伊織香折

第9話

 伊織いおりが背筋を伸ばしてパンと手を叩く。


「はい、ごめんなさい。ご飯の支度ができてます。二人からは詳しく話も聞かなくちゃなりませんし、にしきさんたちも一緒にどうぞ。この古民家をリノベーションしてクリエイティブなワーキングスペースに仕立てたジムは温泉が湧いてますから。汗を流してきてください。ご飯が冷めないように手早くお願いします。男性は男性同士二人で、女性も女性同士でかまいませんね?」


 鹿鳴院ろくめいいんは素の美しい表情のまま首を縦に振った。


 花火音はなびねはこの空気をどうにかしてほしいと思っていたので、伊織が助け舟はありがたかった。

 気がつけばお腹も空いているし、温泉もちょっと嬉しい。

 初対面の人とお風呂に入るのは恥ずかしいが……。


 そう思っていると古民家に戻ろうとした伊織が足を滑らせてバランスを崩した。


 花火音は一足飛びに伊織の元へと馳せると身体を支える。

 手にかかる柔らかい身体の感触、思った以上に軽かった。

 ついで鼻孔をくすぐるような甘い香りが漂ってくる。


 伊織もアスリートだっただけあって、すぐにバランスを整えた。


「どうもありがとう。少しいいですか?」


 そう言って花火音の手を取る。

 まるでダンスに誘うように優雅な動きで伊織は言った。


「ほ、ほい」


 花火音が焦りながら答えると、伊織は花火音の腕を上げて身体を振り回すように動かした。


「素晴らしいダイヤモンド。でもほんの少しだけ磨く余地もありそう。あなたに出会えてとても嬉しいです」

「そうですか。それはどうも。へへへ」


 花火音は締まらない笑みを浮かべたまま、そう答えた。


 涼数寄に近づき耳打ちをする。


「一体いつの間に伊織さんと知り合いになってたんですか?」

「たまたまだよ。たまたま困ってるところに出会って、たまたま手助けして、たまたま連絡先を交換したら、たまたま鹿鳴院さんのトレーナーだったみたい」

「そんなに玉がたくさんつくわけないでしょ!」

「世の中っていうのは不思議なもので結果として起きている事実がすべてなんだよ。この宇宙に生命が誕生する確率は10の4万乗分の1らしいよ。そんな確率はありえないはずなのにボクたちはここにいる。どんなに否定してもその事実が全てだよ」

「なるほどー。そう言われちゃうと確かにそうですね。ちなみにあたしが涼数寄さんのその適当な方便にむかついてつねる確率はいくつくらいだと思います?」

「……0.001%くらいかな?」


 花火音は間髪を入れずに涼数寄の腕を力いっぱいつねりあげた。


「痛い! いたいたいたいたい……」

「なるほどなるほどー。確率なんてあてになりませんね。でも涼数寄さん気づいてました?」


 花火音が尋ねると、涼数寄は黙って片眉を上げる。


「だからー! 伊織さんのことどれだけ知ってるんですか?」

「それほどは知らないよ。伊織香折かおり、31歳、元ペアボクシングチャンピオン。選手引退後もペアボクシングの振興に携わっていて、同性同士のペアボクシングの発起人にもなっている。トレーナーとしての経歴は浅いけど、鹿鳴院焔明ペアを育て上げた名伯楽として注目されてるようだよ」

「そうじゃなくて、どんな人なんですか。性格とか」

「それはこれからわかるかも知れないし、わからないかも知れない」

「でもあの……伊織さん、女性ですよ?」


 花火音はさっき接触した時の感覚でわかった。

 鍛えてはいるが、筋肉ではない脂肪の柔らかさ。

 そう思って見ると喉仏もなく、骨格も女性のものだった。


 忍法では性別を偽るものなどもある。

 むしろ忍者見習いである花火音は、ひと目で気づけなかったことが悔しいくらいだった。


「チャンピオンになった時は男性とペアだったからね。でもそれ以外のことはこれからわかるかも知れないし、わからないかも知れない」

「おかしいと思ったんですよ。あんな格好いい男性いるわけないじゃないですか。本当に恋に落ちるかと思いました。このあたしともあろう者が。ギリギリでしたよ」

「別に伊織さんはそういうつもりでああいう格好をしているわけじゃないよ」

「つもるとかつもらないとかの話じゃないですよ。アレは警戒しないとヤバいです。ともすれば今回一番の危険人物かも知れませんね」

「どうかな。その法則で行くとボクの格好良さだってかなりの危険人物と……」


 花火音が無呼吸で繰り出した鉤爪の一撃を涼数寄はすんでのところで避けた。


「変なこと言わないでください。ビックリして致命傷を負わせかけちゃったじゃないですか」

「ビックリすると致命傷を負わせるのは良くないよ」

「今度そういうこと言ったら毒塗ったやつでいきますよ?」

「わかった。以後格好良くなりすぎないように気をつけるよ」

「一個もわかってないじゃないですか!」


 忍者にとってはなにより重要なのが情報戦である。

 素性を偽るなんていうのは序の口ではあるが、偽っているのを知っていながら黙っているというアドバンテージもある。


 色々と考えを巡らせていたが一つだけどうしても気になることがあって、花火音は伊織を追いかけた。


「あの! 伊織さんは、お風呂どうするんですか?」


 花火音は勇気を振り絞って聞いたものの、返答を待つ間に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


「僕は食事の準備をしますので気兼ねなく」

「あ、そうですよね」


 返ってきたあっさりした答えにホッとしながらも、胸の奥に名残惜しさが残るのを自覚する。

 自分でも一体何を期待していたのだかよくわからなかった。

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