第25話

 もう一人の学級委員長候補、ドクター・クラスメイトこと華縞はなじまはボクの顔を見るなり逃げるように去っていった。


 でも、ボクには追いかける理由がある。

 代山だいやまから、ドクター・クラスメイトのマスクを預かっているからだ。

 華縞がドクター・クラスメイトを続けるのか、やめるのかは本人の意志に委ねるしかない。


 しかしもう一度奮い立った時に、このマスクがなければどうにもならない。

 ボクはこのマスクを華縞はなじまに返して、事の成り行きを見守るだけだ。


「華縞っ!」

 そう呼びかけたが華縞はボクの声を無視して駆けて行った。


 そして廊下に飛び出たボクの目の前には十文字じゅうもんじがいた。


 近くで見ると、肌はカサついてスラム街で育った子供のようだ。

 元々、華奢で凹凸のない身体つきではあったが、貧相を通り越して病弱に見える。

 病弱な人間なら代山で見慣れているはずだったのに、ついこの間まで健康体だった十文字の変容はやはりショックを受けてしまう。


 心の奥から湧き出てきた感情は不思議なものだった。

 同情とも違う気がする。

 喪失感、郷愁という気持ちに近いのかもしれない。


 身勝手な話ではあるけど、今となっては昔の十文字に文句を言われていた時が懐かしい。

 目の前にある現実を認めたくなかった。

 どこかで、まだ今ならやり直せるんじゃないかと信じたい気持ちがある。


 ボクは制服のシャツのボタンを外す。

 かつて十文字はボクがシャツの第二ボタンを外していたくらいでヒステリックに注意してきた。

 しかし、今は第三ボタンを外しても無反応だった。


「ボクのこの格好を見て、なにか言うことはないか?」


 そう問いかけたが十文字は目を閉じてゆっくりと首を振る。


 それなら、とズボンの社会の窓を開放する。

 さらにそこからシャツの裾を飛び出させる。


 かすかに十文字の頬がヒクついた。


 そのわずかな手応えにボクは賭けるしかなかった。

 ボクはシャツのボタンを全部外し、胸を露わにする。

 そして一気にズボンをかかとまで下ろした。


 十文字の眼鏡の奥の目が苦しそうに歪む。


 もう少しだ。

 しかしボクに残された着衣はもうパンツだけだ。


 脳裏にかつてお世話になった人、友人たちの顔が思い浮かぶ。

 これをしてしまったらもう、あとには戻れないだろう。

 今なら引き返せる。


 でもそれでいいのか。


 一人の人間を救えるかもしれないという時に、ささやかな平穏のために怖気づいていいのか。

 自分の胸に問いただす。


 答えは決まっていた。


 たとえ世界を敵に回すようなことになっても。

 それでもやらなければいけない。

 ここで引き下がったら、何もかも終わりになってしまう。


 ボクはすべての勇気を震える手にかき集め、パンツに手をかけた。


「おいっ、キミ!」

 遠くから声をかけられ振り返ると、一人の教師がこっちに近づいてくるのが見えた。


 ふと自分の格好を見ると、シャツははだけて乳首が露出しているし、パンツ一丁だ。

 なんと言い訳しようが、これではただの変態だ。

 しかも言い訳しようにも、特に正しそうな理由も見つからないときてる。


 ボクは十文字の手を取り、そこから立ち去ることを選んだ。

 全力で逃げたかったが、かかとまでずり下がったズボンが邪魔をして小さい歩幅でチョコマカと走るしかない。

 どうにか逃げ切って顔を上げると十文字は眉間にシワを寄せて言った。


「バカじゃないの!」

「まったく返す言葉が見つからない」


 追い剥ぎにあったかのような格好のボクは、十文字の罵倒を受けながらシャツのボタンを止める。


 自分でもどうかしていた。


 ちょっとした衝動に、十文字のためという大義名分が後押ししたために自分自身に酔ってブレーキがぶっ壊れてしまったのだ。


「フフッ、もうなんなの、あなた」

 十文字が小さく吹き出した。

「悪くはなかったでしょ?」

「やっぱりダメっ!」

 彼女は顔を背けて後ろにのけぞった。


 おいおい、そりゃないだろ。

 誰のためにこんな変態的なことをしたと思ってるんだ。


 確かに自分自身を開放していく快楽には抗い難く、ほとんどが自分のためと言っても過言ではないけれども、でもそもそもは誰のためにしたと思ってるんだ。


 エビのように後ろ向きに退いていく十文字を追いかけて角を曲がると、毛むくじゃらの何かにぶつかった。


「きゃっ!」


 女の子らしい甲高い悲鳴をあげたのは、よく見れば末洞まっどだった。


 まるで少女漫画で食パンを咥えながら「ちこくちこくー!」と駆け、出会い頭に衝突したような状態だ。


「痴漢!」

「ボクのどこが痴漢なんだよ。冤罪も甚だしい」


 そう発言したところで、よくみるとズボンはかかとまで下がってパンツ丸出しでシャツは胸まではだけている。


 正しい指摘だ。

 痴漢の称号に相応しい、破廉恥極まりない格好だ。


「どこからどう見ても! バカ! 痴漢! バチカン!」

「もっと落ち込んでるかと思ったら、元気ハツラツだな。色々言われるかもしれないけど、リラックスだぜ」


 そう言ってボクが十文字を追いかけようとすると、末洞がずり下がったズボンを踏みつけた。

 ボクはそのまま床にビターンといい音を立てて倒れた。


「なんでどこか行こうとしてるの!」

「話すと長くなるのだが、こんな格好をしてるのには訳があるんだ。だってそうだろ? わけもなく、こんな破廉恥な格好の人間を見たことあるか? その格好が非常識であればあるほど、その訳は大きな事態ということだ」

「言ってることが一つもわからない!」


 末洞は激しく地団駄を踏んでボクを睨みつける。

 頭を揺らすたびに、毛量の多い髪の毛がわっさわっさと大袈裟に主張する。


「そういうわけで、ボクは先を急がなければならないのだ。さらばだ!」

「待って!」

「待てない。人の命がかかってるんだ!」


 多少の誇張を交えて叫んだボクの主張は末洞の魂に響いたようだ。


「命を助けるために脱いだの?」

「そ、そうです」

「それなら痴漢じゃない。ごめんなさい」


 末洞はシュンと小さくなって頭を下げる。

 わかってもらえればいいのだ。


 ボクは足元に絡みついていたズボンをすべて脱ぎ、首にかけて結んだ。

 これで万全の体制で追いかけられる。


「いい加減にしなさい! ふしだらにもほどがあります!」


 いざ駆け出そうと思った瞬間、当の十文字の声がボクを引き止めた。

 そこに立つ彼女は、かつての頬を膨らませてじっとりとした瞳でこちらを見据える、あの十文字円子まるこであった。


 確かに言われてみればふしだらな格好だ。

 そもそもなんでズボンを脱ぐ方向に舵を切ってしまったのだろう。

 普通に履き直せばよかったのに。


「全然追いかけてこないと思ったら何やってるんですか!」

 そこに現れたのは華縞だった。


 どうして、このタイミングで。


 今、正気に戻ってズボンを履き直そうと決断したところなのに。

 もうちょっとあとなら、なんの問題もない猫丸ねこま琉平りゅうへい完全体としてお目見えできたのに。


「追いかけてきて欲しかったのか」

「欲しくはないけど、明らかに追いかけてきたら誰だって気になります。それが、ちょっと目を離すと裸を女の子に見せつけようとする最低の行為です。この人の言うこと聞かないほうがいいですよ、口先一つで今まで何人もの女の子を不幸の底に送り込んできたんですから。えっと……ほにょろろ子さん」

 華縞は末洞に向かってそう言ったが、名前が出ってこなかったのか、呼びかけるところは、微妙に口ごもった小さい声でごまかしていた。


「やっぱり、痴漢!」

「人聞きの悪い事を言わないでくれ。別に裸を見せつけようとなんてしてない。さすがにボクだって裸を見られるのは恥ずかしいよ。ただ、そんな恥ずかしさもある閾値いきちを超えるとやがて新たなる扉が開くわけで」

「そこまでぞよ!」


 声がして天井から甘噛魔が降ってきた。



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