49節
49 大海組、頗羅堕俊樹
俺達は大学側のある棟の七階に設えられた、無駄に天井の高い階段教室に身を潜めていた。額賀のみが身をまともに晒して、俺、須貝、頼実、そして大海は己がじじ、階段教室ならではの横に長大な机の下に隠れている。もうじき彼方組の連中が三名程度で、額賀と落ち合いにここへ来ることになっており、俺達はそれを強襲する手筈であった。額賀は教室最後方に立っており、アイツらが前の入り口から入って来たら、渋々げに歩み寄っていくことになっている。そうすれば、恐らく教室の中央辺りまで彼方組の連中がのこのこと登って来てくれ、俺達からの襲撃に都合の良い位置となるわけだ。
俺の潜んでいる位置からは須貝の顔しか窺うことが出来なかったが、流石のアイツも相好を引き締めており、来たるべき決戦の時に備えているようであった。この戦い、たとい俺達のほうが勝利するにせよ、全くの無傷というわけにはいくまい、幾人かの犠牲は当然覚悟される。とりわけ最も危険な役目である額賀の表情をこの目で見て確かめたい衝動に俺は駆られたが、こうして身を屈めている体勢からは叶わない。しかし、少なくともアイツの足は顫えていなかった。
まるで、まもなく抜けることが分かっている床の上で待っているかのような、この上なく居心地の悪い時を過ごしていると、とうとう、教室の扉が開け放たれたらしい物音が聞こえてきた。身を潜めている以上、そちらをまともに見やることは出来ないが、額賀が何事かを口ごもりながら、入り口のほうに向かって机の間の階段を下りていくことだけは目と耳で確認される。
やがて来訪者三名もその階段を上がって来た。そちらに向かって歩み寄りながら、明らかに深く動揺している様子の額賀は――この状況で最も望ましい態度を装っていることになるが、恐らく殆ど演技ではあるまい――酷く吃りながら、
「針生は居ないのか?」
まだ少し離れているらしい来訪者の内の一人が、男の割にはあまり低くない声で返す。
「ハニュウ? 何じゃそりゃ?」
俺は、その声を聞き――言葉の内容には全く構わず、声の主の位置が近いらしいことが引金となって――覚悟を決め、少しだけ身を起こして机の上からそっちの方を覗き見た。この動作のせいで向こうから見つかったら、そのまま飛び込む腹積もりだ。
ちらと見え始めた、階段を上がってくる彼方組の三人組は、奇妙な出で立ちであった。三人とも銃器の類を持っておらず、特に後ろの二人は空手だ。残る先頭の、一際締まった顔をした男は、両の手になにやら靴のようなものを、まるでグローブか何かのように嵌めている。何だあれは? あれが聖具なのか? だとすると、いや、そうでないにしても、あのざまでは、銃器の聖具を扱うことなど出来ないのではないのか?
しかしそんなことを考えている場合ではなかった。向こうの方から、頼実が飛び出したのである。
「おらああぁあ!」
頼実はそう叫びながら舞い、バドミントンラケットを振りかぶりながら先頭の男に向かって躍りかかった。その男は、しかし、手に纏った靴で難なく頼実の攻撃を受け止める。防がれた頼実も十分で、そのまま机に着地し構えを取った。
「な!」
彼方組の、残る二人の中の一人、女っぽい、どこか頃安のことを思い起こさせる横顔が驚愕に歪んでいるのを認めた俺は、立ち上がり、そこに向けて、我が聖具、縄跳び紐の持ち手部分を投げつけた。立ち上がりの動作を気取られたか、その男はこちらに向かって直ったが、しかし、空手では聖具の一撃を受け止めること能わず、また、机に挟まれた狭い階段部分では躱すことも能わず、結果いくらか狼狽えた挙げ句に、その、整った顔の左目の辺りに、俺の聖具が
「てんめぇええぇ、
その不穏な文句や、黄泉から響いてきたかのような声音に、しかし今更戦く俺ではなかったが、それでもやはり兢々とさせられた。一撃を見舞わしても、
埒のように奴らの動きを縛める、机の行列に挟まれた通路階段の狭さ。先程はそれが俺にとって有利に働いたが、しかし、今度は明らかに不利な要素となった。その男は、目の前の机を、足で思い切り蹴り上げたのである。そうされた机の天板は端のほうから強かな面積が易々と蹴り砕かれ、それぞれが凄まじい速力を持った飛礫の群れと化して俺の方に飛んで来た。俺は、聖具を置き去りにしないようにだけ気をつけながら、あとは一切なりふり構わず、土竜のように身を屈めて逃げ出す。そして機を見て、教室の壁間際の床目掛け、飛ぶように倒れ込んだ。するとすぐに、仏壇を
倒れているままにもいかないので、気を取り直した俺が急いでその場に立ち上がると、先の男が、そこかしこの机の天板を飛び石にして、こちらに向かい駈け寄ってきているところであった。その右目の対蹠位置に穿たれた、虚しい眼窩は、赤黒い肉を
未だ身を潜めていた大海は、聖具を、すなわちゴルフクラブを、隻眼の男に投げつけた。その跳びすぎた男は、宙では身動ぐことも出来ず、ゴルフクラブに身を砕かれる筈であったが、しかし、信じられることが起こる。空中の男は、大海の所作がやや大きかったこともあってか、聡く飛来物の襲来を認めており、残った方の目でぎょろりとクラブを睨め付けた。そして空中で器用に身を捻り、右脚で、そのクラブを蹴り返す!
俺が目を剥く隙すらなく、空中から繰り出し返されたその兇撃は、大海の許へ正確無比に飛んでいった。躱し損ねた大海の身から、呻き声と血が迸る。俺は駆け寄りたくなったが、しかし、ひとまずは自らに向けての脅威を処理する必要があった。奴はクラブに力積を与えた分、多少軌道が乱れた筈なのだが、結局殆どの狂いも見せずに俺の元に降りかかろうとしている。ここで俺は瞬時に考えた。先程の曲芸のような業は見事だったが、しかし、一度跳ね上がった以上、最早着地点を変えることは出来まい。俺は急いでその場を、壁に沿って数歩登るようにして離れた。ここは教室の端、通路階段が走っている場所であり、机などなく、すなわち奴に蹴り飛ばせるようなものは何もない筈だ。
狙い通り、奴は俺の目の前、何もない階段に着地した。これで奴の足の長さの間合いに入らなければ安泰であると、そう、俺が思ったのは良くなかっただろう。その男は着地するや否や、全く間隙をおかずに、右脚を高く蹴り上げた。何が起こったのかはすぐに分かった、まるでシャベルで砂を搔くかのような何気なさで、階段の一段を蹴り、こちらへ抉り飛ばしてきたのだ。綺麗に切り取られた階段の床材は、散らばらず、一塊となって飛んできたので、些か気を抜いていた俺でも何とか避けることが出来た。そして俺はそう躱しながら、もう一撃を見舞うべく、再び縄跳び紐の持ち手を男に向けて投げ飛ばす。奴は蹴り上げの為に――恐らくは頭に上った血によって些か動作が無用に派手となったこともあり――不十分な体勢だったらしく、身を捻るようにして俺の攻撃を何とか躱したが、足下が階段であることを忘れていたか、それとも、仕方なしの行為だったのか、とにかく、足を縺れさせて転倒した。
「がっ、」
俺は急いでそこへ駈け寄り、マウントをとって、そうして倒れている男の横っ面を、投げ飛ばしていなかった方の持ち手を握った手で、聖具自体を叩きつけるようにして思い切り張った。もしかすると、「張る」という表現は良くなかったかもしれない、俺の一撃は、男の頭部を豆腐のように崩壊させたから。
最早、恐らくは自慢のものであったろう顔面をまるきり喪失し、釣り上げられた魚のようにピクピクと四肢を痙攣させるのみとなったその男――ここまで生き延びたに相応しい、美事にして素晴らしい伎倆を持っていた男――から俺は目を引き離し、教室の中央辺り、つまり、この凄まじい戦闘が開始されたあたりを見やった。そこが騒がしかったからではない、寧ろ、あまりにも静かなので見やったのだ。
そこには、一人の男のみが息を切らせて佇んでいた。見知らぬ男だが、先ほど入ってきた彼方組の三人組の中に、ああいう顔のような男が居た気もする。ただ、はっきりとは分からない。何せあれ程の戦闘を経れば顔つきなど、刹那的にも恒久的にも変わるだろうから。
しかし、特に他の者の侵入してくる気配がなかった以上、やはりあの男は最初に入ってきた三人のうちの生き残りなのだろう。つまり、敵だ。恐らくはまだそこらに転がされているのであろう大海達の身も心配だが、まず、こいつを対処せねばどうにもならない。彼ら同志をただ看取るにせよ、治療を試みるにせよ、だ。
俺がその、こちらを、睨むというよりはじっと見つめている男へ攻撃を行うべく、聖具を振りかぶると、その男は手の平を突きつけるようにしてきてから、
「待て!」
何事かと思った。待て、だと? こいつは俺に指図をすることが出来ると思っているのだろうか。同胞を、少なくとも強か傷つけ、――そして恐らくは絶命せしめた連中の言うことを、俺が聞くと思うのか?
しかしその男は続けた。
「悪いことは言わない、待て! お前と殺し合う前に確かめねばならんことがある。」
その声の調子は強かったが、しかし、最初のものほど大きくなかった。まるで、誰かに漏れ聞かれるのを憚るかのように。また、男の顔はこれ以上もなく真剣な様子だったが、それのみであり、今存在していて然るべき邪悪さや怨嗟が全くそこに滲み出ていないのだった。
この様子に、俺は少し話を聞く気を起こさせられた。
「何だ?」
男は、俺の態度にいくらか安心したらしく、僅かに安堵を
「お前、彼方組か?」
その突拍子の無さによって、俺は吹き出さないよう努力する羽目に見舞われた。
「何を馬鹿なことを。俺達とお前達が同じ穴の狢であるのならば、なぜこれほどまでに殺し合う必要があろうか。」
男は、そりゃ、空手であるからには戦闘に殆ど手を使わないつもりではあるのだろうが、それにしてもあまりに不用意なことに、ぼんやりと額へ手を当てて呟く。
「ああ、やっぱりか。」
俺はすぐに問い質す。
「どういう意味だ?」
その男は
「いいか、良く聞くんだ。お前達が彼方組でないことは分かった。そして、お前にとっては驚くべきことなのかもしれないが、俺も彼方組なんかじゃない。」
俺は意味を汲み取り損ねた。何だと? この男は何を言い出した?
「そしてだ、」男は、俺が混乱から醒めるのなど待ちきれないという勢いで、「聞け。俺達は彼方組と同盟関係にあって、あの連中に呼びつけられた結果ここに来たんだ。直接話したいことがある、とな。確かに最初階段の中央に立っていた男はまるで見覚えがなかったが、しかし、俺達は彼方組の全員の顔を知っていたわけではなかったから、奴らの内の残りの誰かなのだろうと勝手に想像してしまったんだ。
そこでお前に問うが、もしかすると、お前達も似たような状況だったんじゃないのかよ? 彼方組に呼びつけられて、その結果、現れた俺達のことをてっきり彼方組だと思いこんだ、と。」
俺は懸命に情報を整理した。とんでもないことを聞かされているわけだが、しかし、こいつが彼方組の一員でないという主張は、考えてみると非常に確からしい。明らかに銃武装していないのもそうだし、そもそも、出合い頭、確か額賀が彼方組の針生が来ていないことについて問い質した時、さっき俺が殴り殺した奴が、世にも間抜けた返事を寄越してはいなかっただろうか。まるで、針生という人物など存じない、いや、それどころか、針生という響きが人名であることすら認識していないかのような応答を。……ああ、そうだ、このやり取りからは俺達のほうの無知、つまり、額賀があの三人のいずれをも見知っていなかった事実すら含まれているではないか!
俺は目の前の男の言うことをすっかり信用する気になっていた。
「万事納得した。お前は確かに彼方組の者ではないのだろう。
そして質問に答えよう。お前の指摘は、厳密には不正解だ。俺達は彼方組に呼びつけられたのではなく、寧ろアイツらをここに呼んだんだ。額賀――最初お前達に話しかけた男――が一人で応ずる振りをして、実際には他四名が忍ぶことで奇襲を掛けるつもりだった。」
「やはり、そうか。つまりお前らも、彼方組に一杯食わされたということだな。きっとそうだ、アイツらはお前達のその企みを何らかの手段で看破して、
この言葉をすんなり呑み込んだ俺は、まず衝撃を受け、続いて激しい憤りを覚えたが、しかし、その後では僅かにだけ冷静になった。一応の論理を見出したからだ。
そして、もしかしたらこの先、目の前のこの男と呉越同舟の
「確かに一見汚いし、また実際大手を振れるような戦術ではないだろう。しかし、俺達とお前達はそもそも敵対する者通しであるのだから、そこまで悪徳な行為という訳でもないとも言えるがな。確かに俺やお前は仲間を失ったが、それは俺やお前、あるいはその仲間が弱かったせいでもある。」
男は何となしに首を振ってみせた。
「随分とあっさり割り切るんだな。まあ、お前がそれでいいなら構わないがよ、」
「いいわけがないだろう。お前達に一割、彼方組に九割の割合で怒り狂っている。」
男は俺の顔を見据え直し、眉を上げて、
「それはよかった。お前がまともな神経の人間であるということなら話も通りやすいだろう。俺が最も許し難いのはだ、彼方組の連中が、俺達とお前達を戦わせるだけでは満足していないようだということだ。」
「どういう意味だ?」
「そもそも少し考えて見てくれよ。この彼方組の工作、ちょっと成り行き任せが過ぎるんじゃないのか? 俺達もお前達も一挺たりとも銃なんぞ持っていないのに、つまり、ちっとも彼方組に見えないのに、確実に戦闘を繰り広げてくれるだろうかね――実際にはそうなったが、ひとまず結果論は脇に置いて――もしも、互いの正体が判明し、かつ意気投合されたら、当然俺達とお前達が彼方組に対して激しい怒りを覚えた状態で、もしかすると団結することになり、ひいては、奴らにとってマイナスな材料となるだろう。
つまり、もしかするとあいつらは、この戦いの様子をどこかから窺っているんじゃないかと思ったんだ、そうしたら、」
面喰らった俺が遮った。
「この部屋の中に彼方組の奴らが? 馬鹿な、」
「ああ、こん中には多分居ねえな。しかし、どこか近所から――例えば廊下あたりから――物音を聞くだけでも十分だろ?
ああ、と言うわけで、そろそろお前の辺りの机を適当にぶん殴って壊してもらえないか、
俺は目の前の男の聖具や戦闘スタイルを知らなかったし、話の全てについて納得しているわけでもなかった。しかしだからといって断る材料もなかったので、丁度右手の辺りに有った机を殴り壊してやる。響き渡る破砕音が絶え入る頃に、男は頷いて、
「ああ、有り難うよ。で、俺は、もしかすると彼方組の連中が廊下に居やがるんじゃないかと思い、この教室で起きたことをざっと思い返して見たんだ。そうしたら、案の定だ。」
俺は訝った。
「案の定、だと? 彼方組の奴らが確かに廊下に居るらしいという材料が有るというのか?」
「ああ、大有りだ。路川――お前に襲いかかった男――が机を蹴り上げて、壁まで破片を飛ばした時に、声がしたよな。甲高い、恐らくは女の声が。」
俺は思い返す。そうだ、確かに、あの時に金切り声がどこかから聞こえてきた。そうか、そういうことか。
男が続ける。
「いいか、ここに連れ立ってきた俺達三人は男だ。そして、俺が見た限り、お前達も全員男だよな。でだ、彼方組にはな、少なくとも女が一人居るんだよ。実際俺はそいつに殺され掛けたから間違いない。」
俺は頷いた。
「ああ、俺も彼方組の女に以前襲撃を受けた。問題ないだろう。」
「それは頼もしい証拠だ。ああ、つまり、机の破片が壁を貫通したか何かの拍子で、今廊下に居る、とある女がつい声を上げた、と言うよりは、上げてしまった。そしてその正体は、彼方組の銃手なのではないかと、俺は思うんだ。ようは、アイツらは俺達とお前達を突き合わせるだけでは気が済まず、必要ならば開戦のきっかけとなるようなちょっかいを与え――廊下からの密かな銃撃で誰かが吹き飛ばされれば、恐慌状態に陥るだろうからな――いずれにせよ最後に生き残った幾人かを射殺しようと試みているんじゃないかと思うんだ。
……ああ、済まん、そろそももう一度破壊音を立ててもらえるか?」
また机を徒に破壊してから、俺は問い質した。
「お前の言っていることを確かめる方法はあるだろうか。」
「その、路川が開けた壁穴から向こうを覗いて見ろよ。もしも彼方組がそこにいたとしても、俺達がこうして戦闘を放棄しつつうじうじ話し合っているのに向こうから行動を起こしてこないということは、あっちから穴の中を覗いてはいないということだ。つまり、こっちから向こうを窺っても気付かれやしないというこった。」
「成る程。」
俺は頷いて、用心の為に目の前の男から視線を外さないまま、後ろ歩きの
俺は駈け気味に例の男の元に戻った。自然と、先程の対峙よりも距離がずっと詰まっている。
「間違いなかった。確かに、今廊下に彼方組の連中が居る。少なくとも四人以上だ。」
男は頷いた。
「成る程。やはりか。」
「して、どうする?」
「……ん?」
いきなり虚を衝かれたような顔をしたその男に、まるでそんなものを衝くつもりなかった俺は逆に戸惑ったが、思い出したかのように適当な机を再び破壊してから話を続けた。
「俺とお前は、ついさっきまで本気で殺し合う様な仲だったわけだが、少なくともこの場では――そして場合によってはもっと恒久的にも――協力し合うべきだろう。このままでは直に、俺達はアイツらに銃殺されて終わりだ。一人二人ならともかく、あの人数の彼方組を一人きりで倒しきることは絶対に出来ない、俺には、そして恐らくお前にもだ。ならばここは協力してとにかく生き延びるべきだろう。」
男は得心がいったような顔をして、
「成る程な。そういう意味か。いや、もしかしたらお前は、今俺が状況を大層楽観視していると思って、その話を持ちかけながら脅かしてきたのだろうが、寧ろ逆だ。俺は今、この状況をお前のよりも数段深く絶望視している。」
俺は得た疑問をそのまま口から零す。
「お前は果たして何が言いたい。」
「つまり、もう俺は、この状況では何をしても無駄、殺されるだけだと確信しているんだよ、もしもお前一人と協力してみてもな。」
俺は男の胸ぐらを摑みそうになるのをなんとか
「馬鹿な! お前は口惜しくないのか、恨めしくないのか、仲間をいいように殺されて、このまま自分の命まで彼方組に捧げてしまうつもりか!」
「忿怒と怨嗟だけでは復讐など出来ないぜ。俺達はお化けじゃねえんだからよ。……ええっと、」
その手振りと口ごもりで察した俺が、
「頗羅堕だ。」
「ハラダか。では、ハラダ、お前の気持ちは勿論分かる。俺だって、あの彼方組のクソ共がこの上なく憎たらしいさ。しかしな、だからと言ってどうするんだよ。ここからどうあがいたって、俺達にはアイツらを虐殺することなど出来ない、何故ならそれは、アイツらよりもずっと強い連中にのみ許される復讐の形態であるからだ。残念ながら俺やお前はそうじゃない。そもそもしっぽを巻いて脱出することすらままならないだろう。」
「何が言いたい?」
「復讐するにも、方法を考えるべきだといっているんだよ、ハラダ。ここから生還したり、あるいは、アイツらを鏖にしたりなんてことは不可能にしても、出来る事は色々ある。そこで俺は、」
男は不用心にも振り返って背を見せ、先程俺が張り付いたのと反対側の壁に並ぶ窓々を指し示した。この、七階に位置する教室の窓を。
「あそこから飛び降りてやるんだ。俺の所持ポイントを奴らにくれているくらいなら、自殺してやるさ。これによってアイツらがいくらかでも餓えれば、俺の力からすれば十分な復讐となるだろう。」
俺は、語られたその言葉を理解しきれていなかった可能性を排する為に、十分な時間を使って思索に励み、結局、その試みが無為に終わってから口を開いた。
「本気か?」
「ああ、本気だ。だからハラダ、もしもお前が別の手段による復讐、自分が絶対に死ぬことを弁え、更に成果が得られる可能性が極めて少ないことを覚悟してまでアイツらに飛び込んでいくという、特攻を敢行するつもりなのなら、……本当に済まないが、俺からは協力出来ない。そんな幽き可能性よりも、俺は確実に犬死にたいんだ。理解してくれ。」
俺は少し口ごもりかけたが、しかし、結局黙って頷いた。男の固く澄んだ瞳が、説得を拒絶していたのだ。死を覚悟した者の目はこれほどまでに、瑠璃ごとく引き締まるものなのか。
「済まんな。」
そう言って少し微笑んでから、背を向けた男を、俺は一度呼び止めた。
「待ってくれ、お前の名も教えてくれないか。」
男がこちらへと振り返る。その頭部は、窓から漏れ
「躑躅森馨之助だ。漢字は、……どうせ口で説明したって分かりゃしない、勝手に想像してくれ。」
「分かったツツジモリよ、感謝する。」
少し間があり、
「何にだ?」
「さあな。」
ツツジモリは少し笑ってから、また
「あばよハラダ、地獄で会おうぜ。」
彼の姿は、さっきまで話していた相手が幻であったかのように、いともあっさりと、一瞬にして消えた。
一人になった俺は、また音を響かせる為に、適当な破壊行動を取ってから考え始めた。そろそろいい加減、廊下の彼方組の連中が痺れを切らして中の様子を窺いに来るかもしれん。いや、最悪の場合、廊下から壁越しに銃弾の雨霰を見舞って、俺達を確実に殲滅してからの御入場をするつもりなのかもしれない。それは
俺は何となしに周囲を見回す。すると、この行動によって、自分が骸に囲まれていることを思い出した。一番近くに転がっていたのは、見知らぬ顔の男、両手に靴を嵌めたまま、まるで魚の干物の仕込みのように、赤い身を開き
俺は須貝や頼実の最期も推し占おうと思い、顔をそっちの方へ向けようと思ったが、その動作は、ふと出現した感情に中断させられた。先程のツツジモリとの、論理だった、そして、殉教者のように清い会話によってしばし忘れさせられていた、悍ましい感情一般、激憤、哀悼、怨恨、悲歎、その他こもごもが突如油然と思い起こされたのだ。人によっては、こういった感情は慟哭を駆り立てるのであろうが、しかし少なくとも俺の場合は違った。殺意だ。純然たる、金剛石のように混じりっけなく堅固な殺意が、沸き起こり、俺を支配した。あれだけ頃安の事を悼みながら、彼方組の某かを殺すことは愚か、一切の戦果を挙げること能わず死にいった頼実、アイツのことを思うだけでも十分この上なく憤れるのに、他に大海、須貝、額賀、頃安、順藤を死に至らしめたことを、どう許せと言うのか。そして俺は、ツツジモリ達の死にすら、そのうちのミチカワの死に至っては己の手でもたらしたのにも
手は全く震えなかった。頭も、嵐の後の空のように晴れ渡ってくれている。俺は、最期に得られたこの平静さに感謝した。再び、無駄な破壊行為で奴らに音を聞かせてから、俺は行動を始める。向こうの、廊下側の壁の天井間際には、恐らく火災時の通気か何かの都合で、丁度高校や中学の教室でよく見られる天窓のような物体が嵌め込まれていた。そういった天窓と違うのは、硝子製でなく完全に不透明な素材で設えられていることと、俺の体でも通り抜けられるくらいの大きさを備えているらしいことだ。
俺は無事だった机の上に立ち上がり、天井からぶら下がっているモニタを見据えた。その後、縄跳び紐を目一杯長くしたあと、その片方の持ち手の辺りに大きな結び目を作り、それを、天井とモニタの狭い隙間目掛けて投げつける。ここに来てからの、命の懸かった修練の甲斐あり、そして、俺の聖具の威力の乏しさの甲斐あり、結び目は目標を外れることもなく、かといってモニタを破壊することもなく、然るべきところに引っかかってくれた。聖具たる縄跳び紐の強度は完全に信用していたが、しかし、モニタの方は未知数であったので、俺は兢々としながらその縄跳び紐をよじ登り始める。結果として何事も起こらず、俺は無事にモニタそのものに手を掛けることに成功し、天井近くに張り付くことが出来た。その後も何とか、天井のあたりの謎めいた器具を手がかりに、渡り、とうとう目的の、天窓のような物体にまで辿り着く。
願うようにそれを慎重に前へ押すと、幸いなことに難なく
生来遊園地なるものには興味も縁もなかったが、ここに来る前の修学旅行で一度乗せられたジェットコースター、俺は天窓からの落下中の刹那とも言える短い時間にそれを思い起こした。眼鏡の男の頭頂部が、見る見るうちに近づく。何かを察してか、その男が見上げ始めるか否かの、ほんの僅かに身動いだタイミングで、俺は、右手を振り抜く。顔面の皮を裂き、肉と骨を砕きつつ、血脂の生暖かさに
悲鳴が無秩序な合唱となって廊下に響き渡る。しかし、そこに、さっき聞こえた筈の女の声は混じっていなかった。一瞬のうちにちらと訝しんだ俺は、だからというわけでもなかったが、例の女が居る筈の方へ振り返る。
ああ、納得だ。その女は悲鳴など上げていなかったのだ。女は、これ以上もなく両目を円かにして、そこら中に血管の筋を幾本も聳えさせ、その癖血の気を完全に放棄したという器用な顔を下げて、
どうしようもなく、俺の前で引き金が引かれていく。
「死ね、クソゴリラ。」
興奮で痛覚を失っていた俺が最後に知覚したのは、この、氷よりも冷たい声であった
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