まわしい福音のように聞こえた。完全に作戦通りに大海組と葦原組をあの階段教室に導き、その後無事戦闘も始まったようなので五人で廊下に待機していたらしい。全てが終わった後で教室から出てくるであろう、最後の生き残り――我々への凄まじい怨嗟を抱える危険性のある人物――を遺憾なく襲撃する為に。

 そうする間に、教室の中から漏れ聞こえてくる物音が無くなったので、ようやく戦闘が終わったかと思い、皆真剣に身構えたらしいかった。しかし、一向に誰も出てこない。まさか器用に相討ったのかと、そんな想像をして、誰かが中に突入すべきかとの相談し始めた頃、また中から間歇的に木板を割るかのような音がしてきたそうだ。そこで五人は、また廊下で待機して様子を窺うようになったわけだが、

 ここからまた鏑木の言葉に戻る。

「そう、この、一度相談を挟んだのが良くなかったのよ。本当に、良くなかった。私達はそれまで真剣に、しじまを帯びて、来たるべき瞬間の為に廊下で待機していた。でも、相談する為に一度口を開いてしまったのは、良くなかった。お蔭で緊張の糸がすっかり切れて、それ以降私達は、無駄口を叩きながら廊下で立ち並んでいたの、待ちくたびれていたのと、残兵一人や二人どうにでもなるだろうという楽観とが相まって。そう、私達は完全に油断してしまった。そこで、あのクソゴリラが、頗羅堕が、そらから降ってきたのよ。空というのは、廊下の天井間際に設えられた換気口のたとえだけれども、とにかく、何らかの手段でアイツは教室の内からそこまで上ってきて、そして、私達に、特に、針生に向かって飛び降りてきた、片手に聖具を握ってね。そして、針生はそこで、」

 鏑木の語りはここで止まった。彼女が怖じ気づいたのではない。私だ。私が思い切り身を顫わせたものだから、きっと彼女が驚いた顔をしながら、言葉を継ぐのを止めてしまったのだろう。もっとも、彼女の胸に顔をうずもれさせ続ける私にとって、その鏑木の表情は想像でしかないのであるが。

「大丈夫よ。確かに、もう、針生は帰ってこないけれども、他の皆は無事だったし、あなたも大丈夫。

 それに、あなたのことは絶対に私達が死なせやしない。別にこれは、あなたに死なれたら困るからじゃない、寧ろ、あなたに今まで助けられてきたからよ。あなたが居なかったら、私達はとっくの昔に窮して、餓えるか殺されるかして、今頃全滅していたでしょう。ここまで来られたのはあなたが居てくれたからこそなのよ、凛子。さんざ恩を受けておいて、あなたを先に死なせるだなんて、そんなロクでなしはここに一人も居ないわ。だから、大丈夫、あなたは絶対に死なせない。必ず生還させる。安心して、凛子。」

 誰にも知られぬままに涸れていた私の涙が、また、ざあざあと流れ出した。何ということだ、さっき私の漏らした嗚咽混じりの言葉など、目の前の居た彼方君すら、ロクに理解されなかった筈だ。つまり、もしかしたら既に廊下には居たかもしれないが、それでも鏑木は、絶対にその内容を知らない筈なのだ。なのに、……なのに!

 私をあやすのに忙しくなって喋れなくなった鏑木に成り代わり、銅座君の声が少し遠くから聞こえてきた。

「で、そのハラダとかいう、博之君を殺したむさい奴は、すぐにあんずさんが射殺してくれたんだよ。突然のことに狼狽える僕達の中で、あんずさんだけが冷静だった。彼女があんなに手早く銃を構えてくれていなかったら、もう二三人やられていたかもしれない。本当に見事だった、さすがあんずさんだよ。」

 私を抱きかかえる鏑木が首を振ったように思えた。

「そんなことないわ。私は、あの頗羅堕に恨みが有ったから、すぐに敵愾心を燃やすことが出来た。それだけよ。」

 その後はまた銅座君が請け負って、

「で、僕達は針生君の蘇生が不可能であることをきっかり確かめた後――本当は明らかにそんな必要なかったんだけれどね、どうしても認めることが出来なくてさ――教室の中を漁って、まあ死体の調査とか所持品の探りとか、そういう作業を行っていたんだ。」

 彼方君の声が聞こえる。

「しかし、その間に何か聯絡をくれても良かっただろうに。こっちには、その頗羅堕を仕留めたやり取りの音や声だけ聞こえてきて、感づいてしまった鉄穴が泣きじゃくって大変だったんだから。」

 銅座君の反駁は速く、鋭かった。

「馬鹿言っちゃいけないよ、海斗君。『博之君が死んでしまったけれども皆元気だよ。』って一報を入れろって? それで事態が好転するわけがないじゃないか。そもそも、この作戦に当たる前に、余程のことがない限り通信はしないと決めていただろう? 確かに博之君の死は余程のことだけれども、しかし、それを伝えたことで何もいいことが起き得ない、寧ろ取り乱した君や凛子さんがロクでもないことを仕出かしてしまう――例えば、君が飛び出して凛子さんを一人きりにしてしまうとか、そんなことが起こったらどうするんだよ!」

 これに対する彼方君からの反論は、ついになされなかった。私は、銅座君が彼方君を言い負かす様を初めて聞いた気がする。きっと、今さっき死線を乗り越えてきたことが、銅座優心の男を上げ、その身の程に似合わない力を刹那的に与えたのだろう。古代、というより原始の時代、男というものは、愛すべき家族を護るべく、獣や敵と戦ってきたという。今この、夜空に冲する月の表面を人間が足裏で乱すような時代になって、男女差が少しずつ薄まり、控え目ながら女身も従軍する今日こんにちでも、きっと、男、というよりも人間は、命を懸けて戦う者が一番偉いのだ。だから、私や彼方君はこんなにも無様で、今日の鏑木や銅座君は、こんなにも、恰好良いのだろう。


 たっぷりとした沈黙の後で、彼方君が話し始めたらしかった。

「とにかく、針生を悼む前に、そして、これからのことを考え始める前に、休もう、まずは休むべきだ。その為には食事を取るべきだと思うんだけれども、ただ、」

 銀杏君の声がようやく聞こえる。

「君は僕達を労りたい。しかし、以前なされた鏑木さんの提案に従えば、針生君を失った以上、君はこれ以降一瞬たりとも危険に身を晒すべきでない。実際に僕もこれに賛成だよ。

 ということは、つまり君は、自動販売機に向かったりすべきではない、ということになってしまう。すなわち、今生還してきたばかりの僕達を自動販売機への旅路に差し向けざるを得ない、これを君は悔やんでいるのかな。」

 果たして彼方君はこれに対し頷きでもしたのだろうか、とにかく釘抜君の声が続けて聞こえてきた。

「案じないでくれ。俺と銀杏と、……銅座かな。三人でさっさと飯くらい買ってくる。幸いなことに、頗羅堕からポイントをたんまり頂くことが出来たんだ。せめて、盛大に食そう。」

 彼方君の情けのない声音が響いてくるまでには、また少し間が合った。

「ああ、任せたよ。済まない。」

 三人が出発支度を始めたらしい、がちゃがちゃとした音を聞きながら、私は鏑木の胸の中で思う。こうして戦場に出ることを縛められた彼方君は、ここから次第に、川の流れが岩を痩せさせるように緩慢、かつ確実に、男を落としていくのであろうか。もしそうであるとしたら、一度も命を危険に晒していない私は何なのだ?

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