第2話

 眩しいスポットライトとストロボの光に包まれたリング上の巨摩こまと対称的に、薄暗い廊下を涼数寄すずすきは一人選手控室に戻った。


 控室に入るとスポーティなポロシャツを着た男が待っていた。

 わざとワンサイズ小さいものを着ているのか、身体に張り付いたシャツは体型を色濃く反映させる。

 スポーツ経験者、しかし今は引退して時間が経っているのか筋肉にハリがない。


 男は不機嫌そうに言った。


「はじめから負けると分かっているなら、あそこまでいたぶる必要はないだろ」


 涼数寄は男と目を合わさずに答えた。

「あんまり堂々と来てもらっちゃうと困るんだよね。人に見られたら言い訳を考えるのはボクなんだから。いっそのことボクには見えないスピリチュアルな存在ということでごまかそうかな。え? 誰か見えてるんですか? ってね」


 巨摩への八百長に関して、涼数寄と契約した者が送ってきた見張り役だった。


 男はロッカーをにらみつけると、拳を打ち付けた。


 ファッションセンスが優れているとは言い難いが、安くはない装いをしている。

 特に革靴は結構なブランドのものだ。


 この控室では数多くの敗者が苛立ちをロッカーや備品にぶつけていて、あらゆるものがボロボロになっている。

 だからといって殴ってもいい備品なんて世の中にはない。

 なによりもスチール製のロッカーが出すけたたましい音は気に障る。

 涼数寄は男を見て、何も言わずに目をそらした。


「恥ずかしくないのか!? キミも今まで汗水たらして練習してきたんだろ、その結果がこれか?」

「あいにく、あんまり練習はしてないんだ。要領がいいから」

「こんな勝ち方をして巨摩だって喜ぶと思うのか?」

「それは知らないよ。ボクは巨摩選手と契約したわけじゃない。彼も知らないんじゃないかな」

「はっきり言ってやる。俺はお前が気に食わない。八百長なんてするようなクズは許せない。競技に対する冒涜だ」


 自分の気持ちだけを相手にお構いなしに伝えることをコミュニケーションと思いこんでいるようだ。

 スポーツで現役だった頃は、それでも結果を残しさえすればやっていけたのだろう。

 しかし、引退した今でもそのままというのはおさなすぎる。


 涼数寄は着替えをバッグから取り出しながら言った。


「ならあなたが戦えばよかったのに。戦う資格さえ勝ち取れないものが何を言ってもしょうがないよね」

「……そうか」


 男は靴を脱いでファイティングポーズを構えた。


「だったら証明してやる。俺が勝ったら二度と八百長なんてするな」


 真っ直ぐな男なんだろう。


 しかし八百長をしたとはいえ、試合直後に相手をしてあげられるほどの元気は残ってない。


 バッグの中から涼数寄は棒を取り出した。


「あなた、そんなことをしに来たの? それよりも上の人にこれ渡しておいてよ」


 涼数寄が差し出した棒を男は掴んだ。

 その瞬間。

「ヒンッ!」

 と声を上げて後ろに倒れた。


「八百長する人間が誰も見てないところで正々堂々と戦うはずがないでしょうが」


 涼数寄はそう言うと、念の為にもう一度スタンバトンを男に当てた。

 男はビクンと身体を痙攣させて白目をむいている。


 ロッカーを開けると、扉の裏側に鏡がついていた。

 そこに写ったいつもの締まりのない顔を目一杯笑顔にする。

 どうしても右頬だけ引きつり左右が非対称になってしまう。


「今ひとつ遊び心が足りなかったな」


 涼数寄が着替えを終えて部屋を出ようとすると、大きな影が突進してきた。


 男が息を吹き返したらしい。

 目は怒りに燃え、バーサーカーのようだ。

 もう八百長がどうとか、自分が正しいとかいう理屈すらないのだろう。


「このやろう、いい加減にしやがれ!」


 激しい息遣いで身体を揺らしながら男は襲いかかってきた。


 涼数寄はベンチソファの奥に退避し、男の突進を阻む。

 男は力任せにベンチソファを蹴った。

 涼数寄との間に空間ができ、男は涼数寄をじっとりと睨む。


 現役時代は立ち技主体の競技をしていたのだろう。

 やや後ろに重心をおいたまま軽く足を上げてリズムをとっている。

 足技に相当自信があるタイプと見た。

 現役を引退しているのに八百長に腹を立てる辺り、かなり真面目に競技に取り組んでいたはずだ。

 ファイトスタイルにもそれが表れている。

 軽く間合いを詰めると、ローキックで牽制を放ってきた。


 涼数寄の意識が下に向いたところで、強力なハイキックがこめかみに向かって飛んできた。

 涼数寄はそれを肩で受けたまま踏み込む。


 そのまま右フックで渾身の金的きんてきを決めた。


 男は空気を抜かれたように床に落ちた。


「どうして八百長をするような人間が、真面目に戦うと思っちゃうかな……」


 そう言って涼数寄は倒れた男にもう一度追加でスタンバトンを押し当てた。


 倒れた男を一瞥し、控室を後にする。


 メインの選手が使う大きな控室では、巨摩の勝利を祝う歓声や、ファンとの記念撮影で盛り上がっていることだろう。

 そして裏口には巨摩のファンが待ち構えている。

 涼数寄は廊下を進み、一般入口に出るエレベーターホールに向かった。


 マスコミが車椅子に乗った少女を囲んでいた。

 難しい病気で手術が必要だという少女の病室を巨摩が訪れたニュースを、涼数寄も目にしていた。

「まるで妹ができたみたいですよ」

 リップサービスでそう答えて笑う巨摩の映像は何度も目にした。


「お兄ちゃんのおかげで頑張れそうです」

 車椅子の少女の大人たちが喜びそうなコメントが涼数寄の耳に入る。


 さっきまで会場中の視線を集めていた涼数寄の姿に気づくものは誰もいない。


 40代後半に見える女性が嬉しそうに車椅子の少女に背を向けて自撮りをしている。

「ねぇちょっと。撮ってもらえる?」

 人垣が邪魔になって上手く撮れなかったのか、不服そうに首を傾げた女性は、涼数寄の袖を無遠慮に引っ張った。


 涼数寄は彼女からスマホを受け取り構える。

「はい。撮りますよー」

「良かったわねぇ。勝って本当に良かった。もう本当、涙が出ちゃうわ」


「神様はちゃんと見ているもんですね」

 涼数寄はいつもどおりの笑顔を浮かべてそう答えた。

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