~ 第二幕 ~ ●父・隆行●

 ●父・隆行●


 三年前。

 風邪ひとつ引くことなく、精力的に宮司の職務に励んでいた父・隆行が、あるとき突然、ぱたりと倒れこんで、自力で立ち上がれない状態になった、らしい。

 らしいというのは、縁はその場に立ち会っておらず、森村からのまた聞きでしかないからだ。日頃の高血圧が招いた脳溢血だった。

 そのときの縁は、父ならすぐに良くなって復帰するだろう、と何も知らずに楽観視していた。だが、父の症状は縁の無知なお気楽さを断罪するとばかりに重いものだった。

 一時的には三途の川に足を踏み入れかけた状態であったらしく、一命は取り留めたものの、緊急手術を乗り越えての生還だった。体のあちこちに麻痺や意識の混濁などの後遺症が残り、介護なしには生活できないようになった。

 手術のあと、父は緊急病棟からリハビリ病棟に移った。面会の許可が出た縁は、ベットに伏せた父の姿を見た。

 かつての生命力に満ちた父の面影はなかった。そのときはそれほど麻痺や痙攣もひどくなく、わりとはっきりと話をすることもできた。

「大きな川を渡ろうとしてたよ。三途の川ってのは本当にあるのか、と妙にはっきり思ったのを覚えてるなあ。川の向こう側が妙にきれいな場所で、俺もすぐにそちらに渡りたかった。対岸から俺を呼ぶ声も聞こえた気がする。でも、そっちに駆けていこうとして、川の水にあと一歩で足が入る、ってタイミングでな、ぐいと俺の手を引くやつがいたんだ。振り返ったけど、誰だったのかはわからなかった」

 隆行は、時々苦しそうにしながらも、なんだか楽しそうに自分の臨死体験を縁に語ってきた。

「母さん、かな」

 縁は、それは自分だという言葉を頭に浮かべながら、それを口にしなかった。照れなのかよくわからないが、言わなかった。

「どうかな」

 と、隆行は縁の意見に首をひねった。

「母さんは、どちらかって言ったら、川の向こうにいるわけだしな」

「そう、だね」

 縁の母・隆行の妻である愛華は、縁が物心ついたばかりくらいのころにすでに他界している。元気が手足をつけて歩いているような父と比べて病弱だった母は、ノーマルな人間ならなんてことない感染症が元で、この世の人ではなくなった。

「俺は仏教じゃないのにな。でもあれは黄泉の国の風景じゃないだろ」

 などと、父は本気で考え込んでいた。縁が母のことに気が行っているうちに、父のほうは自分の見たものの正体知りたさで頭がいっぱいのようだ。

 そういう人なのである。

 自分の関心ごとがすべての人だ。

 きっと、すぐにリハビリを終えて、また元の仕事人間に戻るはずだ。

 考えが甘い。思い出すたび、あのときの自分の甘さを叱ってやりたくなる。

 結局リハビリは長引いた。事態を軽く見ていたのは縁だけでなく、当の本人の隆行も同じだったようで、リハビリ初めのうちは軽口交じりだったのが、次第に口数が減り、笑顔が消え、リハビリに消極的になっていった。

 面会に行っても縁のほうが近況を二、三、話すだけですぐに話題が途切れ、あとはぼんやりとしたまま病室の天井や窓の向こうを見ていることが多くなった。

 医師や看護師とのやりとりでも同じように反応は薄い。病院内のほかの患者と親しくなっている様子もない。理由は縁にもなんとなくわかる。父もまた、世間とのお付き合いというものが苦手だった。宮司として他の職員や氏子とのやり取りをする分にはコミュニケーションを取れても、いざ宇津見隆行という一人の人間として人に接すると何を話していいのかわからない、そういう人だった。典型的な仕事人間と言えた。リハビリの長期化に加えて対人的な刺激も得られなくては、憔悴し無気力となるとも仕方がなかった。

 そして、そんな父を励ます方法も、慰める言葉も縁には見つからなかった。

 縁もまた、どうしようもなく不器用な人間であると自覚していた。他人だけでなく、親子の間でも同じだった。

 父、隆行にとっては、この三年間は大いなる挫折と諦めであっただろう、と縁は想像する。

 そして縁にとっては、数ある諦めのうちの一つでしかなかったかもしれない。


  ●


 そして現在。

 あれからほぼ三年ぶりに対面する父の顔はずいぶんとやつれて別人の顔になっていた。

「森村さんの指示には従ってるか」

「うん」

「そうか」

 たったそれだけのやりとりで後が続かなくなる。3年ぶりに顔を見せたことに喜びを表すこともないが、だからと言って3年間も父のことを放って森村に任せっぱなしにしていたことを責めることもない。

 沈黙が続く。

 だが、かつては感じた沈黙の面苦しさが、今はあまり感じないのを縁は実感していた。しばらくこの静寂に浸っているのもいいと思えた。

 隆行は病室の窓の向こうを眺めている。縁も同じようにした。

 雲がゆっくりと流れていく。ここも時間があまりにもゆっくりで、小古呂神社での一日を思わせる。

 不思議なものだ、と縁は思った。

 あのゆっくりとした時間の中で焦れば焦るほど、そこから一歩も動き出せないような閉塞感に苛まれた。なのに、腹を据えてじっくり臨めばいい、と決めたとたんに枷が外れた感覚を得たのだった。

「縁」

 ぽつりと隆行が声を発した。

真人しんじんをやるって決めたんだってな」

「うん」

 縁が返事をすると、隆行はこちらに向き直る。

「あれは俺がお膳立てはしておいたことだが、俺のものじゃない。自分で考えて、思うようにやってみろ」

 隆行の唇は震え、言葉に明瞭さはない。縁は隆行がゆっくりと話す一言一句にきちんと耳を傾けた。そして、

「わかった」

 と返事をした。

 隆行はうなずいた。そして大きく溜息をつくと、気だるそうに眼を閉じる。

「今日は調子が悪いみたいだ。休ませてくれ」

「そっか」

 縁は面会をここまでにすることにした。座っていた背もたれのないパイプ椅子から立ち上がる。

「また来るよ」

 それだけ言って、病室を出ようと背を向けた。

「ああ。だが無理はするな。気が向いたときでいい。お互い、適切な距離っていうもんはある」

「……父さん」

「離れていても、どれだけ時間が経っても、俺とお前が親子だって事実は変わらないんだ。それでいい」

「……そうだね」

「じゃあな」

「うん。また」

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