焔明天丸

第10話

 焔明ほむらけ天丸てんまるは夢を見ない。


 暗いの世界から覚醒する。

 それは人が産声を上げ世界に放り出されるのに似ている。


 目が覚めても、そこは戦場ではない。

 生きることへの衝動はその時に怒りへと変わる。


 平和な争いのない世界、そこで流れる穏やかな秩序。

 焔明が存在する意味のない世界だ。


 常に戦う場所を求めている。

 アドレナリンが放出され、身体中の神経が張り詰める。

 感覚が鋭敏になり意識が集中していく。

 自分の身体が傷つく、相手を傷つける、その痛みこそが焔明の人生を作っていく……はずだった。


 闘志を持て余した焔明の身体は今、熱く湯気を上げていた。


「いいお風呂でした」

涼数寄すずすきさん遅いですよ」

「ビックリしたよ。赤湯っていうの? なんか血の池みたいだね」


 涼数寄と花火音はなびねが打ち解けた空気で会話している。


 焔明はそれを横目に、黙って立っていた。

 風呂からあがると、先に風呂に入った女たちは食卓についていた。


 鹿鳴院ろくめいいんと花火音が向かい合って座っており、テーブルの脇に伊織いおりがいる。

 彼女たちの隣の席は空いていたが、焔明は鹿鳴院の隣りも花火音の隣りも座る気にならなかった。

 躊躇する間もなく、涼数寄が花火音の隣りに座る。

 しかたがないので焔明は鹿鳴院の隣に腰を下ろした。

 席につくなりいただきますと皆が声を揃えて食事がはじまる。


「食卓が賑やかだと美味しく感じますよね」


 伊織が手を合わせて言った。


 その静かな物言いにどこか達人の佇まいを感じさせる。


「わぁ! 伊織トレーナーってイメージと違って料理……すごいんですね!」


 食卓を彩る見栄えの良くない焦げてぐちゃぐちゃな料理を見ながら花火音が言った。


「自分でわかってます。指摘してくれなくて結構ですよ」

「そんなことな……」


 そう途中まで言いかけた涼数寄は口に料理を運んだ瞬間絶句した。


 焔明も口に運ぶ。

 栄養が補給できるならば十分だ。

 そもそも味わっているような精神状態ではなかった。


 自分の心の中を渦巻く思いに上手いこと名前がつけられない。

 怒りなのだろう、焔明天丸という存在をぞんざいに扱うことに対する怒り。

 しかしそれだけではなく、暗闇に取り込まれるような言い知れぬ感情も混じっている。


 鹿鳴院子蜂が焔明天丸を捨てる。

 それは考えられなかった。


 史上最強の男以上にパートナーとして相応しい人物がいるわけがない。

 それなのに、鹿鳴院は愚かな選択をしようとしている。

 もし鹿鳴院に見捨てられたら焔明は一体どうすればいいのか。

 鹿鳴院の示す道だけが、暗闇でもがく焔明にとっての一条の光だったのだ。

 それを奪おうなどと許せるわけがない。


 先日、焔明は映画を見た。

 なにか戦い以外に興味を持てるものが欲しかったのだ。

 たまたま映画のチケットが送られてきたので見に行った。


 初めて見た映画は面白かったが、その中に出てきたロボットに心を惹かれた。


 人を笑わせるために造られたそのロボットは、より複雑な芸のできるロボットの台頭により居場所を奪われ、誰も見ていないところで虚しく芸を繰り返し、やがて壊れた。


「伊織先生の料理は決してまずくありませんわ」


 鹿鳴院は焔明を気にかけることもなく、料理に箸をつけて言った。


「確かに、思ったよりはまずくないね」

「あたしもこんな不味くない料理食べたの初めてですよ」


 涼数寄と花火音も、焔明のことなどいないものとしているようだ。


「大丈夫ですから。その鋭利な刃物のような優しさをしまっていただけますか」


 伊織はすでに焔明よりも二人の闖入者に夢中だ。


 焔明はテーブルに手を付けて立ち上がった。


「鹿鳴院!」


 立ち上がった焔明に視線が集中する。


 元々言葉などではなく肉体で生きる道を切り開いてきた焔明だ。

 周りの者達に注目されると口から出ようとしていた言葉が空気に交じって消えた。

 焔明はそのまま黙って座る。


 一世一代のチャンスが消え焔明の心の炎は弱まる。

 しかしそんな風に気が弱くなっていること自体が、焔明は許せない。


 常に戦い、掴み取る。

 闘志だけが焔明の存在証明だからだ。


 焔明はまたテーブルを大きく叩いて立ち上がった。

 立ち上がったはいいが、言葉が何一つ出てこない。


 仕切り直すためにもう一度座る。


 三度目の正直と立ち上がった時、花火音が無遠慮に口を挟んだ。


「やかましいですよ。言いたいことあるならチャッチャカ言ってくださいよ」


 この馬鹿な女は焔明のことを何もわかっていない。

 言葉ではなく、力で表明することこそ焔明なのだ。

 こうして立っている、それこそが焔明の何よりも強い意志なのだ。


 しかしそれでは通じない。

 こうなったらここにいる全員を倒して屈服させるしかない。

 焔明は奥歯を噛みしめ拳を固める。


 その時、鹿鳴院が口を開いた。


「何も言わなくて結構ですわ。そなたが悪いのではありません。わたくしが弱かったのです。そなたの強さに頼るだけでパートナーとしての役割を果たしておりませんでした」


 伊織はそんな鹿鳴院に対して寄り添うように手を伸ばして言った。


「それでもペアボクシングの真の力が出たのです。天丸の強さは一人でも戦える強さ、ペアボクシングの力、えにしは二人でなければ出ない強さです。なにより子蜂と錦さんとの戦い方、あれこそ原初のペアボクシングの美しさです。ペアボクシングは男女二人で舞い、神を降ろす行為から来ているとも言われてます。二人の身体が光って見えました。文献にもある縁の力です。ボクシングとして洗練された現代のペアボクシングにはない本物の輝きなのです」

「俺は不要だというのか」


 焔明は動悸が早まり、その言葉を言うことだけで精一杯だった。


 鹿鳴院は涼数寄に視線を移し言った。


 「そうは言っておりません」

 「この俺は史上最強の殺人サイボーグなんだぞ!」


 焔明がテーブルを叩くと皿に盛られた料理が飛び跳ね、そのうちの一皿が涼数寄の頭の上に落ちた。


 「OUCHアツッ! トロみが! トロみの熱さが!」


 涼数寄の大袈裟にのたうち回り、鹿鳴院が涼数寄に濡れタオルを渡した。

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