第26話

 ドォオンンンン。

 地面を震えさせるほど重たく鈍い音が響いた。

 瞬間、全員が外を振り返る。


「誰でやんす? こんなでかい屁をしたのは」

「これはおならなんかじゃないだろ」

「えぇ! ということは……ウンの方?」


 チナミとボクの緊張感のないやりとりの中、ジャックだけは手袋をはめながら歩き出していた。


 慌ててボクも帽子をつかんでジャックに続く。


「その帽子……」


 ミサキが声を上げたので振り返ると、逡巡したようにうつむき「なんでもない」と首を振った。


 警戒しながら様子を伺い、ジャックは外に出た。


 そこにヴィッチらの影はなかった。

 人影はどこにもなかった。

 再び建物が激しく振動する。


「向こうやな。ちょうどええ、このまま逃げるで」


 ジャックはこちらを振り返りそう言った。


 ボクの背中にずっしりと重圧がかかる。

 精神的なものではなく、チナミがおぶさってきた。


「発進でやんす! ハカセロボ」

「チナミ、割と重いんだけど」

「そう、絆は重いものでやんす。もはやボクチンとは一心同体」


 店舗からはランとミサキが転がり出てきた。


 サクラが走りづらそうなハイヒールでようやく出たが、カンダは未練がましく食料を漁っていた。


「はよせいや!」


 ジャックがそう怒鳴ると、カンダはしょうがないなとでもいいたそうなニヤケ面でこちらに向かってきた。


 その時、店舗が再び揺れて棚の上段においてあった金盥が落ち、カンダの頭を直撃する。

 クワァァーンという響く音とともに、カンダはふらふらと足をもつれさせる。


 ジャックは舌打ちをすると、店舗に飛び込んでカンダを掴んで出てきた。

 あれだけ言い合っていてもジャックの行動には全くの躊躇がない。

 その点だけは本当に感心してしまうし、自分の心の狭さを痛感する。


 塀沿いにジャックを先頭として一列にしゃがみこんで様子をうかがう。

 奥の方には、すでに音を聞きつけたのかヴィッチらしき影が見えた。


 つばを飲み込む音すら聞こえそうな静寂の中、チナミが囁く。


「まずいことになったでやんす。おならがでそうでやんす」

「バカ、それどころじゃ」

「でも安心するでやんす。音一つさせずにスカすのはレディの嗜みでやんすから。女の子なら誰だって厳しい訓練の果てに習得してるでやんすよ」

「そうなの?」

「そうでやんす。そこの女子団だってさっきからこっそりプースカこきまくってるでやんすよ」


「こきまくってませんよ」


 ミサキは固まった笑顔でそうたしなめた。


 ランもサクラが重大な乙女の秘密を暴露されたような嫌な表情をしている。


 息を潜めて他にヴィッチが隠れていないかを探る。

 静けさが緊張感を高め、喉が乾いた時。


「うぅ……あたし、激しく気分が……」


 ランの力が抜け倒れこんだ。


 ミサキは盛大にむせて窒息しそうになっている。


「臭いわ! チナミ、これどういうことなの? どういう身体の構造したら、こんなに臭いおならできるのよ!」


 サクラが大声で怒鳴り散らした。


「シッ、静か……」


 制しようかと思ったボクの鼻先に漂ってきたのは、サクラのお怒りもごもっともという強力な神経ガスのような匂いだった。


「違うでやんすよ。これはボクチン一人の手柄じゃないでやんす。プースカこきまくってたみんなのパワーが一つになって絶妙なハーモニーを醸しだした結果でやんす」


 もはや遠慮することのないボリュームの会話に、近くでウロウロしていたヴィッチが一斉にこちらに意識を向けて行進を始めた。


「あかん、逃げるで」


 ジャックがそう言い、その声と同時に全員がきた道を戻ろうとする。

 しかし、立ち止まったカンダにサクラが、そしてミサキ、ラン、チナミと逆ドミノ倒しのようにつっかえた。


「なにしとんねん!」


 ジャックが潜めながらも、焦った声を上げる。


 カンダが無言で首を振りながら指さした先にはヴィッチがいた。


 白い肌、オレンジの髪、ミニスカートのアニメかゲームキャラのようなヴィッチ、しかしそのヴィッチが異常だったのは大きさだった。

 身長は2mに届くだろうか。

 ヴィッチ特有の細い身体も大きく、引き締まった筋肉をイメージさせる。

 面差しはヴィッチのそれだったのに、どこか骨ばった印象が残っている。

 思わず目をそらして胸の奥から沸き上がる、悲しみなのか悔しさなのか切なさなの か、形容しがたい感情に苦しく締め付けられる。


 ハルマだ。


 あれほどの思いで止めを刺したというのに、ヴィッチになってしまったのだ。


 ボク以外も、ひと目でわかったらしい。

 みんな恐怖よりも悲しみにとらわれていた。


 動けなくなったボクたちを認識することなくハルマヴィッチは近づき、サクラの足首を持ち逆さに釣り上げた。

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