第8話

 花火音はなびねはその声に振り返った。

 玄関の横から声をかけたのは端正な顔立ちの男性だった。


 色が白く、髪はきっちりとセットされ、白いワイシャツに細身のパンツという清潔感のある見た目。

 どこか蠱惑的な美しさがあって年齢不詳だが、それほど若くはなさそうだ。

 30代かもしれない、いや、もっと上かもしれない、でも、20代前半と言われてもそう見えてしまう、そんな奇妙な佇まいだ。

 身長は涼数寄より少し低いくらいか。

 花火音よりは背が高いが大きいという印象はない。

 身体つきは華奢で肩幅も広くない。


伊織いおり先生?」


 鹿鳴院ろくめいいん子蜂こばちがそう声をかける。


 涼数寄すずすきもその男性に向かってお辞儀をした。


にしきさん、来てくれたんですね」

「はい。一応ご連絡はしたのですが」

「ごめんなさい。ここは電波がよくないので気づきませんでした」

「そんなことだろうと思いました」


 涼数寄は伊織に向かって例のあの笑みを浮かべる。


 この場で新たな登場人物を把握してないのは花火音一人だけ。

 そして花火音のことを知っている者は涼数寄以外いない。


 なんだか仲間外れにされたようで急に心細くなる。


「どうも。あたしは花火音クリスチィです。涼数寄さんの付き添いできました」


 第一印象がかなり良いと評判の笑顔で花火音は挨拶をする。


「ええ。それよりもどうして?」


 鹿鳴院は自分の拳を見つめてそうつぶやいた。


 誰もが愛さずにはいられない最高で完璧な笑顔のはずだった。

 どこから見ても100点満点、いや200億点でも良いくらいだったのに、それをサラッと流すなんて。

 花火音の中で鹿鳴院の好感度はもう、急降下どころか奈落の底まで落ちていた。


 伊織はゆっくりとこちらに向かってきて話した。


「僕が探し求めていた、古い文献にあるペアボクシングの力。『えにし』と呼ばれるもの。誰もが絵空事だと嘲笑したけれども、子蜂だけは信じてくれた。やはり使い手となるのはあなただったのですね」


 整備されてないぬかるんだ地面にサンダルを汚しながら、伊織は鹿鳴院と隣りにいた涼数寄の手を取った。


「ですが伊織先生、わたくしはこの方を存じません」

「相手を知ろうと知るまいと関係ありません。何十年共にした竹馬の友でも、愛し合い連れ添った仲でもできるというわけではないのです。同じような痛みを抱え、同じような希望を見つめ、同じような苦しみを乗り越えてきた、二人にしかわからない絆があるのです」


「な~んてロマンチックなんでしょ」


 半ば呆れながら棒読みで花火音が漏らした言葉に、伊織は微笑んでウィンクをした。


 それだけで伊織との幸せな将来を想像するくらいちょっと好きになってしまった。

 あまりにも的確に心臓を鷲掴みにする精神攻撃に対して花火音は太ももをキツくつねって正気を保とうとする。


 鹿鳴院は涼数寄と繋いでいた手を放して向き合う。


 陽は落ち、薄っすらと地平線に赤い帯を残すだけだった。

 彼女はそんな薄暮がよく似合う。


「そなたは一体何者ですの?」

「涼数寄錦です」


 伊織は涼数寄を舐め回すように見る。

「失礼。錦さん、ちょっとよろしい?」


 伊織はそう尋ねると、涼数寄が頷くのを待って身体に触れた。

 筋肉の付き方を確かめるように華奢な指でそっと触れる。


「子蜂、パートナーを変更しましょう。今ならまだ調印式の前ですから問題はありません」


 鹿鳴院と焔明ほむらけの間にどんな経緯があったのかはわからない。

 しかし、涼数寄にとってはトントン拍子に話が進んでいる。

 花火音の悩殺作戦も結果的に功を奏した。


 花火音は焔明の存在を思い出し、見回すと10メートルほど弾き飛ばされ木の切り株にもたれかかっていた。

 近づいて声をかけようと彼の姿を見た瞬間、お腹の奥がキューンと吸い込まれるような異常さを感じた。


「ほむら……! 血が! しんじゃ……死んじゃう! 血が」


 焔明の右腹に鋭く尖った木が突き抜け血が吹き出している。


 こうなるともう、絆どころではなくパートナーとして試合に出るのは絶望的だ。


 花火音の悲鳴を聞いてみんなが集まってくる。


「あぁ、なんてこと……」


 伊織が100歳年を取ったようなおぼつかない足取りで寄ってきた。


「ただのかすり傷だ」


 そう言って焔明は腹から木を抜いて立とうとする。


「少々強く打ちすぎたようですわ」


 鹿鳴院は立ち上がろうとした焔明に手を差し出した。


 焔明はそれを振り払った。


「気にするな。そんなことよりパートナーだと?」


 二人のちょっぴり気まずそうなやり取りに花火音は思わず声を上げる。


「そんなことどころじゃないですよ! お腹に! 血が!」

「もう塞がった」

「塞がるわけ無いでしょ。貫通ですよ。救急車! 早く!」


 あまりの惨事に混乱する花火音に鹿鳴院は表情を変えずに言う。


「焔明さんなら平気ですわ」

「何冷たい顔してシレッと言ってるんですか。あなたバカなんじゃないの?」


 思わずカッとなって鹿鳴院に詰め寄ると、涼数寄がくすぐるように肩をたたいた。


「本当に大丈夫みたいだよ。見てごらん」


 焔明は穴の空いていた部分についていた血を手で拭う。

 そこにあった穴はかさぶたを剥いだあとのようなピンク色の皮膚になっていた。


「え、なんで? ひょっとしてあたしの悩殺忍法のおかげ?」

「誰だお前は」


 焔明は初めてその存在に気づいたかのように花火音を見下す。


「花火音クリスチィです!」

わたくし、全て存じてますわ。忍者ですのよね」


 鹿鳴院はいかにも社交的といった表情を崩さない笑顔で言った。


「ななな、忍者って一体誰のことですか?」

「失礼いたしましたわ。正確には忍者見習いでしたわね」


 花火音は涼数寄を睨んだが、彼は細かく首を振って自分ではないとアピールする。


「はてさて、言ってる意味が全然わかりません。忍者なんてもういるわけないじゃないですか。あたし一度もゴザルって言ってませんし」

「忍者だかハンバーグだか知らんが、そんなやつらよりパートナーのことだ鹿鳴院」


 焔明はちょいと邪魔な暖簾のように花火音を手で押しのけてそう言った。


 その態度が花火音の心の点火プラグをスパークさせた。

 焔明の太い腕に縋り付いて言う。


「忍者だかってどういうことですか? ちょっと待ってください、忍者バカにしてます?」

「忍者なんかどうでもい……」

「どうでもってことはないですよ。あなたが何者か知らないですけど、知りもしないで忍者のことずいぶん軽く言ってくれちゃいましたね」

「黙ってろ! この俺はお前ら凡百の人間とは……」

「黙りませんよ! あたしは忍者見習い花火音クリスチィ。伝説のくノ一くのいちを継ぐものです!」


「言っちゃったね」


 涼数寄がポツリという。


「言っちゃうに決まってるじゃないですか、あんなこと言われたら!」

「それがどうした。この俺は、この俺は、史上最強だ!」


 焔明は胸を張って肉食動物が威嚇をするように叫んだ。

 首に巻いていた蝶ネクタイがちぎれて落ちる。

 それは蝶ネクタイとは思えない音を立てて地面に穴を空けた。


「重い」


 涼数寄がその蝶ネクタイを持ち上げようとしてバランスを崩す。

 花火音はそれを奪い取る。


「あ、重っ! でもこんなものは忍者千年の歴史の重みに比べたら、ぴちぴちギャルの尻よりも軽いですよ!」


「クリスさん、熱情的ですのね」


 鹿鳴院は黒いハンカチを出して、手についた焔明の血を拭いた。


 まるですべてを把握して余裕を持って対処してるような鹿鳴院の姿と、孤軍奮闘している自分の姿を見比べて、花火音はなんだか恥ずかしくなった。

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