51節から52節
51 周組、霜田小鳥
制服着用者ばかりのこの戦いにおいて、一人妙なシャツを着ているお蔭でやたらと目立つ、那賀島と思しき人影が、向こうの棟の屋上から手を振って来た。アイツは何を考えているのだろうと呆れながら、周姉様に一応御報告する。
「姉様、向こうもこちらの存在に気が付いたようです。」
「そう。まあ、さっきも言ったけれども、構いやしないわ。」
姉様は私の足下で、上ってきた階段を囲むトーチカのような小建造物の壁に寄りかかり、ぴったりくっつけた足を伸ばしてまともに座り込んでいらした。やや自堕落な振舞も、姉様がなさるといくらか
たまにはまともに陽でも浴びようかと上ってきた屋上において、姉様は遺憾なくぽかぽかと、暖かい光の裡に
霧崎や霊場姉妹はというと、揃ってフェンスに齧り付いていた。丁度我々がここに上ってきた時に向こうで始まった那賀島のヨーヨー演技や、続けての、あの、見知らぬ女の流星錘の演舞を眺めるべく、動物園に来た子供が柵を摑んで覗き込むような感じで、彼女達は喰い入っていたのだ。恐らく、霧崎は大道芸やサーカスを楽しむような気持ちで、霊場の姉妹は興味深い戦闘技術を盗みたがる気持ちで、それぞれ向こうを眺めていたのだろうが、その真剣さの度合いは同じくらいのように思えた。
しかし彼女らも、あの見知らぬ女から迚野に演者が変わってからは、フェンスに絡めていた指を解き、その手をぶら下げたり頭の後ろで組んだりして、明らかにつまらなさそうになった。私の位置からも迚野が何をやっているのかは何となく見えるが、しかし、この何となくの視覚情報によってすら、いとも傍ら痛く思える挙動だった。
「しかし、」
いつの間にか姉様が声を発されていた。迚野の無様を眺めることに全く心残りがなかった私は、急いで姉様の方へ直って、その眠たげなままのお顔を見つける。
姉様が続けて曰く、
「少し、浅はかだったわね。」
「何がでしょうか?」
「ここ、屋上に来たことが、よ。どうせ誰も居ないだろうと思って、すなわち安全だと踏んでいたのだけれども、そうでもなかったわね。勿論、那賀島達はどうでもいいけれども、でも、他の連中だったら些か危なっかしかったわ。」
「危ないとはどういう意味でしょうか? まさか、他の棟から攻撃されるとでも? いくら何でも攻撃を届かすには遠すぎると思いますが。」
「届く届かないはともかく、どんな攻撃だって精度上の問題でそう当たりはしないわよ。その点については然程心配していない。寧ろ恐いのは、この場所からの逃げ道がないということ。屋上というものは、すなわち、袋小路でもある。」
足を伸ばして座り込んだままの姉様は、ふと気怠げに持ち上げた両の手の、指を絡ませて、手の平のほうを表に返し、ぐいっと、前方へ突き出した。そうやって心地よさそうなノビをなさってから、姉様は、
「もしも急いでここへ向かわれたら、私達に逃げ場はない。撤退の選択が取れない状況での戦いは出来る限り避けるべきだわ。今後屋上に来るのは控えた方がよさそうね。」
私はあまり納得しなかった。べつに屋上など大して恋しくもないが、もしも姉様が誤謬を抱えておられる様であるのならば、それは好ましいことと思えないので、反駁する義務に駆られ、
「しかし姉様、例えば向こうの棟で何者かが我々の姿を見つけても、ここに来るまでには大いに時間がかかります。何せ、階を下がり、棟を移り、そしてまた上らなければならないのですから。それこそ逃げ延びるのには十分な時間が、」
姉様は首を横に振られた。
「まず、那賀島達や私達のようにグループの全員が屋上に来る、とは必ずしも限らない。半数ぐらいが何かの理由で屋上に来ていて、そこで私達を見つけたのならば、残りのもう半数が私達を追い詰めるべくここに駈け登ってくる可能性も有るわ。その残り半数が待機していた場所によっては、屋上での不退転の戦いを余儀なくされることとなり、非常に良くない。
またもっと単純に、たまたま他の連中が、続けて、ここに上ってくることも有り得るわよね。だってそうでしょう、恐らく那賀島達は広く外敵の少ない場所で安全に聖具の練習をする為、私達はやはり外敵の少ない場所で気を休める為に屋上に来たわけだけれども、同じような、あるいは全く違う動機によって、他の人間がここに来ることも十分有り得る。そうしたら鉢合わせよ? 既に十二分にポイントを確保している以上、出来る限り戦いを避けるべきとしている私達にとっては、良くない展開となるわ。」
私はようやく頷いた。
「成る程、まあ、もう少しの辛抱ですしね。そういう事情があるのであれば今後は日光くらい我慢すべきでしょう。」
姉様は眠気でますます細まっていた目を、更に、最早糸のように細めて微笑まれた。
「そう、もうしばらくの辛抱よ。もう、しばらく。」
とてもか細い声。放っておくと今にも消え入ってしまいそうな姉様の意識を捕まえて私は訊ねた。
「姉様、あの女についてはどう思われますか。」
「女?」
「あれ以降で那賀島の許に着いたらしい、あの見知らぬ女です。」
姉様は気怠げに首を曲げ、那賀島達の方を見やった。ここからでも、指をさして迚野を
「ああ、あの人。……まあ、どうでもいいのではないの?」
「それは、どういう意味でしょうか。」
返事がない。私が那賀島達の方から姉様の方へ視線を戻すと、そこには、とうとう安らかな眠りについておられる周姉様のお姿が有った。瞼が閉じられたことで強調された長い睫毛の集まり、それの象る受け皿が周期的に動いて、まるで、空気を搔いている様にも見える。そうやって頭が振れる原因の、胸を上下させながら、すうすうと、力が抜けて僅かに開かれた唇から、漏れるように、息が吐きつ吸いつされる様を、うっかり、しっかりと見入ってしまってから、私はふと気が付いた。屋上は危ないと姉様は仰ったばかりなのだから、ここから早々に撤収すべきなのではないか、と。だが、しかし、……これを起こせと言うのか、壊せと言うのか、天使の如く麗しく美しい、周姉様の寝姿を!
ああ、勿論、姉様の寝姿自体は毎日のように見ている、しかし、今初めて気が付いたが、陽がまともに当たるこの場所では、そのお姿は
52 井戸本組、絵幡蛍子
帰還した私は井戸本様に御報告を行っていた。班長の綾戸ではなく私がこれを私が行っている理由は、まあ、今更語ることも有るまい。報告の内容は、先程おかしな三人組に出会したことと、その後の綾戸の捏ねた駄々、それぞれの委細についてだ。
「成る程。大変だったようだが、君達が無事で良かった。御苦労様。」
「有り難う御座います、井戸本様。」
私は少し振り返って、井戸本様と対面している私の、ずっと後方で先程からブレザーの袖の
「井戸本様、綾戸さんは何とかならないものですかね。」
無論、この言葉には、綾戸の寝顔を見て覚えた私の呆れが込められている。
井戸本様は微笑んで、
「絵幡君と同様に、私も、彼女、綾戸君がもう少し、……扱いやすい人間ならばどれだけ良かったろう常に思っている。しかし、どうしようもないものはどうしようもない。一度試しに怒鳴って見たことも有ったが、」
「ああ、そんなことも有りましたね。あの時は怯え竦んで泣き散らす彼女を宥める為に皆で四苦八苦を、」
「というわけだ。綾戸君のことは君から良く支えてやって欲しい。」
困り顔でそう仰る井戸本様に、私は出来る限り快活な相好で頷こうとしたが、その成果は、私の心中に発した身勝手な感情を鑑みるに甚だ怪しいものである。誤解しないで欲しいが、私は綾戸を心から敬拝するからこそ、彼女にせめて十人並みの知性、というか、品位を身につけて欲しいと思うのだ。確かに日頃の生活の気苦労と手間を和らげたいというスケベ心も多少あるが、それよりも何よりも、あの聡明さと頼もしさが――ここを生き延びた後には一切訪れないであろう――戦闘状況においてしか発揮されないというのは、あまりに勿体なさすぎる。そうやって綾戸が、不当に暗愚という印象を持たれるようでは、私が、……私が腹立たしいのだ。――どうせ綾戸本人は、そんな他所からの評判など、買っていない富くじの当籤番号程も気にしないのだろうが。
私が井戸本様の許から、挨拶を残しつつ立ち去ろうとすると、丁度、一人の同志がこちらへやって来た。
「お早う御座います、井戸本様。」
「もうじき夕刻だがね、お早う細木君。何用かな。」
「今日辺りから何とか戦線に出れそうですので、その御報告をと思いまして。」
井戸本様は魅力的な目を見開らかれて嬉しそうになられた。
「そうか、細木君。それは喜ばしい。戦力が手厚くなるのは勿論、君が元気になってくれたというのはこの上ないことだ。」
ここで井戸本様は、何かを思い出したかのような顔つきを持ち出されて、
「細木君、君には伝えておくべきだろうね。仇討ち、すなわち、君達を強襲して、緑川君と織田君の命を奪った葦原組への報復についてだが、我々が奴らを見つける前に、」
正確には、緑川を死に至らしめたのは葦原組の躑躅森達の一撃ではなく、この私の介錯だ。勿論、そんな些細な不正確をここでわざわざ論う理由はないが、しかし、私の胸奥に、ある種の痛みを思い起こさせるのには十分な綾であった。
私がこんなことを思っている間に、細木は表情を怪訝そうに歪めていた。彼は井戸本様の言葉を差し止めて、
「少々宜しいでしょうか、井戸本様。」
井戸本様は細木の邪魔を予想だにしていなかったらしく、苛立った訳ではないが、少し意外げに、
「何だ?」
「いえ、我々緑川班を襲った輩についてですが、」
「葦原組がどうかしたのか?」
「そのアシハラという連中は良く知りませんが、とにもかくにも、そんなわけがありません。緑川や織田を死に至らしめたのは、彼方組の連中の筈です。」
何だと? 私はこの言葉に驚かされ、井戸本様も眉根を寄せられた。
「どういう意味だね? 緑川君が赤外線で拾った名前を元にすると、襲撃者の名前は躑躅森であった筈なのだが。細木君、そう言うからには君も何か赤外線操作を行っていたのか?」
「いえ、自分は周囲の警戒や緑川を安全な所に運ぶことに必死で、端末の操作を行う余裕はありませんでした。」
「では、何故そのようなことを言う?」
「確かにこの目で見たからです、近くの教室の天窓から、スナイパーライフル銃を覗かせている女が居たのです。」
去るタイミングを逸した成り行きですっかりこの会話を聞かされている私の身に、二度目の衝撃が走った。銃器だと?
井戸本様も、目の辺りに
「スナイパー銃? つまり君は、その女が、彼方組の連中だというのか。」
「まず間違いないと思います。何せ、銃器の使用においては銃弾の確保という問題がありますから、そこら辺の連中が気軽に扱えるものではないでしょう。当の彼方組がどうやって弾を補充しているのかは知りませんが、とにかく、それ以外の馬の骨が銃器を扱い、かつ、この日まで生き延びているとは非常に考え難いのです。」
「成る程、しかし、緑川君が拾った名前はどうなる? 佐藤の話では、あの名前は確実に葦原組なる集団に属するだそうだぞ、決して彼方組ではなくな。」
細木は、目を伏して顎に手を当てながら、如何にも考えの定まり切らぬ様子で、それでもさして間を置かずに応え始めた。
「その彼方組と思しき女ですが、自分と緑川が逃げ出した後も、銃撃を放っていたようなのです。それも、逃げる我々ではなく、明後日の方向に向けて、です。今井戸本様のお話を聞いて思いついたことですが、もしかすると、あの交戦地帯――交戦といっても、自分たちは何も出来ずに敗走しただけですが――には、自分たちと彼方組の女の他に、第三者が居たのかもしれません。」
井戸本様は納得がいかれたような表情で、
「つまり、君はその第三者が葦原組の躑躅森であるのでは、と考えているのだな。」
「その通りです。そして、そのツツジモリとやらが何をしたのかは知りませんが、少なくとも、織田を射殺したのはあの女、銃を構えていた彼方組の女の筈です。しかとこの目で見ましたから。」
これを聞かれた井戸本様は、少しだけ考えられてから、突然存在を思い出したかのように私の顔を見て仰った。
「絵幡君。君達綾戸班は、最近戦果が乏しいようだったな。」
私は、心にチクリとするものを感じながら、
「はい、お恥ずかしながら。」
「いや、別に責めるつもりはない。ただ、君達、綾戸班自体が、忸怩たる思いに苦しんでいるのではないかと思うと心配なのだ。特に、この間は目の前で綱島君達が多大な成果を挙げるところを見せつけられたわけで。」
「その通りです。……ああ、いえ、勿論紙屋君や綾戸さんの胸中までは――特に後者は――知る由も有りませんが、少なくとも私自身は、歯痒い思いで一杯です。」
「そうだろう、そこで、君達に命じたいことが二つある。
一つは、特に問題がなければ、今後細木君を君達の班に加えて欲しいのだ。彼を一人で遊ばせておくわけにも行かないのだから。
もう一つは、……ちょっと待った。絵幡君、君は、……いいか、君だぞ、綾戸君ではなく。君は佐藤と登録状態に有るか?」
「大丈夫です、井戸本様。私と佐藤との通信は可能です。今恐らく井戸本様がお
「それはよかった。では、絵幡君、君たち綾戸班で、彼方組の情報を出来る限り集め、更にその上で彼方組を鏖殺する手段を考えてくれたまえ。」
私はまっすぐに頷いた。同志を手に掛けた者を、とりわけ、緑川のあんな目に遭わせた者を生かしておくわけには行かない。決してだ。
「双方の御命令、承りました。前者においては、綾戸さんの聖具と細木君との相性を良く検討した上で、もしも否定的な見解を具申しなければならない様であれば、すぐにそうさせて頂きます。恐らくは問題ないと思いますが。
後者についてですが、お任せ下さい。我らが宿敵、彼方組の連中を殲滅すべく、素晴らしき青写真を近々御覧に入れることをお約束します。」
「頼んだぞ絵幡君。佐藤との遣り取りで必要になるであろうポイントは、後で君の端末に送っておく。」
私は振り返りながら、一転所在なげにしていた細木の肩の辺りを引っ摑み、
「復帰早々に悪いけれども、さっさと行くわよ、細木君。これから大忙しなのだから。」
私はそのまま細木を引っ張る。そして綾戸や紙屋の佇んでいる辺りに戻り、意気揚々と、両手を腰に当てることで肩を聳やかしつつ言った。
「さあ聞いていたでしょ、綾戸さん。」
班長は、自分の袖口に向けていた、一切の毒のないきょとんとした
「え? 何が?」
私は眩暈を起こし、危うく倒れそうになるのを紙屋に助けられた。うむ。私の鬱勃たる戦意を事も無げに一掃するとは、流石綾戸といったところだが、しかし、挫けるわけには行かない。待っていろ彼方組の下郎共、必ずや貴様達全員の首級を、緑川や織田への手向けとしてくれる。
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