~ 第二幕 ~ ●俳優○
●
本当に目まぐるしい一日だった、と縁は
一日で四人の女性と一度に話をするなんて――まあ女性と言っても、一人は高齢のお多恵さんで、もう一人は性別不明のたまきなのだが――縁の素の生活からはあり得ないことで、小古呂神社にとっても賑やかで華のある一日となったものだ。
そして四人とも真剣だった。真剣な思いというものを向けられることも、縁には貴重な経験になっているように思う。それはあの日に始まったことじゃなく、本当はお多恵さんとの日頃からの会話にずっと込められていたものだったのだけれど、
一人ひとり違う個性。とりわけ強烈な印象を残したのが最後の円香だった。聞けば自分と同じ年だというのに、あの大胆な行動力。そしてキレのある発言力。あれらはどこから来るものなのだろう。
自分とはまるで真逆の人だった。だのに円香はふと、自分たちと似た者同士かも、と言ったのを縁は覚えている。どういうことだろう。あの何事にもメリハリがついた円香のような人にも、自分のようにフワフワとはっきりしないところがあるというのだろうか。だとしたら、つくづく人というものはわからないものだ、と縁は思う。神社、そして神様という身近にあるはずなのにわけのわからないもの。そんなものを崇め・参る人たち。そんな人たちのために神社を守り続ける父親、そんな父のことが理解できない自分自身。この疑問には果てがない。だから、つい、いつまでも考えてしまう。
円香だったら、時間の無駄とバッサリ切り捨てそうだ、と思って縁は苦笑する。その違いはなにか。
きっと、やるべきことがあるのだ、と推理した。彼女にとって、このプロジェクトの調査はなぜ、そんなことをしなければいけないのか、などと問う必要もなく、やるべきことであるのに違いない。
であれば、自分の今の役目は、まずは小古呂神社の
今日は
初日の
正直なところ、縁はすでに
でも、そういうことなのだろうか。
そういうことで決めるものじゃないだろうと一方では考えている。
予断は禁物。気持ちを改めて臨まなければと、縁は思い直す。
●
「ど、どうですか……?」
縁が渡された漫画のコピーを読み終えて顔を上げると、ゆらの顔は高熱でも出ていそうなくらいに真っ赤になっていた。
「うん。ゆらちゃんの気持ちが伝わってくる漫画になってると思う」
「そ、そうですか……」
そこまで人の顔は赤くなれるのか、と思うくらいであったゆらの顔が、さらに赤みを増して、うつむいてしまう。
他の候補者たちも読み終えたコピーをもう一回読み直したりしている。ゆらはこれまで自分の漫画を同じように漫画を描く趣味の友人と見せ合うほかには誰にも見せたことがないという。まして年上の学生でない他人に見せようなどと、今回のような場がなければ思いもしなかった、とゆらからは事前に話を聞いていた。ゆらの緊張は想像を絶するものだろう。心臓が破裂してしまいそう、と思えるほどに違いない。
「神社を舞台にした漫画って、ないわけじゃないんだろうけど、僕は読んだことなくて、単純に新鮮だった。自分にとっては日常的な場所が、見る人が変わるとこんなに違って見えるんだな、っていうのが面白い」
一般的な人の感想とは違っちゃうけど、と縁は付け加えた。
「違います、よね……やっぱり、作り話っぽいですか?」
ゆらは縁の言葉をリアリティがない、という風に受け取ったのか、そう縁に言う。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて。まあそりゃ、現実とは違うところはあるけどね。漫画ってそういうものなんだから、面白いならそれでいいんじゃないかな」
「でも、私、漫画で、小古呂神社のいいところを伝えたいし、やっぱり、思い込みで描いて、読んだひとに誤解を与えちゃいけないから」
「そうか、うん、そうだね。すごいや、僕はそこまで考えなかった」
「読者のことを考えて描かなきゃ、って、いつも自分に言い聞かせるようにしてます。でないと、こういうものって、すぐに独りよがりになっちゃうから。漫画じゃなくても、なんでもそうだと思います」
ゆらは、自分の実力に自信が持てないでいながらも、作家としてのプライドを身に着けているのだ。縁はゆらの声の細さと裏腹な、太い意志を感じていた。
実際のところ、プロ作家の作品としては見られない、商品として扱える作品とはならないものだ、と縁でも素人なりにわかる出来ではある。けれど逆に商品的な漫画にはない味がゆらの漫画には出ているように縁は思えた。
「ゆらちゃん」
円香がゆらに声をかけた。
「は、はい。なんでしょう?」ゆらがびくりと肩を上げて、そのあと、畳床に正座したまま、器用にくるりと体を回して円香に正面から向き合うように姿勢を変える。今日は服装自由としたのでゆらは制服を着ているのだが、セーラー服のリボンと襟、そして後ろに縛った長い髪が、回転の慣性で浮き上がって回る。一連の動きがなんだか妙に躍動的で面白く縁には見える。そういえば、今日は前髪もピンで止めて、表情が見えやすくなっていることに縁は気が付いた。彼女も、昨日一日の経験でいろいろと心境に違いが生まれたのに違いない、と縁はゆらの姿から勝手に察する。円香はゆらに容赦のない指摘をいくつもしていた。しかしゆらはそれにへこたれることなく真剣に耳を傾け、ときに自分の意見や質問を挟んだりしている。どう見ても漫画家と編集者のやりとりだ。ひょっとしたら円香はゆらをデビューさせてしまうのでは、とさえ思える光景だった。
「円香さん」
「……だから、このページはこの娘が振り向いたところまでにしておいて、次で見開きでバーンと」
「まーどかさん」
「え? あ、ごめん。夢中になってた」
「いやいや、すごいですよ円香さん。なんだか編集者みたいですよ」
円香はカジュアルスーツを着こなしていて、ますます編集者らしく見えていた。
「編集者だもん」
「あ、ああ。やっぱりそうなんだ」
「漫画じゃないけどね。レディース雑誌の。まあ漫画も載ってたけど、専門じゃないから、今の意見は、まあわたしなりの、ってことでね、ゆらちゃん」
「はい! ありがとうございました!」
ゆらが深々とお辞儀をするのを、円香は苦笑して片手をひらひらと振って顔を上げさせる。なんだか姉妹のようでいいコンビだ。
たまきはデッサンについて、お多恵からは神社や町の描写などに関して意見が出て、ゆらは真摯のその意見を受け止めているようだった。
●
続いて、お多恵さんの推しは、やはりというか、オゴロ餅である。今回は社務所のキッチンを使って、実際に手作りのオゴロ餅を作ろうというのがお多恵さんのプレゼンだ。
「企業秘密もあるもんで、細かいところは説明せんけど、雰囲気だけでもわかってもらえりゃあええで」
そういうことで、ある程度材料はお多恵さんのほうでセッティング済みになっていた。まずは生地作り。生地は全員分をまとめて作る。白玉粉、上新粉、片栗粉をブレンドした粉み水と上白糖を少しずつ加えながら、しっかりと混ぜ合わせていく。混ぜ終わった生地は15分間蒸したのち、冷ましつつ練り上げると弾力が出る。ここの練り方が最初のポイントで、体力勝負でもあるため、お多恵さんの指導の下、縁が引き受けた。
「はいはい、縁さん。手早くせんと。いちに、いちに。もっと腕使って、左右交互に、突くように練る!」
「はい!」
縁は息を切らしつつ返事をする。かなりの重労働だ。お多恵さんは疲れている素振りなど見せない。年齢など感じさせない。熟練というのはこういうことなのだ、と思い知らされる。
「わたしらお嫁入りする側だけが選んでもらうのに頑張るなんて不公平だて、お婿さんにも頑張ってもらわにゃなあ」
かっかっか、と声をあげて笑うお多恵さん。
「それ同意。お多恵さん、いいこと言うじゃん」円香が同意する。
「縁さん、へっぴり腰になってきてない? あたしが代わりましょうかあ?」
腰には自信があるの、などと言いながらたまきがツイストをしてアピールする。代わって欲しいのが本心だったが、縁は丁重に断った。
「ほいでも縁さん、要領ええて。人付き合いはとんと要領得んのにねえ」
「でも、こうして皆さんと一緒に楽しむくらいのお付き合いなら、なんとかやれてます」
縁は照れ隠しをせずに言う。
「縁、って名前に、名前負けしないくらいには頑張りますんで」
「はいはい。ぼちぼちやりゃあよ」
「はい」
「ほら、手をおろそかにしない。ぼさっとしとったらいかんて」
「……はい」
生地が練り上がったら、ここからが各人の作業になる。生地を手でちぎって適量に分けていき、分けた生地を伸ばして、お多恵さんが実演して作ってくれた漉し餡の玉を乗せて包んで形にする。生地が冷めて固まらないうちに手際よくやっていく。
たまきさんも含めた女性陣はお菓子作りなど慣れたもののように楽しんでつくっていて、恐る恐るなのは自分だけ、と思っていた縁だが、恐る恐るなのは円香も同じだった。ゆらがやるのを後追いで真似している円香は、たまきにまで「怖がらなくてもいいのにぃ」と言われるありさまだ。
円香の言った『似た者同士』というのはこういうところなのだろうか。円香は円香で、不器用なところがある人なのかもしれない、と縁は考える。何事にも真正面から飛び込んでいく印象の円香だ。でも、何も考えていないわけじゃなくて、自分などよりもよっぽど状況の把握ができていたり、計算ができていたりするように見える。問題があるとすれば、その自信だろうか。自分を過信してしまうところ。それが透けて見えてしまうところ。
「縁さん、手が止まっとるで」
「あっ、はい」お多恵さんに言われて、慌ててオゴロ餅作りを再開する。
「縁さんは考え事始めるとすーぐわかるで」
「すいません……あ、あのお多恵さん」
「はい?」
「お多恵さんから見て、円香さんってどう見えますか?」
「どう、って。肝がすわっとって、ええ娘だわな」
「ですよね。僕と似てるところなんてないと思うんだけど」
「縁さんと? ああ、まあ似とるんでにゃあの」
「え?」
「強情で、自分を曲げんと人様に迷惑かけてばっかり」
「すみません……え、いや僕ってそんな風に見えるんですか。いろいろ回りのことも考えてるつもりなんだけどな」
「なに言うてりゃあすか。そりゃ縁さんが、自分の根っこをほじくられるのが嫌で、あれこれ気を回しとるだけだがね」
「え」
「ほら、手」
「あ、はい」
また餅を作る手が止まっていた。しかし、餅作りよりも大切なことを聞いている気がした。
「なんでもね、頭の中だけで考えとると、誰だってそうなってまうんだわ。今の子らぁは、どうしてもそうなりやすい世の中なんだろうけどね。だで、自分の手で作る、足で歩いていろんなところにいっていろんな人に会って、その目で見て、耳で聞いて、そうしていけば、ちょっとでも変わっていくことがあるはずだで」
「お多恵さん……」
「さ、続きはまた後でな。お茶入れて、みんなでオゴロ餅、食べやあ」
●
「おいしい!」
みなが口々に声にする。
出来立てのオゴロ餅は、素直に美味しかった。
「これ、ちゃんとした銘菓として売り出せばイケると思うけどなあ」と円香。
「そうよねえ。正統派っていうのかしら。町興しだからって変に色つけないで、伝統のお菓子として売ったほうがいいと思う」とはたまきの意見。
ゆらも乗っかって「あ、でも、私たちみたいな学生だと、ちょっと和菓子ってとっつきにくいところがありますよ。気軽に食べれるようにアレンジできたらもっと人気が出るかもって思います。買ってその場で食べれるような袋に入れるとか」
「葛城さん聞いてる? 貴重なアイディアだよ」
円香は常にプロデューサーの存在を意識しているようだった。葛城も円香に言われるまでもなく、オゴロ餅づくりの風景から得られたことをメモに取っている。
縁はお多恵さんから言われたことがまだ気にかかっているが、一方でお多恵さんの差し入れでいつも当たり前のように食べていたオゴロ餅がまるで別もののように感じられるのが不思議でもあった。
何も変わらない同じ日々。自分がそう思い込んでいただけで、きっと目立たない、だけど大きな変化の兆しがあったのを、自分は見逃していただけなのだと、今は思える。
“エンさんも、身の回りのことを、見て、考えてみやぁて”
そんなことをお多恵さんは言っていた。もうお多恵さんは言うべきことをすべて、とっくに伝え続けていたのに違いない、と縁は確信した。
“お父さんを、大切にせにゃあ、あかんよ”
オゴロ餅を平らげて茶をすする。茶の水面にわずかに写る自分の顔に、父親の面影を縁は見た。
●
たまきのアトリエ『Balsa』に、一同は移動してきた。
今日のたまきはTシャツにジーンズとラフな着こなしをして、頭はバンダナをまいて髪を後ろにまとめている。これが制作中のスタイルらしい。初日の真女(しんおんな)之宣(ののり)のときは神事の正装であったため縁の想像でしかなかったが、その想像通りの抜群のプロポーションをしているのが今日の服装からはわかる。モデル体型と言うのが相応しいのだろう。ただ、背中や肩回りが少々筋肉質なのは、彫刻制作のためなのか、元々の性別に寄るところなのか不明だ。
「彫刻って聞いてイメージしてたのとずいぶん違うね」
円香が言うように縁も意外だった。
縁のイメージでは、裸で筋肉質、等身大の男性の石像などがずらりと並んでいるのかと思っていたのが、実際に展示してあったのは、両手に収まるくらいのサイズの木彫りの作品だった。
「あたし、最初は神様と仏様をごっちゃにしてて、小古呂の神様の木彫をいっぱいつくるぞっ、って思ってたんだけど、そういうのはないのよねぇ」
とたまき。
「はい、ご神体は石や木そのものなんで、姿形はありません」
縁が答える。
「まあ、そういうわけだからぁ、小古呂町の自然そのものをモチーフとしていろいろと制作してるの。どう?」
各々、たまきの作品を眺めたり手に取ったりしながら、思い思いに感想を述べ合う。縁が感じたのは繊細さと大胆さだった。男女の特性を合わせ持つたまきならではの作品に見えた。
作品はここに展示されているだけで百点を超えているだろう。現実に存在する動植物の表情を切り出したものから、想像力から生まれたファンタジックな作品までバラエティに富んでいて、見ていて飽きることがない。
「たまきさん、さっきは神様の像はない、って話をしましたけど、こうした作品は、ある意味で神様のあり方そのものを表していると言えなくもないですよ」
「え? どういうことぉ?」
たまきが小首をかしげて縁に聞く。そういうしぐさは、比較をしてしまうと、円香をはじめとしたノーマルな女性よりも女性らしい。一般的に言われるように、男性が女性らしくあろうとしての振る舞いだけに、本物の女性よりも女性的に見えるようになるのだろうか。
そういえばたまきは初日にくらべ、ずいぶんと伸び伸びとしているように見える。口調もよりオネエ的だし、しぐさも見た通りだ。最初はきりっとしたお姉さん、くらいに見えていたが、今ははっきりとオネエだとわかる。暴露したことで開き直っているのかもしれないが、そんな分析はともかくとして、縁はたまきの疑問に答える。
「この国では『八百万の神』という言い方をよくしますが、これは単にたくさんの神様がいる、というだけではなく、万物あらゆるものに神様が宿っている、という考え方を表す言葉でもあるんです。自然をはじめとして、人間がすばらしい、だとか、恐ろしい、だとか感じるものすべてが、神様の力によるものだとして、崇め奉る対象になったんですね。だから、こうしてたまきさんが小古呂町のいろいろなものを作品にしているのは、まさに小古呂町の神様に一つ一つ、姿を与えているようなものと言えるかもしれません」
縁がすらすらとそう説明すると、一同はなぜか目を丸くして縁のほうを凝視する。
異様さに気づいて、
「なんですかみなさん」
と言うと、
「いやあ、あんた、ちゃんと宮司してるんだなあ、って」
「ま、円香さん……」
縁はまだ神職見習いの出仕で、宮司ではない。それはともかくひどい言われように縁は心で泣いた。たまきは素直に「そういうものかぁ」と頷いて、ゆらもこうした話には関心が強いことを示し、フォローした。
「しかしエニィって神社のことが嫌で家を飛び出したんだろ? にしちゃあ結構詳しいよな、そういうところ」
葛城が聞いてくる。
「僕が嫌だった、というかよくわからなかったのは、もっと、なんというか家の生活のことだよ。昔は親父を見てたら神社や神様が暮らしを立てる方法でしかないように思えて、神様や神社に対する本来の信仰とのギャップというか……そういうものがもやもやして気持ちが悪かったんだ」
今度は縁が、そんなことがすらすらと言えた自分自身に驚いた。この数日で、ずいぶんと自分の気持ちに整理がついてきたものだ、と。
「なんにしてもすごいじゃないたまきさん。お多恵さんのオゴロ餅といい、町の名物としてばっちりPRできるじゃん」
円香は自分のことのように喜ぶ。
「まあね、ま、お多恵さんには負けませんけどね」
たまきはまだお多恵さんのことをライバル視しているようだ。お多恵さんも同じらしく
「まだまだ若いもんには負けはせんて」
とよくあるセリフで返す。
「まあまあ、ライバル意識も大事だけどさあ。ここは縁の町ってことでお互いに手を取り合って協力していけばいいじゃん」
円香はそういって二人の手を取り合って、握手を促す。二人はしぶしぶ円香に従って握手を交わした。
●
「どう? あんたがたがどんな生ぬるくて田舎くさいプランを組んでるのか知らないけど、イン・ゲイジの企画力と取材力、なめんじゃないわよ」
円香が用意してきたのは『小古呂プロジェクト・八百万』への企画提案書の山だった。その山を縁の目の前にずしりと積む。
「小古呂神社をパワースポットとして盛り上げていく経営プラン、参道周辺商店街の再開発、近隣市の巻き込んでのアクセス改善・インフラ整備、文化事業はじめ各種のイベント、旅行会社と共同でのツア商品開発。まだまだあるよ。この町がやるべきことを片っ端からピックアップして対策をつけてあるから」
「でも、企画はサッちゃんに……葛城さんに」
「ダメ。これは縁、あんたに読んでもらうための用意したの。言ってみれば、真女(しんおんな)として真人(しんじん)のあんたに嫁入りするための恋文だから、これ」
あまりの量の書類に及び腰になりかけていた縁だったが、円香の目は真剣そのものである。縁はうなずいた。
「……わかった。でもこれ全部を今すぐは読めない。預かって全部ちゃんと読むよ。ありがとう」
「どういたしまして。でも頭にレジュメが用意してあるから。それくらいは今すぐ読めるでしょ?」
縁は言われて、紙束からレジュメを探しだして目にした。企画書のレジュメ、つまり要約したものについては、葛城が用意したものを見たことがある。あれも簡潔でありながら必要なことが何かがちゃんと伝わるように書かれていた。しかし円香のつくってきたものは、葛城のそれとはずいぶんとアプローチが違う。説明資料としては不足している部分があるように見えるが、それを補って余りあるくらいに、熱意や楽しさが伝わってくる。
「円香さん、一人でつくったの?」
「レジュメならそうだけど」
「じゃあさすがに全部を円香さんがつくったわけじゃないんだ」
「あったりまえでしょ。いい、あのね、縁」
円香は指を突き出して縁を指す。マンガやドラマの登場人物のようなしぐさだ。
「一人でできることなんてたかが知れてるんだから。自慢じゃないけど、わたしには何かをつくる力がない。ゆらちゃんみたいに絵は描けないし、たまきさんが木を彫ったり、お多恵さんさんみたいに伝統のお菓子を作って守っていくようなこともできない。でも、何もできないって指をくわえて黙ってるわけにはいかないじゃない」
そこまで言うと、一度円香は息を大きく吸う。それからさらに続けて、
「あんた、最初はなんだか煮え切らない感じで冴えない男って思ってた。でも内に持ってるじゃん。なんか熱くてドロドロしたものさあ。隠しててもわかるもんだよ。それ一人で抱え込んでないで出しちゃいなって。わたしはそうした。プライド捨てて、みんなに頭下げて、協力をお願いしたよ」
○
もちろん、ヒロミにも。そう円香は心の中で付け加えていたが、縁には知る由もない。あのときには埋めようもない溝が自分とヒロミの間に、いや、彼女だけじゃない、編集部のみんなとの間に広がっていると思っていた。でも、溝は簡単に埋まった。いや、はじめから溝などなくて、円香がそう思い込んでいただけだったのだろう。
ヒロミはまた涙を浮かべていた。でも、涙のわけはあの時とは真逆。そういうのは照れくさくて避けていた円香だったが、それも不思議と受け入れられた。思っていたほどかっこ悪いことじゃなかった、と今では思える。
やってしまえば簡単なことなのだ。でも、やると決意するのが難しい。本当に。
●
縁は円香の突然の告白めいた言葉に案の定驚かされていたが、それ以上に自分の内面を見透かしてくる内容に衝撃を受けていた。
「円香さん……円香さんが話しているのは、僕個人へのメッセージのような気がするんですけど、どうしてですか?
「だ、か、ら。わたしは
円香はイン・ゲイジでの自分のことをざっと説明する。
「回りの熱気と自分の冷めた感じというか、なにかつっかえてもやもやしてる感じというか、自分と回りとの距離感、ズレた感じ……なんかそんなのをさ、ずっと感じてたんだ。で、そういうのを吹っ切ろうとしてこの仕事に臨んだら、あんた、わたしとおんなじものそのままそっくり抱えてるじゃない。だからあんた見てると、それが透けて見えるわけ。図星でしょ?」
図星だった。しかしその図星さをここまでストレートに指摘されると、克服しようという意欲を持っていても抵抗を感じてしまうもので、思わず縁はうつむいて、目を反らそうとしてしまう。
が、即座に、こっちを見て! という円香の声が飛ぶ。
「わたしも同じだから。カッコ悪いのは」
「円香さんが、カッコ悪い?」
「そう。わたしはカッコ悪いの。なんかどこいっても男前だとか言われるけど、なんかそういう見た感じの印象みたいなのに、これまで私自身が縛られてた。でも、やめた。ここに来てみんな見てたら、なんだか自分がバカだって思えて吹っ切れた。んで、縁。あんた見てると似た者同士だ、って感じたんだけど、あんたもいい加減吹っ切れなよって、言いたくてさ」
あんたにだってまわりに人はいっぱいいるんだからさ、という最後の声が縁の耳に残った。
●
それからは、審査の時間が終わっても、ほかの面々が円香の出してきた企画書を見ながら自然と意見交換が始まった。葛城も「もうなんだかとっくに審査とかの範囲を超えちゃってるから」とその輪に加わり、企画書に対して意見したり、逆に自分のプランを出して意見をもらったりしていた。いつの間にか野並や森村も加わり、自由闊達な話し合いの場が形成されていた。
縁も、もちろんそこに加わっていた。しかし、胸中にはいまだに棘が刺さったような感覚が残っていて、円香の言葉が引っかかったままになっている。自分はまだ吹っ切れていない。そんな感覚が残り続けていた。
自分の周りには、こんなにも真剣な人たちがいて、自分を支えてくれているのに。
自分は、彼らの真剣な思いにこたえることができるのだろうか。
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