異界子達のアンフェアクロニクル

氷上慧一

プロローグ

第1話 プロローグ


  プロローグ




 この世界は、失望と諦めとで出来上がっているのだろう――朽木昴くちき すばるは、そう感じていた。




 放課後。


 スーパーで買い物を済ませて真っ直ぐに帰宅すると、昴は玄関で「ただいま」と一声をかけてキッチンに向かう。


 帰宅の挨拶に返事はない。


 家の中にも、人の気配はない。


 ここは住宅街で、比較的騒音は少ないため、返事がない静けさが余計に重く感じられた。


 それでも「ただいま」という言葉を口にするのは、クセのようなものだ。


 食料品を冷蔵庫や食料品棚に入れると、二階に上がって私服に着替える。


 夕食を食べるにはさすがに早い。


 ここで優等生なら宿題にでも手をつけるところだろうが、他にするべきことが山積みでそんな余裕はなかった。


 一階にとって返して、溜まっている洗濯物を洗濯機に突っ込んでスイッチを入れる。


 洗濯が終わるまでに、軽く掃除機でもかけるといいのだろうが、そんな気力は湧かない。


 他に誰もいない家では自分が気にならなければ問題はないのでどうしても手抜きになってしまうのだ。


 ともあれ、そんな単調なルーチンが、この二年間の朽木昴の生活だった。


 親が転勤して一人だけ残っている――高校生にもなればそんな理由で一人暮らしをしている人間も珍しくはないだろう。


 しかし、交通事故で自分以外の家族全員が他界してたった一人だけが取り残され天涯孤独の身の上になった高校二年生は、そうはいないはずだ。


 たった一人の生活というのはドラマなどを見て想像していたよりも、ずっと苦痛だった。


 勉強しろと言われることはなかったが、ささいな言葉を交わす相手がいない。


  一人暮らしをすると、テレビを見ながら独り言が増えると聞いたことがあった。あれは本当のことだ。


「……晩ご飯にするか」


 まだ一八時を少し過ぎたぐらいだが、暇を持て余していると余計なことを考えそうになる。


 冷蔵庫から出来合いの弁当を取り出し電子レンジで温めると、味気ない夕食に取り掛かった。


 移し替えれば少しは見栄えもよくなるのだろうが、皿を使えば洗う必要が出る。


 誰かと一緒に食べるわけでもないのに、見栄えをよくするためだけに余計な仕事が増えるのは馬鹿馬鹿しい。


 結局、使い捨て容器のまま食べることがほとんどだった。


               ◆◆◆


 食事を終えると自室に戻る。


 父親が少し無理をして建てたという一軒家には昴しかいないのだが、それでもやはり自室の方が落ち着くのだ。


 宿題もあるにはある。


 ただ、積極的にやる気にもなれないので、読みかけの雑誌を手に取ってベッドに寝転がったところで、枕元に放り出していたスマホの着信音が鳴りはじめた。


「っと……」


 雑誌を脇に置くと、昴はスマホを拾い上げて応答する。


「もう家に帰ったのか?」


 登録してあった名前が表示されていたので、誰からかかってきたのかは分かっている。


『生徒会の会合、今日は思ったよりすんなり終わってくれたの。いつも会長が難題を持ってきて長引くのに、びっくりしちゃった』


 ハキハキとした少女の声がスマホから聞こえてくる。


「というか、このぐらいに帰れるのが普通だろ?」


 チラッと壁掛け時計を見ると一九時前。


『昴、もうご飯食べた?』


「ん、さっき食べた」


『ちゃんと野菜も食べてた?』


「食べた食べた。というか、毎日聞くな」


『だって、聞かないと食べないでしょ?』


「食べるよ。聞かれなくても、そのぐらい」


『へぇ~、どうかな~』


 別にテレビ電話というわけでもないのに、相手がジト目をしているのが手に取るようにわかった。


 付き合いが長いだけに、色々と筒抜けになるのは面倒くさい。


『なんだったら、私が毎日ご飯を作りに行ってあげてもいいのよ? 歩いて五分の距離に住んでいる、幼馴染みの有り難みがわかるでしょ』


「いらない。いつもはもっと遅くなるんだろ? そもそも、涼音の方こそ晩飯の時間じゃないのか?」


『ううん、ウチはあと一時間ぐらいかな。だから、一時間ぐらいは昴とお話ししてあげられるよ?』


「別に頼んでない」


 そう。


 頼んでないのに、幼馴染みの梓川涼音あずさがわ すずねは、ほぼ毎日電話を掛けてくる。


 ご飯は食べたのか、とか、寒い日は暖かくしているのか、とか、夏はクーラーのかけ過ぎちゃいけない、とか。


 昴が家族を失った日から、ずっとこの些細なやり取りは続いていた。


『じゃあ、そうだなぁ。……あっ、今日は学校でどんなことがあったの?』


「知ってるだろ? 同じクラスなんだから」


『知ってるけど、昴は学校で話しかけるなって言うから、昴の目から見たところを聞かせてもらわないとダメなのよね』


「ダメなのよねって、お前は僕の保護者か……」


『そうよ。だって、私の方が二日早く生まれたんだからね』


「出た、涼音の二日早い理論」


 こうしてことあるごとに姉ぶるのは勘弁してもらいたいが、涼音が気を遣ってくれていることはわかっていた。


 二年前、家族全員を一度に失ってから「可哀想に」と同情されることは多かった。


 ただ、傲慢に思われるかもしれないが、それらの大部分が、ありがた迷惑だったのである。


 どんな言葉や助けを必要としているのかは考えず、単に「可哀想ね」とだけ言って、言葉は悪いが「優しい言葉をかけた自分」に満足をして去っていく。


 おまけに昴が「ありがとう、おかげで元気が出ました」という反応を見せないと、「礼儀知らずな奴だ。せっかく心配してやっているのに」と機嫌を悪くしてしまうのだ。


 これにはほとほと困り果てて、せめて静かにさせて欲しいのに、逆に昴の方が気を遣わなければならないことが多かった。


 そんな中で涼音だけは、余計なことは言わずに、二年前までとほとんど変わらない態度で接し続けてくれていた。


 この毎晩の会話も、内容はいつもどうでもいいことばかりだ。


 だがそのどうでもよさが、逆に何よりも居心地がよかった。


『ねぇねぇ、どうして学校では話しかけちゃダメなの? 一緒にお昼とかしようよ』


「だから、前も言ったように、お前は学校じゃ目立つの。僕みたいな一般人が仲良くしていたら、悪目立ちするの」


 純粋に、幼馴染みの女の子という存在が気恥ずかしかった。


 それに涼音は、成績もよく、外見も人目を引く少女だった。


 それでいてそうした部分を鼻にかけないので、男女を問わず友達が多い人気者である。


 面倒見もよく、さっきから話に出ている生徒会も頼み込まれて仕方なく加わったわりに、一切手抜きもしないという優等生ぶりだった。


 寝転んだまま喋るのは怠いのでベッドから起き上がって椅子に座る。途中、窓ガラスに自分の顔が映った。


 黒髪の、やや線が細いが、ごく平凡な顔立ちの少年がそこにいる。


 運動は普通。勉強も以前はある程度できていたが、この二年で成績も落ちて中の下。


 日常の生活周りの用事をこなすだけで手一杯のため、高校に入ってからは友人と言える相手もほとんどいない。


 自分でもつまらないプライドの問題だとは思っていたが、釣り合いが取れていないようにも思えて、学校で親しくするのは腰が引けていたのだ。


 我ながら子どもっぽいと反省はするのだが、なかなか素直にはなれそうにない。


『別に目立たないと思うんだけどなぁ……』


 そう言いながらも、涼音はいつも通りあっさりと引き下がる。


 そのあとも何でもない会話を楽しんで、お互いが満足すると通話を終える――いつもならそのはずだったが、


『――あれ? ねぇ、ちょっと昴、外! 外を見て! 空が、おかしくない!?』


 突然、スマホから聞こえる涼音の声が緊張感を帯びる。


「耳元でいきなり大声を出すなよ」


 顔をしかめながらも、言われた通りに窓から空を見上げて言葉を失った。


「は………?」


 視線の先――空の上に、地面があった。


 最初に見えたのは一戸建ての家やマンションや、コンビニらしい建物。


 アスファルトの道路も見える。


 蜃気楼のように、遠くの街が地面から浮き上がっているのではない。


 空の上の街は逆さまに――つまりは空の上に鏡があって地面を映しているように、逆さまになって、自分達の街に覆い被さっている姿が見えたのだ。


『お母さん! お母さんっ!?』


 スマホの向こうで涼音が取り乱した声が響く。


「涼音! どうした涼音っ!」


『お、お母さんが、お母さんが――!』


 あれほど気丈な涼音なのに、言葉になっていない。


「今からそっちに行くから!」


 何が起こっているのかはわからないが、こちらに返事をする余裕もないようだった。


 何の返事もないまま通話がブツリと音を立てて断ち切られる。


「くそっ!」


 昴は部屋から出ると、玄関の鍵をかける手間も惜しんでそのまま飛び出した。


 走りながら空を見上げる。


 部屋から見た光景はやはり幻ではなく、今も逆さになった街が頭上に浮かんでいた。


 一部分ではなくここから見える範囲がすべて逆さの街で覆われている。


 錯覚かもしれないが、その距離は徐々に近づいているような――落下してきているような気がした。


 空から視線を戻す。


 その瞬間、また別の違和感が視界に飛び込んできて、昴は思わず立ち止まった。


「な、なんだ!?」


 見えたのは、他の家の、リビングの明かりだ。


 それだけなら不自然でもなんでもない。その明かりが、分厚い壁の向こう側にあるものでなければ。


 そこは、近所でも防犯意識が高いことで有名な家で、分厚くて背の高い壁に囲まれ中の様子はほとんど見えなかったはずなのだ。


 それが、家の形がはっきりと見えて、なおかつリビングの様子が筒抜けになっている――壁が透けて見えている。


「透明っていうより、虹色……?」


 完全に透けて見えるのではなく、クリスタルで屈折した光のように、少しだけ虹色がかかって見えていた。


 それだけではなく、よく見てみれば、周囲の街灯や他の家の壁、そうしたモノがいくつも同じように虹色のガラスやクリスタルのように変化しつつある。


 それらは虹色の塵になって、徐々に崩れはじめており、地面にも虹色の塵で積もって小さな山が出来ていた。


 昴が困惑して立ち尽くしていると、目の前の曲がり角から一人のサラリーマンが姿を見せる。


 しかしその人の顔もまた、虹色の物質に変容していた。


 まるで動くマネキンだ。


 自分では、自身も含めた周囲の異変に気づいていないらしい。手にしたスマホに視線を落としながらしばらく歩いて、そこで服もスマホもまとめて虹色の何かになって音もなく崩れ落ちた。


「この虹色の塊……、まさか、これ全部人間なのか!?」


 さきほどの、スマホから聞こえた涼音の切羽詰まった声も、これと同じモノを見たからではないかと思い当たった昴は再び走り出す。


 異常は、加速度的に広まっていた。


 周囲の様々なモノが徐々に虹色に変わり、ガラスが軋むような嫌な音を立てて塵になっていく。


 頭上の街も、気のせいではなく、その距離を確実に縮めている。


 まるでSF映画に出てくる、星と星とが衝突するシーンのようだ。


 いつの間にか風が出てきて吹き荒れた。


 その風で、さらに周囲の崩壊が進んでいく。


「どうなってるんだ!? 何が、どうなってるんだよっ!」


 家々、電信柱、電線、街路樹、道路のアスファルト、ガードレール、周囲に見えるありとあらゆる物が虹色に光る塵になって崩れていく。


 その中で、昴だけが生身のままだった。


 一瞬後には自分も同じ運命を辿るのか、それとも昴だけが無事なのか。


 何もわからないまま、とうとう昴が立っている地面までもが崩れ、流砂に飲まれるようにして昴の体が地面の中にじわじわと飲み込まれていく。


 荒唐無稽としか思えない状況の中で、自分の体を包み込むひんやりした感触だけが妙にリアルだった。


(このまま、死んじゃうのか……?)


 胸元まで地面に沈み込み、身動きが取れなくなり、もう終わりかと観念したところで、昴は幻としか思えないものを見ることになった。


 上空に存在する街の、おそらくはマンションだろう建物の屋上から一条の光が昴に向かって放たれた。


 それは、一人の少女の形を取って昴を救うかのように右手を伸ばしながら近づいてきたのである。




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