第32話

 ジャックは無言でボクにメガネを渡してきた。


 奇跡的にというべきか、メガネはフレームも無事でレンズにも傷一つなかった。

 ボクはそれをかけてジャックを見る。


 ジャックはボクのメガネ姿を見ても無表情だった。


 撮りっぱなしのカメラにもジャックの憮然とした佇まいが冷たく写っている。

 雑に人の領域にまでズカズカ入ってくるジャックにしては珍しい。

 嫌味の一つも言うか、ハカセキャラを強引に押し付けてくるかと思ったのに。

 先手を打ってボクはジャックに向かって言った。


「何だジャックだったのか。ゴリラが突進してきたのかと思って驚いたよ」


 冗談を言って言い返されるのを待ってたのに、ジャックから帰ってきた言葉は


「さよか」


 という、そっけない一言だった。


 なんだか調子が狂うし、そんな風に返されたらボクがただの無礼な奴みたいじゃないか。


「あの、ありがとう」


 気まずい空気を誤魔化すようにボクは礼を述べた。


 ジャックはそれに答えない。

 不機嫌そうにこっちをにらみつける。

 ヴィッチに襲われることはなかったけど、ボクだって神経を使って警戒して、いざとなったら女の子たちを守る覚悟はできていた。

 そんな風に睨まれる覚えはない。


「なんだよ? みんな無事だよ。むしろジャックがいない時のほうが注意深くなって安全だったくらいだ」


 ボクがそう言うと、ジャックは眉を下げて弱々しい笑みを浮かべた。


「さよか。ほんなら安心して任せられるな。ハカセ、みんなを頼んだで」

「おう、任せてくれよ。でもボクは平和主義者だから戦わないで逃げるけどね」

「それでええ」

「じゃ、行こうか」

「行かれへんねん」


 ジャックはそう言って首を横に振った。


 ヒィッと激しく息を吸い込む音がして振り向くと、ミサキが口に手を当てて瞳を潤ませていた。


「なに?」


「噛まれてん」


 ジャックのその言葉を理解するのに時間がかかった。

 ほんの数秒だったかもしれない、でもすぐには理解できなかった。

 そして理解した後に、理解したくなかった思いが襲ってきた。

 背骨が熱く焼けるような、皮膚が凍りつくような、言葉として表現できない感情が身体を支配する。


 ジャックはデニムの裾を捲り上げる。

 そこには赤いラグビーボール型の傷。

 小さい。

 500円玉ほどの大きさしかない傷だ。


 ジャックの傷を見た女の子たちは絶句をしていた。


「そんな……そんな……」


 呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息が乱れ言葉が出てこないボクの肩をジャックは強く握りしめた。


「任せたで!」

「やだよっ! 何言ってんだよ! いいわけないだろ! 行くんだよ! 一緒に、行くんだ!」


 ボクは取り乱し喚き散らす。


 ジャックはそんなボクを非難するわけでもなく、諭すわけでもなく、ただ笑顔で見つめる。


「チナミ、もうちょい優しいしたかったんやけど。スマンな。おもろいこと言えるように勉強しとくわ」

「怖くて面白くないけどジャックがいいでやんすぅ」


 チナミはジャックのお腹に抱きつく。


「ラン、兄貴らしいことはなにもできへんかったけど、ずっとな、ずっとワイは妹や思ってんで」

「あたしもー、ジャックはお兄ちゃんです~」


 ランは天を仰ぎ、溢れ出る涙をそのままに嘆く。


「ミサキさん」

「わかってます。おっぱいでしょ?」


 ミサキはそう言ってカーディガンを脱ぎかける。


 ジャックはそれを苦い表情で見て、ミサキの手を止めた。


「ちゃうわ。ほんま言うと、そら揉みたいわ。やけど、ここは一つやせ我慢させてくれや。アカンねん。我慢せなな、泣きそうやねん。死にたくないって叫びたなんねん。この我慢は厳しいもんがあるで。せやからよう見とってくれや! ワイのカッコええ姿を! こういうんがヒーローっちゅうもんやねんで!」


 ジャックはそう言って見栄を切った。

 スタジャンにキャップ、穴の開いたデニムにスニーカー。

 そんな姿のヒーローがそこにいた。


 あんな小さな傷一つでどうにかなるなんて信じられない。

 だけど、どうにもならないんだ。

 どうにもならなすぎるんだ。

 ジャックは死ぬ。

 どれだけかわからない。

 あと数十分かも知れないし、数分かもしれない。

 その後はヴィッチになるのだ。


 でもボクには、ボクたちにはカンダのようにジャックの頭を潰すことはできない。


 ジャックはしがみついたチナミを引き剥がし、数歩後ずさってボクたちを見回した。

 悟っているのか、諦めているのか、無念なのか、彼の心はわからない。

 でも彼の表情は不思議な事に笑顔なのだ。


「ジャック!」

「ハカセ、スマンな。映画出られへんで。せやけど自分の夢、最高や」

「ジャックゥ!」

「なんやねん。自分ら顔汚いなー」


 確かにボクたちの顔は涙や鼻水でグショグショでひどいものだった。


 ただミサキだけは、泣かずに下唇を少し噛んでジャックを見ていた。


「ジャック、私……」


 ミサキがそう言いかけたのをジャックは被せるように制した。


「ミサキさん! ええねん! もう、ええねん!」


 二人はそれだけで全ての意思を通じあったようにうなずいた。


「ほな! みんなおおきにな! ほんま、おおきに! 生きぃや! ワイみたいになったらアカンで」


 ジャックは後ろに下がりながらそう言って大きく手を振る。


「ジャック!」

「ジャック!」

「ジャック!」

「ジャック!」


 ボクたちのただ名前を呼ぶだけしかできない感情を受け止めたようにジャックはカンフーのファイティングポーズを決めると、大きく回し蹴りをしてそのまま振り返らずに走っていった。

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