41節から42節

41 武智組、簑毛圭人

 僕からの報告、結局あの三人のポイント収支履歴に何ら怪しげな点がなかったことのみを聞かされた箱卸さんは、如何にも不満げな顔をしたので、それにより悪戯心を搔き立てられた僕が、

「君は僕のことが信じられないのかな。」

 とぽつりと言うと、彼女は突然大童となって、

「御免なさい! 圭人君、違うの、違うの、御免なさい、お願い、私を見捨てないで!」

 僕は軽率を深く後悔し、彼女を一所懸命に宥めた。

 その後いくらか落ち着いた彼女曰く、

「御免なさい、取り乱して。でも、私、本当に怖いんだよ。圭人君に見捨てられてしまったら、私、本当にどうしたら、いいか、」

「すると箱卸さんは、やっぱりあの三人を信用出来ないと言うのかい? 実際に僕がポイント収支を確認してみたというのに。」

「うん、ええっと、圭人君のことは信じているよ、本当に。だから、竿漕さん達が勝手にポイントを稼いだり使ったりということは、確かにないんだと思う。けど、それでも、」

「何で?」僕が訊ねる。「何で君はそんなにあの三人を疑るんだい? 何か根拠でもあるのかな。」

 箱卸さんは黙りこくった。やや絞った目を僕から逸らし、まるで後ろめたいことを言い兼ねているかのような暗い面立ちを興させ、そうして軽く開かれた口の中で舌が所在なげにうろうろしているのが見て取れる。

 結局彼女がおろおろと語るには、

「私、もともとあの三人、特に美舟さんを心の底から信用出来ていないところがあって、そして美鈴さんが死んだ後のあの冷静すぎる態度を見て、もうさ、もともとは霞の様に朧げでしかなかった疑念が、今や具体的なしずくになって私の心をびしょびしょにするようになって、つまり、彼ら彼女らがまるで信じられなくなって、」

 聞いていられなくなった僕は遮った。

「しっかりしなよ箱卸さん。その疑念は、僕が具体的にポイント収支を確認したことで晴れたばかりじゃないか。」

 彼女の頭が強く振られた。

「違うんだよ、圭人君。確かに、美鈴さんの死によって想起された疑念自体は根拠のないもので、君の言う通り、それは晴れた。でも、違うんだよ、この疑念自体は解消されたかもしれないけれども、私、この疑念をかえている間に、また新しい嫌な可能性に気が付いてしまって、それについては全く晴れていない、……いや、寧ろ圭人君の話によってより色濃くなってしまったんだよ。圭人君の手によって失われた可能性が、つまりその体積が、まるで、数知れない海水魚が泳ぐ生け簀をぎゅっと狭くするような調子で、残った方の可能性の密度を高めてしまったんだ。最早向こうが見通せないくらいの魚群にまで。」

 まるで訳が分からない僕は、素直に、

「新しい可能性とは、どういう意味?」

 ここで箱卸さんは再び動揺の色を見せた。しかし今度は、唇が白くなるくらいに口を固く閉じつつ、これ以上もなく円かにした目でしっかりと僕のことを見据えてくる。さっきの、話しにくいことをどうにかして話そうとしていた時の彼女と対照的なこの様子は、僕に、今の彼女が意地でも口を滑らすまいと努力していることを想像させた。

 そして案の定、

「御免、圭人君。話せない。」

「何でまた、」

「それは、あまりにも恐ろしい可能性だから、口にすることでそれが実体化するんじゃないかと思うと、それだけでとても怖くて堪らなくて、」

 出来るかぎり彼女から話を聞き出したい僕は、もしもこの躊躇いがナンセンスなところによっているのであれば、彼女を説き伏せるべきだろうと思って、

「ええっと、オカルトじみた話かな? 名前を呼ぶと出てくるお化けみたいな。そういう意味なら、」

 しかし彼女は否定した。

「そういう意味じゃないんだよ。つまり、口から出すことで実際にそれへの検証が始まってしまって、真実として判明、確定してしまうのではないかと思うと、それだけでとても怖ろしいんだ。だからこそ、……そう、君には話せないんだよ。私は本当に圭人君を信じていて、圭人君となら何でも出来ると、どんな苦境でも解決出来て、どんな謎めいたことでも解明出来ると本気で思っているんだ。、君だけには話せないんだよ。御免、その可能性を直視する覚悟と勇気がまだ用意出来ないんだ。本当に御免なさい。」

 これを聞かされた僕は、彼女のことを思えばこそ、意地でもその口を割らせたいという衝動に駆られ、その、なるべく穏便な方法を求めて思索に耽り始めた。

 しかし、そうし始めてからすぐに僕は気が付いたのだ。僕自身も、彼女に隠し事をしている。やはり彼女のことを思えばこそだが、しかし、僕はこの一連の疑惑が武智君達に知られていることを彼女に教えていない。こんな僕に、無理に箱卸さんの口を割らせる権利があるだろうか。また、もしかしたら、この彼女の箝口は、僕のことを思ってのことなのではないだろうか、僕が箱卸さんを思って秘を抱いているのと同じように。

「圭人君?」

 そうこうしているうちに、箱卸さんから訝しげに顔を覗き込まれてしまう。その、丸々と肥えた栗が濡れた様につややかな瞳を前に窮した僕は、彼女を抱き寄せることで場を凌ぐのであった。僕の体裁の悪さと彼女の不安、つまりは無用なものをそれぞれ打ち消す為に。


42 大海組、頗羅堕俊樹

 頃安を失ってから一晩が経過したが、頼実は未だ尋常な様子を取り戻していなかった。彼は未だ、その長すぎる顔を真っ青にして譫言うわごとを呟いている。

「アイツは、廉太郎は、ここに来てから、……いや、ここに来てしばらくしてから変わってしまったんだ。もともとは本当に心優しい奴で、……だから、ここを生き延びたら何としてでも元のアイツに戻してやろうと思っていたのに、畜生め、彼方組の連中め、」

 俺がその呟きを聞くともなしに聞いているうちに、用を足しに行っていた須貝と額賀が戻ってきた。これでこの部屋の中に、大海とその下の四名全員が――あまりに少ない全員が――顔を揃えたことになる。

 それまでこくりこくりとしていた大海が、まるで時宜を心得ていたかのように目を醒ました。これを受けて俺は喋り始める。

「さて、皆が揃ったところで聞いて欲しい。」

「何をだ?」と須貝。

「ここ最近の、俺達と彼方組と関係についてだ。」

「関係ってどういう意味だよ。」

 須貝に促されて俺は意を決す。

「つまり、これまで殆ど彼方組からの襲撃を受けていなかった俺達が、立て続けに襲われ、二人の同志を失ったこと、その原因について考えたいのだ。

 今までは全く接触がなかったのにもかかわらず、二度に及ぶ襲撃を連続で受けるのは明らかに異様だ。何か理由があると考えるべきではないだろうか。」

「たまたまって事もあるだろうよ。」

 須貝が反駁してくることは事前に分かり切っていたので、俺はすぐに言葉を返すことが出来た。

「偶然にしては異常だろう。一度目の額賀と順藤が襲撃された時の委細はよく分からないが、少なくとも、二度目の襲撃、額賀、頃安、俺が見舞わされた襲撃は偶然にしてはおかしいことだらけだ。

 まず、時期というか、間隔があまりに短すぎる。一度目の襲撃の翌日に彼方組と再び遭遇するだなんて、そんな偶然があり得るだろうか。」

「そのまま答えるなら、」須貝のさしはさみは速かった。「〝あり得る〟と言わざるを得んだろうよ。そもそも、二回の襲撃はどっちも同じような場所だったんだろう? なら、たまたま彼方組が、しばしばその地点で待ち伏せを行っているだけなのかもしれんだろうが。」

「違うぞ須貝、同じ地点だからこそ、偶然の可能性はますます減ぜられるのだ。」

 須貝は如何にも不服という様子で、両の眉を非対称に歪めた。

「なんだそりゃ?」

「彼方組の戦闘姿勢はお前も知っているだろう? それも噂や情報といった、言葉だけでなく、実際に襲撃もされたのだから身をもって知っている筈だ。こそこそと物陰から銃撃を試み、その後は出来る限り速やかにその場から離脱するのが奴らの基本的なやり方だ。決して深追いはしない。つまり、奴らは臆病というか、慎重な姿勢を取っているんだ。そんな彼方組が、前日に順藤を射殺した場所でまだ待ち伏せを続けるだろうかね。額賀を生きて返した以上、怒り狂った俺達が報復に来る可能性が十分あっただろうに。もっとも、実際の俺達は彼方組が同じ場所に現れるとは思ってもいなかったからそうしなかったわけだが、そんなことは奴らの知ったことではない。

 つまり、同じ場所で彼方組からの銃撃が二度あったということは、奴らが勇敢あるいは無謀にも、柳の下の泥鰌を狙わんとして同じ場所で待ち伏せを続けたということであり、これは、平常の奴らの姿勢、趣向と矛盾する。」

 須貝は少し考えてから、

「食糧危機か何かをやらかして、焦ったのかもしれんぜ? 多少の犠牲が出る可能性を踏まえて、一か八かで俺達全員を撃ち殺そうとしたのかもしれん。

 これは矛盾しない筈だぜ? 何せ、味方がいくらか俺達に殺されて頭数が減れば、その分食事に必要なポイントも減るわけだからな。アイツらが血も涙もない連中なら、こういうクソったれな計算に従って、敢えて少々危険な選択肢を取った可能性もある。」

「いや、有り得ん。」

「何故だ?」

「もしそうなら、俺達と総力戦をするつもりだったのなら、あの時の彼方組はいくら何でも手薄過ぎだ。もしもあの場に銃手がもう一人でも居たら、きっと俺は女を殴り倒した後も追いかけられ、速やかに射殺されてしまっただろう。しかしそうならなかった。

 つまり恐らく、あの場に居た彼方組の人員は俺が見た女と眼鏡の男の二人だけだったのだろう。ということは、総力戦ではなかったのだ。つまり須貝、お前の言ったようなことは考えがたい。」

 須貝は一応得心したような顔で、

「成る程な、では、お前が襲われたのは普通の待ち伏せだったということか?」

「それも有り得にくい。さっきも言ったが、同じ場所で待ち伏せをするということがそもそも不自然だし、二人という中途半端な人員も気になる。報復を警戒するのであれば少ないし、只の一撃離脱を目的とした待ち伏せにしては多い。この環境において、射手一人一人に護衛を立てる余裕があるとは思えんからな。」

「じゃあ何だってんだよ。」と須貝。

 俺は、これから言おうとしているとんでもないことを忌み、口ごもりかけたが、大海からのしっかりとした視線に励まされてどうにか語り始めた。

「あの時、彼方組の男女から逃げ延びて一人になっていた俺は考えたんだ。奴らは闇雲な総力戦を挑んできたわけでもない、気長な待ち伏せを敷いてきたわけでもない。そうなるとまるで、こちらの行動をある程度知っていて、その上で適切な戦力を割り振ってきたのではないのか、とふと思い立ったんだ。

 そこで思い出したのが、頃安がかつて語っていたことだ。敵方の情報を抜く為には二つの方策がある、と。」

 頼実が蒼い顔のまま反応した。

「そうだな、アイツは確かに、拷問でもすれば何でも聞き出せるみたいなことを口走っていた。恐ろしいことだ。ああ、アイツをまともに戻せないまま死なせてしまって、」

「違う、」俺は頼実を遮った。「俺が今問題にしているのは拷問の可能性ではない。だってそうだろう、俺達の誰が何時いつそんな目に遭ったというんだ。」

 頼実は少し黙ってから、いつもの彼には似合わない不健康そうな声で、

「となると、頗羅堕が気にしているのは、頃安が語っていた二つの可能性のうちのもう一つか。さて、何だったかな。」

「安心しろ。俺はしっかり憶えている。」

 頼実一人に注いでいた視線を、皆の方に向け直してから俺は言葉を続けた。

「そう、結論を言えばだ。俺はこう思っている。俺達の中に、彼方組のスパイが居る、と。」

 まるで突然目の前で花火が爆ぜたかのように、男達の目が一斉に見開かれた。須貝は面白そうに、頼実は不安げに、そして額賀は凍りついたようにして、己がじし目を見開いたのだ。前もって俺が相談していた大海のみが冷静な顔をしている。冷静とは言っても、その沈痛な表情は平時のものとは明らかに一線を画しているのだが。

 真っ先に顔を解凍することが叶って喋り出したのは額賀だ。

「スパイだって? 今お前は『スパイ』と言ったのか、頗羅堕? この中に彼方組のスパイが居るだって? 馬鹿言え、ここに居る五人は、もう一ヶ月以上も前から互いに見知った仲だろうが。」

 俺はしっかりと額賀の顔を見据えた。

「勿論、生粋の彼方組の人間がこの中に紛れている可能性はゼロだ。俺は確かに頗羅堕俊樹であり、お前は額賀健太に決まっている。それに加えて須貝太、頼実正直、大海航、ここに居る五人はそれで以上であり、確かにそれぞれ頗羅堕であり、額賀であり、須貝であり、頼実であり、大海である筈だ。

 つまり、スパイが存在するとすれば、以上の五人の中に、スパイとして該当するように人物が居るということだ。何らかの脅迫か取り引きかによって、この大海組を、(ここで俺は僅かに口ごもった。ある表現を避けたのだ。)……大海組を離れて、彼方組に与するようになった者が居るということだ。」

 額賀は顔を紅くして何か言葉を返そうとしていたが、それを須貝が手で制して発言権を奪った。

「相変わらずお前は次から次へと面白いことを言うよな、頗羅堕よぉ。まあ、喋んのはお前の自由だが、しかし、昔から言うだろう? 『沈黙は金』、あるいは『口は災いの門』ってな。そんな無茶苦茶なことを言うのであれば、余程の裏付けというか、根拠がないと困るぜ。俺ではなく、お前がな。白眼視されることになるお前が困るんだよ。」

 俺は須貝がいつも通りであることに励まされ、続けた。

「無論。それらしい根拠はある。」

 頼実が蒼い顔の底から、

「具体的にどれくらいの確信があるんだ? 例えば、確率で言うと何%くらいになる? その、俺達の中に彼方組のスパイが居るという可能性は。」

 俺は全く躊躇わずに、

「四割、というところかな。」

 須貝が手を叩き、愉快そうに吐き捨てた。

「は、馬鹿馬鹿しい。そんな腐った女のする噂みたいな、虚実定まらぬふわふわとした話なんか聞いていられるものかよ!」

「この四割というのは、大いに俺の願望が含まれている。こんなことを信じたくないという、下降修正の願望がな。それに、実はそもそも一割であろうが5%であろうが構いやしないんだ。何故なら俺は、この可能性についてはっきりと白黒つける方法を考えついている。」

 須貝が片眉をあげて、

「成る程な、さっさと確かめて濡れ衣だったら御免なさい、ってわけか。まあ、それならそれでも構わんだろうよ、俺達が生き残る為に必要なことであれば、多少の疑りや茶番も許されるだろうさ。

 さあ、頗羅堕、その『はっきりと白黒つける方法』とやらを全員に施してくれよ。そうすればさっさと話が済むって訳だ。」

「いや、それには及ばない。もう俺はスパイの正体について当たりをつけている。そいつ一人を調べれば十分だ。」

 須貝に促される前に、俺はその人物を指し示した。

「お前だ、額賀。お前のことを調べさせてくれ。」


 額賀の紅潮はますます進行し、最早熟れた林檎のようになった。その口から吃り声が、何とか外に転がりでるというていで響く。

「何を言っているんだお前は、俺が、裏切り者だって? 俺が、順藤と頃安を売っただって?」

「その二人に加えて俺のこともな、額賀。」

 当然額賀は何かを返そうとしてきたが、しかし、その発言は俄な轟音によって中断させられた。頼実が、座っていた椅子を後ろへ吹き飛ばすようにして立ち上がっていたのだ。

「貴様か、貴様が廉太郎を、」

 長い顔の上下に散らばった部品を懸命に中央へ寄せるようにして、深い怒りの表情を刻む頼実の剣幕に、俺はぎょっとさせられ、額賀に至ってはあからさまに狼狽える始末であった。

 しかし、こういう時に頼もしいのが須貝という男だ。飄々とした挑戦的な態度を露ほども毀たれずに、彼は、兢々と竦む額賀と、雄々しく歩み寄る頼実の間にはだかる。

「待て待て頼実よぉ。まだ頗羅堕から何にも聞いていないだろうが。まず落ち着いて話を聞こうぜ、椅子に戻りな。」

「何を、」

、頼実。まだ何も真偽は定まっていない。頗羅堕が真実を射止めている可能性も、訳の分からんことをほざいているだけである可能性も、それぞれ同様に存在しているんだ。まずは頗羅堕の話を聞こうぜ。な?」

 この須貝の言葉によって頼実がなんとか引き下がり始めたところで、しかし、額賀は待ちきれなかった。

「そうだ、頗羅堕、俺が怪しいというのならその根拠を言ってくれよ! おかしいだろ、こんな話!」

 俺は一つ息を吸ってから、

「では語ろう、まず、何故俺がお前を疑い始めたかだが、それは二回の襲撃についてそれぞれ顧みたことによる結果だ。一回目、順藤は射殺されたが、お前は無事だった。二回目、頃安は射殺され、俺もかなり危うい状況におかれたが、やはりお前は無事だった。お前を疑い始めるには十分なきっかけだとは思わないか。」

「ふ、ふざけろ! そんな理由で裏切り者扱いされてたまるかよ!」

「ああ、だからこれはあくまできっかけに過ぎない。俺がお前を疑い始めたきっかけだ。しかし、このきっかけを足がかりとした思索は、残念なことに、お前の嫌疑を只管に深めていったんだよ。」

 目を剥いた、尋常でない表情の額賀に俺が続ける。

「順藤がどういう最期を迎えたのかは俺にはよく分からない。しかし、頃安の死とその前後に起こったことは詳らかに知り尽くしている。

 まず、お前が主張したルートに従って、……いいか? もう一度言うが、、俺達はあの時進んでおり、その結果銃撃に見舞われたんだったよな。」

 須貝の顔がとうとう驚愕の色を帯び、後ろへ振り返った。須貝はこれによって、ますます忌まわしげに歪んでいる額賀の顔を見つけた筈だ。

 俺は続けた。

「もしかするとあれは、彼方組と申し合わせた地点に俺と頃安を誘導する為であったのではないか? そう考えると実にあの襲撃場所は理にかなっている。俺達が神仏への信仰心あるいは仲間への同情心から順藤の遺骸に参るとすれば、行きか帰りにあの地点を通らざるを得ないわけで、つまり誘い込むのには持って来いの場所となる。

 そしてだ、額賀、頃安が射殺された後で俺とお前は一目散に駈け始めたわけだったが、そのルート、特に、俺の逃走経路を指定したのもお前だったよな。お前自身の話によると、お前が逃げた方には彼方組の連中が居なかったらしいではないか。まあ、もしかするとこれも狂言で、実際には協力者としての彼方組と落ち合っていた可能性もあるが、いずれにせよ、敵、敵としての彼方組とは遭遇していないわけだ。俺の経路には二人の彼方組の人間が居たにもかかわらずな。」

 額賀は、顫える口許から何かしらを言い返そうとしているようなのだが、思考か、運動指示か、とにかくいずれかが言うことを聞かないようで、声にならない音を喉から漏らすことしか出来ない有り様だった。

 俺は畳みかける。

「更にはだ、あの時に右、つまり北への経路を取らされた俺は、当然逃げ道として北側の階段を目指した。しかし、あの階段はすぐ下りたところで塞がっていたんだ。俺が見た限りでは、道を塞ぐ瓦礫の上に埃が堆積しており、どうも今さっきに積み上げられた瓦礫とは思えなかった。つまり、俺は知る由もなかったが、あの階段、俺達がそのフロアに向かう時には使わなかった北側の階段は、大分前から塞がっていたんだろう。

 さて、額賀、もしかするとお前はそのことを事前に知っていたのではないか? これはたまたま知っていたのかもしれないし、あるいは、俺や頃安を嵌める為にあのフロアを調べ上げた結果として分かったことだったのかもしれない、何せ、」

 俺は一度言葉を切り、よくあたりを見回した。須貝も流石に見るからして興奮しており、今冷静なのは、既に俺の考えを全てを伝えてある大海だけのようだ。額賀に至っては、もはや目がそこかしこに向かって游いでおり、明らかに全ての平静さを喪失している有り様である。

 俺は続けた。

「何せ額賀、もしも本当にお前がスパイなら、須貝が射殺された後にお前はあのフロアをじっくり調べる余裕があった筈だ。本来は、そんな彼方組の銃弾がどこから飛んでくるか分からない場所なんて一刻も早く立ち去りたいと思うのが尋常の感覚だが、しかし、……、この前提はひっくり返る。 何せ、存在する筈の敵は消え、寧ろ、その彼方組の人間はこの上なく頼もしい護衛となった筈だからな。貴重な内通者を護るという狙いの為に、至上の誠実さを備えたボディーガードにな!」

 この言葉によって、額賀の動揺は明らかに深まったが、しかし不思議なことに、声を出すことは出来るようになっていたようだった、たとえそれが、露ほどの誠実さも窺えぬ震え声だったとしても。

「待て、待て、頗羅堕、目茶苦茶だぜ、たしかに俺の経路選択のいくつかは、彼方組に都合がいいようになってしまったかもしれない。しかし、しかし、たまたまかもしれないだろうが、そうだ、たまたまなんだよ、たまたま俺はそういう間の悪い選択をとってしまった、そう、たまたまだ、これが偶然の産物でないことを証明することは決して出来ない筈だ!」

 額賀に加えて、須貝と頼実も俺の顔を睨みつけてきた。俺の次の言葉を待っているのだ。

 俺はすぐにその要望に応えた。

「その通りだ額賀、俺の話は全て推論の域を出ない。何一つ証拠がない。お前の致命的な選択に恣意的な物があったのかどうか自体は証明出来ない。

 だがしかし、お前への嫌疑を抱くには十分な論理だった筈だ。後はこのを確かめるだけだ。選択がどうこうという瑣末な問題ではなく、このを、動かぬ証拠によって確かめるのだ。」

 俺は思い切り額賀を指さした。正確には、額賀自身でもその顔面でもなく、額賀の手首に纏わる電子機器を指し示したのである。

「いいか、額賀。順藤が射殺された時点では、俺や頃安がお前と共にあのフロアにあの時間に再来するなどということは全く決まっていなかった、順藤の死亡を受けて出歩く人員を再編成したのだからな。故に、もしもお前が彼方組と繋がっているのであれば、順藤が死亡したよりもずっと後のどこかのタイミングで彼方組と聯絡を取っていた筈なのだ。

 しかしそうなると、どうやって聯絡を為したのだろうか。俺達は――須貝に窘められた俺を除いて――基本的に単独行動をしない、無駄に危険を晒すだけだからな。となれば、彼方組の人間とお前がこっそりと会うことなど出来ない筈だった。

 だが、この単独行動の忌避は完全無欠というわけではない。たまたま数分くらい、アジトなりトイレなりシャワーなりで一人になる機会はどうしても存在する。勿論この、極めて短く極めて予測困難な間隙に彼方組と落ち合うことは不可能だが、しかし、?」

 これを言い切った瞬間、それまで一斉に俺の方へ向けられていた視線が、本人のものを除いて全て額賀に向けられた。最早顫え始めた額賀に、俺は最後の問いかけを投げつける。

「額賀、お前の端末に登録された通信先と、直近の通信履歴を見せろ。もしもお前が彼方組のスパイであるのならば、必ずそこに、彼方組と繋がっている形跡が残されている筈だ!」

 とうとう、額賀が膝から崩れ落ちた。その振舞は、これ以上もなく雄弁な絶望であった。


 安堵する間もなく、俺は急いで頼実の元に駆け寄り、その男を羽交い絞めた。案の定、頼実は馬のように息を荒げている。

「離せ頗羅堕! 俺はこいつの首を捻らねばならんのだ!」

 ここに来て大海がようやく立ち上がり、口を開いた。

「落ち着け、頼実。まず、」

「これが落ち着いてなどいられるものか、その男は、」

「落ち着けと言っているのだ!」

 大海の、壁を揺るがさんとする程のがなり声が響き、頼実の動きを止めた。相変わらずその息は荒いままだが、俺の腕から暴れ逃れようとする行為は停止されている。

 大海は穏やかに続けた。

「確かに、額賀がしでかしたと思われたこと、そして、頗羅堕によって、実際に額賀がやらかしたと証明されてしまった行為は許し難い。しかし、ここで額賀を吊るし上げたところで何になるというのだ。」

 既に俺が縛めを解いていた頼実が問い返す。

「どういう意味だ?」

「言葉通りの意味だ。この先俺達が生き延びる為に、この状況は最大限に活かさねばならん。額賀を殺してしまってはそれも叶わない、まだ事態を精算すべきではないのだ。

 俺はこの話を事前に頗羅堕から聞かされていたが、その時に思ったのだ。もしもこの忌まわしい疑惑が真実だったとして、俺達のなすべきことは何かと。

 そもそも今の状況で最もまずい事実は、彼方組の脅威が実は一向に去っていないということだ。だってそうだろう、これ以降額賀からの聯絡が途絶えたことで彼方組はスパイ工作の破綻を理解し、また、我々が額賀を粛正したことを想像する。そうなると俺達は実質残り僅か四人となり、最早、彼方組も慎重になる必要を感じなくなるのではなかろうか。すなわち、俺達を怖れなくなり、最早堂々と戦闘を仕掛けてくる可能性があるのだ。」

 少し平静を恢復しつつある頼実がまた問い質した。

「その想定は、彼方組が病的に慎重な戦い方をするだろうというさっきまでの評価と矛盾するぞ。」

「ああ、そうだ。」大海の返事は速い。「しかし、多少の矛盾を踏まえても、彼方組が積極的に俺達を攻撃してくるのではなかろうか思わされる根拠はまだある。頗羅堕を襲ってきた女のことだ。」

 大海は俺に一瞬だけ視線を寄越してから続けた。

「頗羅堕は、逃げる為にその女を殺さない程度に殴り倒した。しかし、殺さない程度とは言っても、顔面への殴打となれば、頭部や外見面でのダメージは避けられまい。前者によって今ごろ死亡しているかもしれないし、後者によって女身としては恢復不能の痛手を負っている可能性もある。

 いずれにせよ、あの行為によって大いに彼方組からの恨みを買ったことになるだろう。勿論この顚末は全て向こうから襲撃してきたことによる結果であり、まことお門違いな恨みと言わざるを得ないが、しかし、怨恨というものはこういう論理を超越するものだからな。そしてまた、怨恨というものは、それが誘起する行動をもまた論理から超越させてしまうものだ。」

 頼実はすぐに、

「つまり、怒り狂った彼方組が、有利不利を考えずに俺達に襲いかかってくる可能性があると、そういうわけだな。」

「概ねその通りだ。もっとも、『有利不利を考えずに』というのは違う。どう考えても向こうの方が戦力が厚いのだからな。精々、『多少の犠牲が出ることを厭わずに、』くらいだろう。

 そう、この、『向こうの方が戦力が厚い』というのが、彼方組に狙われているこの状況ではこの上なく問題なのだ。恐らく個々の身体能力はこちらが勝るだろうが、果たしてそれが如何程のものになるだろうか。明らかにアイツらの方が――たとえそれがお遊び(ゲーム)を通じて育まれたものであろうと――戦い慣れしており、また、聖具への愛着及び聖具そのものの性質も比べ物にならん程強力だ。

 ただでさえこのような絶望的状況、俺達は額賀を粛正して喜んでいる場合ではないのだ、頼実よ。」

 頼実は、再び取り戻した苛立ちを声音に籠めた。

「では、具体的にどうしろというんだ!」

 対照的に、大海の声はますます落ち着いていく。

「まずは、額賀が知り得た情報、特に、彼方組に纏る話を全て聞かせてもらう。他の話は全てその後だ。」

 俺達の視線が、未だ立ち上がれない額賀の顔へ、顫え上がったそれへ向けて注がれる。

「さて、額賀よ、質問させてくれ。」


 額賀への聴取は随分と長く掛かった。得られた中で重要な情報としては、まず、額賀が彼方組に与するように脅迫されたのは、順藤が銃撃された、まさに直後のことだったらしい。つまりあの一度目の襲撃は、額賀の行為とは関係なく、純然に彼方組の手柄であったのだ。

 その彼方組の男、針生は、順藤を射殺した後に、その銃で額賀を脅しつけたのだという。命を惜しんだ彼はその針生の言うことを聞かざるを得なくなったというのが額賀の弁だが、しかし、俺はここで疑問に思った。

「まて、額賀。その場でその針生という男に諛わねばならなかったのは分かる。しかし、何故その後も大人しく従ったのだ? 一度別れてしまえば、その銃口に怯え続ける必要などあるまい。」

 俺のこの質問は額面通り以上の意味を含んでいた。つまり、俺は暗に「お前は命惜しさで仕方なく行動したのではなく、純粋に裏切り、俺達を見捨てて彼方組に与しようとしたのではないのか。」と額賀に問い質していたのだ。

 しかしこの裏の問いかけは、言葉の裡から出ることなく、怯えきった額賀の語りで否定されてしまう。

「それなんだがよ、あの眼鏡野郎、まず始めに俺達のアジトの場所、つまりこの部屋のことを訊き出してきたんだ。いや、どうか責めないでくれよ、銃を突きつけられてお前達の寝床はどこだと訊かれたら、そりゃ答えるさ。まさか、これがおいおい問題になるとは想像も出来ないんだからよ。

 ああ、つまりだ、『今後僕からの指示に背いたら、』……ってわけだよ。分かるだろう? この場所を教えてしまったことで、俺はもう逆らえなくなってしまったんだ。勿論アイツらがここを襲撃すれば向こうもただでは済まないだろうが、しかし、俺達あるいは俺自身は明らかにそれ以上の徹底的被害、死を被ることになるのだからよ。」

 俺はもう一つ問うた。

「ならばその脅し文句をすっかり俺達に打ち明けて、このアジトを移動させればよかっただろうに。」

 額賀は首を振って、

「他言するなといわれたんだよ。相変わらずに銃口を突きつけられたまま、もしも一言でもこの話を漏らしたら、と。」

 俺はここで額賀の愚かさに呆れた。仮に額賀が俺達に全てを語り、その日のうちに俺達がアジトを移送したとしたら、彼方組はそれを追跡出来るだろうか。不可能に決まっている。

 こういうことをはっきりと口に出すのは須貝の領分であった。

「なんだそりゃ、おい額賀。それならさっさとその針生って野郎についてのことを一切合切ここで喋って、それから引っ越し作業に入れば良かっただろうが。」

「それなんだが、」額賀の声は小さくなっていた。「アイツ、針生が言うには、通信先として端末に登録した人間の居場所は調べることが出来るらしい、端末から出ている電波を使ってな。つまり、逃げても無駄だし、逃げたらそのこともバレるわけだ。」

 ここに来て全く予想外のことが語られたので、俺は心底驚いた。馬鹿な、そんな機能が端末にあるとは聞いたこともない。須貝や頼実も露骨に狼狽ている。

 しかし大海は冷静で、

「おそらく、それは方便だろう。額賀に言うことを聞かせる為のな。

 しかし、これを見抜けなかったからといって額賀を責めるわけには行かない。何せ、銃での脅しがあったのだから、明らかに平時と比べて判断能力を欠いていたのだろう。」

 大海は俺達を見回してから言葉を続けた。

「さて、以上を纏めるとだ。額賀は脅迫によって、仕方がなしに彼方組へ協力させられた。そして、順藤の死に額賀は関与しておらず、この工作によって失われたのは頃安の命だけであった。

 俺と頗羅堕は既に話し合ったのだがな、以上を踏まえ、俺達は額賀を許すべきなのではないかと思うのだ。」

 今度ばかりは、須貝の反駁癖を頼実の激情が先んじた。

「何を言っているんだ大海! こんな、仲間を売った裏切り者を許すだなんてことが、」

 大海はかぶりを振った。

「違う、額賀は裏切り者などではない。俺も頗羅堕もそういう表現は一度も使っていない筈だ。スパイとは呼んだかもしれないがな。

 つまり、額賀は俺達を裏切ったのではなく、本人なりに仕方がなく、他に選択肢がない状況で彼方組に協力させられたのだ。確かに頃安の命を奪ったのは額賀かもしれん、しかしその罪は、裏切りではなく、失態として、つまり針生のはったりを見抜けなかったことについてのみに集約されるべきだ。額賀は目一杯に謝罪をすべきかもしれん、しかし、高々そこまでだ。」

 明らかに頼実はこの言葉に納得していなかったが、しかし彼は黙った。突然の額賀の、膝頭と額を床に擦り付けながらの、吃り混じりの言葉に聞き入る為だ。

「済まない、この通りだ。俺は、自分の身の可愛さに、取り返しのつかないことをしてしまった。しかし、このままでは、このまま死んで詫びて見せても俺の気が済まない。どうか挽回させてくれ、頃安の命の分を、俺の手で挽回させてくれ。」

 大海は、頼実が何かを言い出すのに先んじて、

「俺と頗羅堕も考えていたのだ。俺達はこれから、この、額賀にしか出来ないことを額賀に頼まねばならない。ここで額賀を責めて殺すのは簡単だが、今俺達はそんなことをしている場合ではないのだ。」

 頼実は大海のほうを見た。

「具体的になんだ、その、額賀にしか出来ないことということは?」

「孫子の兵法を知っているか?」と大海。

 頼実は長い顔を振って、

「名前くらいはな。中身を読んだことはない。」

「兵法ではスパイ、つまり間者というものが五つにカテゴライズされていて、それぞれの重要性が篤く語られているのだが、この中でも最も重要とされているのが、三番目の〝反間〟だ。」

「なんだそれは?」

「反間、すなわち、『そむく間者』だ。簡単に言えば二重スパイだな。兵法においては、これが最も重要な間者であるとされている。

 つまりだ、先程俺は、今俺達が絶望的な状況にあると説明した。戦力で圧倒的にこちらを上回る彼方組に狙われている状況だと。となれば、この状況を打破し得る奇策がどうしても必要だ。俺が思うに、今可能なそれとは、孫子の言うところの『反間の計』しかないのではなかろうか。すなわち、額賀を通じて、逆に彼方組をこちらの思うままに動かすのだ。」

 頼実はこの理窟に納得したようで、

「成る程、額賀が彼方組に信用されていることを利用して、間違った情報を向こうに流すということだな。」

「あるいは、彼方組が待ち伏せると決定した場所と時刻をこちらに教えてもらうのもいいな。またも二人くらいの少人数であるなら、準備をした上で襲いかかれば勝機があるやもしれん。

 どうだ、頼実、納得しては貰えないだろうか。俺達は今、唯一の命綱と思しき貴重な札を握っているのだ。額賀を粛正すれば、それを永遠に失うことになる。だから、というわけでもないが、俺と頗羅堕は額賀を許してやりたいのだ。そして活路を開きたい。額賀に、挽回のチャンスを与えたい。」

 頼実は忿懣やる方ない様子ではあったが、しかし、しばらくした後に結局、

「まあ、仕方ないだろうよ。それが俺達に許された唯一の道だというのであればな。それに、こんなところで犬死にしているようでは、頃安にますます面目が立たん。

 ……おい、額賀! 今度へまをしたら承知しないぞ!」

「ああ、分かってる、分かってる、済まねえ。本当に済まねえ。」

 頼実の不器用な容赦に俺は感心した。額賀の行為を背信ではなく、単純なだと認めたのだ。

 その後、須貝にも文句がなさそうなのを表情から確認し、俺は久しぶりに発言した。

「さあ、これから、どうやれば最も大きな痛手を彼方組に喰らわせられるのかを皆で考えねばならない。……それも可能な限り急いで、彼方組が不審がらない内にだ!」

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