第58話 羽化


 巨大な肉の塊が、ギシギシと音を立てて縮みはじめていた。


 小さくなる。


 それは、弱っているのだと判断したくなる現象だ。


 だというのに、みるみる縮小していくそれは、内部では逆に力強さを増して脈動する。


 そして梓川涼音あずさがわ すずねという少女の体を中心にして、極限まで圧縮されていった。


 結果、磔のような形で巨大な球体状の肉塊に埋没していた涼音は、体の自由を取り戻し自分の足でステージに降り立つ。


 肉塊は消え去ってしまったわけではなく、涼音の体を、ある種の外殻のように覆っていた。


 元の肉塊の柔らかさはなく、ゴツゴツとした岩のような質感へと変じている。


 磔状態のときは腹や太もも、腕など素肌が露出していたが、密度が高まった関係か女性らしいすらりとしたシルエットは保ちつつも外殻は全身を覆い尽くし、顔も、口元以外をすべて覆う形へと変化していた。


「これだ! これこそ俺が求めていた世界を終わらせる切り札だ!」


 後方で冴香さえかとにらみ合っていた鵺堂界李ぬえどう かいりは、これまでのような屈折した言動が嘘のように、無邪気にはしゃいでいる。


「世界を終わらせる?」


 昴達は反射的に界李の方を見た。


 視線を外した瞬間、すぐ傍で肉を打つような鈍い音が炸裂する。


 視線を戻せば、昴が一緒にステージから退避していたはずの清十郎せいじゅうろうが床の上に倒れていた。


 足の痛みに耐えかねて自分から寝転がったわけではない。


 何故なら、顔面が腫れ上がり、すぐ傍に不可解な変異を遂げた涼音がいつの間にか立っていたからだ。


 おそらく、一瞬で距離を詰めた涼音に殴り倒されたのだろう。


 さらに涼音は、倒れている清十郎を無造作に蹴りつける。


「ぐはっ!?」


 よほどの衝撃だったのか、清十郎は床の上を転がりながら遠くに吹き飛ばされて動かなくなる。


「涼音!?」


 まさか動くとは思っていなかった。


 胸部は分厚い装甲で覆われているため、その下の穴がどうなったのかはわからないが、直前まで瀕死の状態だったとは思えないような鋭い動きだ。


 掴みかかって動きを止めるべきかとも思ったのだが、涼音は昴を無視して床に体を投げ出して動かなくなっている清十郎に向かって歩き出す。


 意識を失っているのか、それとも清十郎お得意の攪乱戦法で失神したふりをしているのかはわからないが、涼音はあくまで彼を狙っているようだ。


 あるいは〈精霊器〉リゾルバーで貫かれた恨みに突き動かされているのだろうか。


「涼音! やめろ! いや、あんなことをされたら恨むのはわかるけれど――」


 清十郎を狙う動きは止まらない。


 しかし昴の言葉に反応しない。


 それどころかあるいは夢遊病のように、動いていても意識はないのではないだろうかと疑問をいだく。


 動きも、体育館のステージからここまで移動してきた鋭さが嘘のようで、半分夢の中にいるような緩慢な動きになっていた。


 仕方なく、昴は〈聖なる泉ミーミル〉の紙片を操って、涼音の進路を覆うように障壁を配置する。


 思った通り、涼音は漫然と前に進もうとするだけだった。


 前を塞がれていても、回り込もうとする程度の単純な工夫をするようすすらない。


 もちろん昴の障壁を破るような行動もせず、一歩一歩、前に踏み出そうとするがその足は空回りするだけだった。


「涼音はどうなってるんだ!?」


 できれば避けたかったが、この場でもっとも事情を理解しているだろう人間に声をかける。


「簡単なことだ。彼女こそ、完全なレヴェナント――ステージⅥに至った真のレヴェナントなのだ」


「そんな馬鹿な! ステージⅥ? そんなものは聞いたことがない!」


 界李の言葉に即座に反応したのは冴香だった。


「レヴェナントの区分はステージⅤまでのはずだ! そもそも、レヴェナントはあんな変化などしない」


「ふん、ついさっきまでなり損ないの存在も知らなかった人間が専門家ぶるなよ」


 痛いところを突かれたのか、冴香は押し黙るが、せめてもの抵抗だと思ったのか射貫くような視線を界李に突きつける。


 とうの界李は睨まれてもどこ吹く風なのか、むしろ得意げに笑みを浮かべていた。


「ステージⅤまでしかないというのは古い定説だ。最新の研究ではその次の段階があるとわかってきた。――だが、実物が確認されたことはなく、これまで理論上だけの存在だったがな」


 そこまで話したところで界李は不意に昴に視線を向けた。


「さっきも言っただろう? レヴェナントを誕生させたとしても、世界を滅ぼすためにはまだ長い時間が必要になる。そんな悠長な真似をしている場合じゃない。だがステージⅥに至ったレヴェナントはそれまでとはまた別物だ。お前も、マナの気配が感じ取れるなら、彼女の中に凝縮され、その圧に反発するようにより強力に膨れあがっているのがわかるだろう?」


 その言葉は、昴が感じ取っていた通りの状況を言い表していた。


「内圧はこうしている間にもみるみる高まっているぞ? その状態でひと晩もいれば、彼女は内圧に負けて弾け飛ぶ。その勢いはこの街程度では留まらないぞ。世界中に一斉に広がって、そして一瞬ですべての生命をなり損ないへと変化させるのさ!」


「な!?」


 全員が絶句する。


「じわじわとレヴェナント化を行き渡らせるためには、俺達には力も時間も足りない。だがこの方法なら、〈精霊器〉を持っているわずかな人間以外、一瞬で滅びる! そしてミドガルズオルムのクズ共は、自分達以外すべてが化け物になった世界で無力さを噛みしめながら死に絶えていくんだ!」


 復讐に突き動かされ、目を血走らせて嬌笑する。


〈精霊器〉を持った人間は、レヴェナントに対して耐性を持つ。一人二人なら〈精霊器〉の力で元に戻すことはできるだろうが、全世界の人間がなり損ないやレヴェナントに変化してしまえば焼け石に水もいいところだ。


 しかも、一度元に戻せたとしても、赤いマナが充満する状況が変わらなければ再びなり損ないへと変態してしまうかもしれない。


 界李の言葉が真実で、涼音が一瞬で世界に赤いマナを行き渡らせる爆弾と化していて、それが炸裂したならば、それは彼の言葉通り世界が破滅する瞬間となるだろう。


 これが、界李達の最終的な計画だったのだ。


「あとは余計な邪魔が入らないように私達の手で確保します!」


 ステージの上で状況を見守っていたアイリが飛び降り涼音に駆け寄る。


 また、あの翼の〈精霊器〉でこの場から離脱するつもりなのだろう。


「朽木昴、私からも感謝を述べますよ。ステージⅥは単なる時間経過では至れない領域。レヴェナントの宿主が自分の殻を壊すほどの絶望を味わわなければ実現しなかったでしょう、その絶望を、あなたが与えてくれた」


 アイリの言葉には感謝よりも嘲笑の方が含まれている。だが昴にはそれを聞きとがめる余裕がなかった。


「僕が、涼音の絶望……」


 昴が自分を殺そうとしているという思い込みが、涼音の拠り所を奪ったのだろう。


 今は〈ワールドエンド〉を経て、涼音にとってもこの世界は自分の居場所ではないという思いに苛まれていたに違いない。


 そんな中で、昴だけが唯一の知り合いで、味方で、そしてあんな状況で聞かされたのでなければどれほどよかっただろうと思わずにはいられないが、涼音は昴に恋心を抱いていたのだという。


 その昴が自分を殺しにやってくる。


 絶望しないはずがない。


 完全なでたらめだというのに、あんな卑怯な方法で思い込ませ、二人の感情を引き裂いたのだ。


 昴達のおかげでステージⅥが完成した。


 あとはその完成品を、今度は隠れ場所を告げるなどという真似はせず、このままいずこかへと連れ去って界李の言葉が本当ならたった一日守り抜くつもりなのだ。


「お前らは――!」


 視界がチカチカするほどの怒りがこみ上げる昴の目の前で、涼音の体に触れたアイリがそのまま吹き飛ばされた。


「え……?」


 にわかには何が起こったのか理解できなかった。


 振り向いた涼音が岩のような外殻に覆われた拳で力一杯殴りつけたのである。


 最前も、清十郎を攻撃した。


 しかしそれは、清十郎が涼音を殺害しようとしていたためその自衛行動だと思っていた。


 それ以外は、たとえば昴の〈聖なる泉〉に行く手を阻まれても、その場で足踏みを続けるような至極単純な動きしかできない様子だったのだ。


 それが、触れられただけでアイリを殴りつけた。


『邪魔を、しない、で……』


 確かに口が開き、涼音が話している。


 それでも声はどこかここではない場所から響いているような奇妙な聞こえ方をしていた。


 予想もしていなかったのか、アイリは死角からの一撃をまともに浴び、近くの壁に激突して完全に意識を失っているようだった。


〈聖なる泉〉から伝わってくる、涼音の体内の力がいまだに高まり続けていた。


 徐々に、彼女は本当の意味で覚醒しはじめているのかもしれない。


『全部、壊すの。邪魔をする人は全部、全部、壊すの。そうしたら、昴が戻ってきてくれる』


 熱にうなされるような声で、涼音はそう言い、傍にいる昴や直前まで狙っていた清十郎を無視して離れた場所にいる水姫みずきに向き直った。


『あなたが、一番、邪魔、なの……』


 その言葉と共に、濃密な殺意が溢れ出す。


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