ペアボクシング
涼数寄錦
第1話
神に対して
それが
天井の高い無機質なホールを、熱気が揺らしていく。
円形のリングの上、対戦相手の
試合前はファンの
アイドルからトランポリン・ボクシングの選手に転身した巨摩のデビュー戦。
巨摩をここまで叩き潰した涼数寄は、この会場では完全にヒールだった。
巨摩影朗は、そのルックスの良さと清潔感のある佇まい、インタビューの受け答えもユーモアセンスに溢れ、トランポリン・ボクシング界に現れたニューヒーロー。
対する涼数寄は不特定多数から好かれる魅力はない。
ベルトに絡むようなトップクラスでもなく、試合も特に華があるわけでもない中堅どころの選手だ。
つり上がった細い目に、とがった鼻、そして性格の悪さがにじみ出ていると評価される左右非対称の歪な笑み。
しかし試合の内容に限っては、すべてが涼数寄のペースで進行していた。
試合開始直後の会場内は巨摩のファンの明るく和やかな雰囲気に包まれていたが、涼数寄の奇襲が決まり、残酷ショーとも言える凄惨な展開に空気が変わった。
血が飛び散り、肉体がきしむ音が響くたびに、観客は暴力の見世物を見に来ていたのだというわかりきっていた事実と直面する。
涼数寄を責める空気はどんどん膨らみ、男たちの怒声が響き、その内容も苛烈になっていった。
充満した可燃性ガスに火がついたかのように、目の前で繰り広げられる公開処刑に人々は心を揺さぶられ狂乱していた。
巨摩の勝利を信じる者は減り、代わりにどのくらい保つのだろうとネガティブな予想を立てる者が増えていく。
相手の巨摩は、もう押せば倒れるような状態だった。
涼数寄は巨摩の壮絶な覚悟を知っていた。
対戦前に相手を徹底的に調べることこそ、涼数寄のファイトスタイルだからだ。
巨摩は、心が折れないのが不思議なほど強大で理不尽な大人たちの権力と戦っていた。
人気アイドルという形の見えない重圧を背負いながら、幼い頃からの夢を諦めずにいた強い意志。
拳だけでは切り抜けることのできない戦いに挑み続け、彼は己自身を証明するためにこのリングに立っているのだ。
しかしどんな思いも結果という残酷さの前には散ってしまう。
思い通りにならないのが人生だ。
それが神が定めた運命だというのなら……。
人々の絶望をのせて涼数寄が放った拳は、巨摩の皮膚を滑りすり抜けた。
血と汗、濡れた不安定なトランポリン・リングで滑ったようにしか見えなかった。
巨摩は不自然な体勢のまま前傾していた。
運良く涼数寄の一撃をかわした巨摩は、バランスを取るために踏み込んだ。
その身体全体で押し込んだ拳は、幸運なことに涼数寄にカウンターとして決まった。
涼数寄は首が吹き飛びそうになるほど体勢を崩す。
トランポリン・リングの壁に弾かれた涼数寄はる再びリング中央へ飛ばされる。
そこに巨摩が待ち構えていた。
重力に身を委ねた涼数寄を、トランポリンに着地することを阻むがごとく巨摩は下から拳を突き上げる。
涼数寄はもはや宙を舞うサンドバッグと化していた。
エンターテインメントの世界で生き抜いてきただけあり、巨摩は観客の熱狂や追い風を自分の力にすることが上手い。
巨摩の受けたダメージは一撃決めるごとに回復してくようだった。
レフリーがダウンを宣告し、カウントを始めた。
涼数寄はなんとか立ち上がり巨摩を見る。
そこには先程のボロクズのような惨めな選手の影はなく、圧倒的な力で見下ろす強者がいた。
物語の主役は間違いなく彼だった。
涼数寄は眩い光に手を伸ばすよう拳を出す。
それを躱した巨摩の爽やかな笑顔が迫る。
涼数寄の視界は天井に向かった。
レフリーがK.O.を宣告する声が歓声にかき消される。
かくして涼数寄は敗れ、巨摩影朗はトランポリンボクシングのデビュー戦を勝利で飾った。
神に対して反旗を翻すのは、痛みなしには成し遂げることはできない。
涼数寄錦。
神に抗うために彼が用いる武器は、八百長だった。
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