第六話 霧の奥の記憶

 小さな建築会社を経営する杉村は、今夜も客の接待で忙しかった。客と別れたあと、一人で飲みたくなった。飲み直す場所は、どこでもよかった。ここは都内の盛り場で、バーのネオンがあふれている。なんとなく目にとまった看板灯に誘われて、ビルの地階に降りていった。



 ドアを開けると、薄暗い店内の光景が目に入った。ボックス席の奥に一人だけ客がいて、その周りを三、四人のホステスが囲んでいる。あとは、がらんとした店であった。

 杉村は、カウンターのスツール席を選んだ。カウンターの中で杉村を迎えたのは、三十なかばぐらいのホステスである。

 杉村は、水割りを注文すると、改めて店内を見回した。ボックス席にいるホステスのうち、五十に近いと思われる肥満体の女性が、この店のママなのだろう。

(おや、この店、なんだか見覚えがあるぞ)

 不意に、そんな思いにとらわれた。どこといって変わってはいない。ごく平凡なバーのつくりである。じゃ、なぜそんな気持ちが生まれたのか。

(おれは絶対に、この店には前に来たことはないんだが)

 差し出された水割りを手にしながら、杉村は視線を前に向けた。このホステスも平凡な顔立ちで、唇が厚い。魅力があるとすれば、切れ長の目かな、などと杉村はホステスの顔を眺めながら、また妙な思いにとらわれた。

(この女性にも、前に会ってるんじゃないのかな)

「君の名はなんていうの」

「アケミよ。よろしくね」

「おれは、ここに来るのは、はじめてだよな」

「私がお会いするのは、今夜が最初」

 やっぱり、おれの思い過ごしかな。杉村は、タバコを取り出した。アケミがガラスの灰皿を出して、杉村の前に置いた。

 灰皿には、ポトロメスと文字が入っていた。読み終わったとたん、また杉村は考えた。

(この名にも覚えがあるような気がする)

 店の名ではないと思う。入り口の看板灯には、花の名前が書いてあった。

 杉村は、アケミの顔を見つめて訊いた。

「君には、前に会ってるような気がするな」

「まあ、口説き文句のお上手なこと」

「いや、本当なんだ」

「昔の彼女が、私に似ていたんじゃないの」

 そう言われたとたん、杉村の疑問が解けた。

「そのとおりだ。君に目つきがそっくりの彼女がいたよ」

「その話、ゆっくりと聞きたいわ。私も、何か飲み物をいただいていいかしら」

「ああ、いいとも。おれが大阪にいた二十代の頃だったから、もう三十年近くになるな」

「その彼女、きれいな人だったんでしょう」

「ああ。スタイルがよかった。ところが当時のおれは、さんざん悪いことをした」

 調子に乗って、杉村は古い思い出を語りはじめた。しゃべりながらも、アケミにすすめられるまま、グラスを何度もあけた。

「そういうわけで、最後には女からさんざん金を巻き上げた末、さっと大阪から姿を消したんだよ」

「その女の人、どうなったの」

「あとで聞くと、おれに捨てられて、ヤケになったらしい。非行少女になって、ヤクザと一緒になったとか。やっと思い出したよ、彼女の名はミサオだったな」



 しゃべりに夢中になっていた杉村が、ふと気がつくと、いつのまにか杉村の前には、おつまみやら果物の皿やらが、ずらりと並べられていた。

(おや、注文もしていないのに)

 そう思ったとたん、霧の奥に隠れていた記憶がよみがえった。以前、週刊誌でバーの内部を写した写真を見た。それは、暴力バーが起こした事件の記事だった。

(あのときに見た写真と、この店のようすが同じだ。そうか、ここはヤクザの経営する暴力バーだったんだ。そう、当時の店の名が確かポトロメス!)

 アケミが妙な笑いを、杉村に送った。それから顔を店の隅に向けて、大きな声を出した。

「ママ。いつもママが話していたひどい男が、ようやく見つかったみたい」

 杉村は、ぎょっとなって、ママのいるほうを見た。体型は当時とまるで違う。しかし席から立ちあがって、こちらを見ているママの顔に、昔日の面影があった。

「ミサオ姉さん。こっちに来てよ。このお客さんには、かなりの額が請求できそうよ」

 それからアケミは、杉村に視線をもどして言った。

「ママは私の姉よ。目が似てるって、よく言われるの」

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