~ 第一幕 ~ ○阿加井 美夜○
○阿加井 美夜○
「エン、ちょっと」
席に戻るや否や、副編のユウから声がかかる。
「美哉さんが。部屋に来てって」
「何の用だって?」
円香は尋ねる。
「トクメイ、だってさ」
「マジ!?」
「早く行ったほうがいいよ」
「うぇー。へいへい」
だらしない素振りで返事をする円香に、ユウがくすりと笑って手を振り、去っていく。ユウは肩書きこそ副編で、円香とは上司と部下という立場ではあるが、そういうものを全く感じさせない。年も近いし、サバけていて、円香にとっては付き合いやすい相手だ。美夜の評価も上々で、将来は次期編集長まちがいなしという優秀な子である。
ユウみたいな子だっているんだし、もう少し耐えれば少しは自分もやりやすくなるのかな、とちらりと思ったが、薄い望みだとも思った。短気な自分がそこまで耐えられるとは思えない。
それに……そう、トクメイだ。
このトクメイというやつからも、いい加減に円香は縁を切りたいと思っている。だからこそ、今はそのトクメイのことに意識を向けなければ、と円香は思い直す。
ユウには気楽に返したが、円香は内心穏やかでなくなっていた。よりによってこのタイミングで。いや、むしろこのタイミングで来たのはチャンスかもしれない、とも思う。
トクメイとは、漢字にすれば特命。意味はそのままで、編集長である美哉が、不定期に、円香を呼びつけて指示するイレギュラーな業務だ。
このトクメイが、今でも円香を唯一この会社に留まらせている理由であった。
それにしてもトクメイとは……ドラマの見過ぎではないか。職権乱用までして趣味の世界に巻き込まないでほしい、と影で愚痴をこぼす一方、どこか面白がっている自分がいることも否定できない。だが、それも今日までのこと、と円香は自分にきつく言い聞かせる。
○
「編集長」
円香は編集部の一番奥の机で3つのPCモニタに囲まれている美哉に声をかけた。円香はモニタの背中ごしに、美哉のつむじを見下ろすかたちだ。本来、編集長と対面するのに、失礼にあたるはずだが、円香は美哉に対してそういうことを気にしたことはない。
美哉からは返事がない。トレードに夢中なのだろう、と円香は推測する。いつものことだ。今の美哉にとってはむしろトレードこそが本業になっている。
「臨時業務と聞いて、来たんですけど」
円香は構わず話を続ける。トクメイとは言ってやらない。美哉は不機嫌になるだろうが、構わない。そもそも美哉が今のポジションに就いて以来、機嫌よく仕事をしている姿など見たことがないのだし。
「いつからだっけ」
美哉からのレスポンスが思いのほか早かったが、円香の話とかみ合っていない。
「いつ?」
「俺のこと美哉、って呼んでくれなくなってから」
美哉はモニタから目を離さない。一秒たりとも目が離せない、そんな状況なのか、美哉の視線はモニタ間を右に左にさまよい続け、両手はマウスとキーボードを忙しく操作し続けている。
「それに」
言葉が途切れ途切れなのも、トレードへの集中を解くことができるわずかな間にしか、会話に意識を使うことすらできない、ということなのだろうか。
「臨時業務ってさぁ。トクメイでしょ。トクメイ」
「どうでもいいです」
円香は美哉のこういった調子にも慣れっこになっている。彼との付き合いは長い。
「語感には敏感でいないと、って、うちじゃ新人に言ってることだよね?」
美哉はようやく手を止めてこちらに首を上げた。長髪を前に垂らしたその下の顔にはそこそこに皺が刻まれている。女性ばかりの編集部で、ぱっと見の容姿と名前の響きから誤解されがちだが、美哉はれっきとした男性である。円香のようにペンネームでもなく、本名だ。
「円香さあ、そろそろ機嫌なおそうよ。俺に八つ当たりしたって、何にも出ないよ?」
この編集部で美哉だけは円香のことをエンというあだ名でなく、本名のままで呼ぶ。円香のことをもっとも等身大で見てくれる相手が美哉なのだが、今の円香にとって、それもまた愉快なことではない。言われるまでもなく、美哉にどうこうしたところで、自分の中にわだかまる、ドロドロとした何かが解消されるはずがないことくらいわかっている。
「別に八つ当たりじゃないですし」
美哉とのこうしたやりとりも、トクメイで呼びつけられるたびに何度繰り返したことか。
「それに編集長だって、いつまでこんなやりかた続けるんです? それこそ当てつけじゃないですか?」
いい加減うんざりしていた円香は、この際とことん言ってやろうと思っていた。ヒロミと話していたときから、いや、会議室での同僚たちの姿が蜃気楼のようにゆらゆらと不確かな風景にしか見えないでいたときから。やはり潮時だ。
思ったよりも大きな声が出ていたようだ。周囲が一瞬、しん、と静まりかえるのがわかった。きっとヒロミがまた大きな眼をうるませて、こちらを見ているかもしれないが、円香は視線を美哉から離さない。
「今日はシリアス? 苦手だな、そういうの」
美哉はあくまで調子を崩さない。
「楽しい楽しいトクメイの時間だってのに」
「今回は何なんです。内容によっては」
「内容によらなくたって、もうこれきりだって、全身で言ってるじゃん」
美哉は楽しそうにしている。美哉が円香をお気に入りにしているのは周知の事実だ。職務にまったく身を入れず、何を考えているかがつかみにくい美哉だが、円香への態度はいつもはっきりしている。
「円香は素直だよね、昔から」
いつもこんな、からかう調子だ。かつては公私混同と批判を受け、そのとばっちりは円香にも及んだ。二人はプライベートでも関係を持っていると当たり前のように噂された。むしろ、噂通りに関係を持てれば、とかつては円香も思ったことがあった。しかし、表面的な軽薄さとはうらはらに、美哉は円香に手を出したことは一度もない。ほかの社員に対してもそうだった。
「編集長、私」
「場所、変えよっか」
円香が言いかけるのを遮って美哉は提案し、そのまま腰を上げた。
○
踵なしの安物スリッパを履いてパタパタと音を立てて鳴らし、美哉は円香の前を歩いている。円香は無言でその背中を見ながらついていく。
かつての面影を一切なくした、丸々としたボディライン。
しかしその丸い体を包むのは昔から変わらないパンクスタイル。その不自然さ。これで妻子持ち。むしろ我が子を溺愛している。家庭では良きパパだとか。そして趣味は仕事中のトレードに始まり四十八の嗜みを持つというのが本人談。名前は美哉。ニューハーフか君は。正体不明も甚だしい。
似ても焼いても食えないタヌキ、と他部署からは言われているらしいが、食えるタヌキってものがどんなものなのか円香にはわからない……というか、突っ込みどころはそこではなく、円香からしたら美哉はタヌキというより変幻自在のカメレオンと呼ぶのがふさわしい。今の丸々とした体でさえ、その本性を隠すためのカモフラージュでしかないと思う。必要ならすぐにシェイプアップを実施し、女性も羨むかつてのスマートさを取り戻すだろう。円香もかつては羨んだものだ。今は見る影もないが。
やる気のなさが全身を覆っている。むしろやる気のなさを毛布替わりに包まってそのまま半分寝たままのような男。しかしその腹の底は知れない。今回のトクメイだって何が飛び出すことか。またうまいこと言いくるめられて、これからもずるずるこの会社に籍を残し続けることになるかもしれない。油断大敵、と円香は気を引き締めようと心掛ける。
「屋上、行こっか」
振り返ってそういう美哉の口調は、授業ふけよっか、みたいな学生のノリそのものだ。気だるげで、でもちょっといたずら心を隠していなくて。
「編集長」
「次それ言ったら今回のトクメイなしね」
「私はそれで構いませんけど」
「俺もそれでいいけど。でもそうしたらもう円香の言い分は今後一切聞かない。全部いままで通りだから」
その言いぐさに円香は胸から湧いた怒りが脳天へと突き抜けた。しかし、同時に自分が何をこんなに腹を立てなければいけないのか、わからない。こんな男、別に上司だからって律儀に付き合う必要ないのだ。たとえ入社一年目からの恩人だからって。時代劇の主従関係でもあるまいし。ああもう。
「わかった。わかりました。聞きますよトクメイ。聞きますったら」
結局、円香は怒りを溜息に変えて美哉に従う。美哉のほうは別にそんな円香を見てどうこうということもなく、うん、とだけ言って再び背を向ける。先ほどの怒りはこの男に悟られていないのか、それとも悟られていてとぼけられているのか。
「あ、コーヒーいる? 俺はいる」
カップタイプの自販機の前で、美哉は誰に対する質問なのかわからないことを言って、一人でコインを投入する。円香の返事も待たず、二人分の料金を入れていた。
○
「ドラマって職場で二人きりの話するとき大抵、屋上だよね。なんでだろうね、あれ」
そう言う美哉はそのドラマのお約束を自分でトレースしているわけで、
「美哉さんはどうして屋上にしたんです?」
と円香が聞くと、
「円香の髪が風に揺れるところが見たくて」
とのこと。そうですか。
「癖っ毛ひどいんでロングやめてるんですけど」
「まあ、長い髪に比べるとロマンは減るなあ」
「で、トクメイですけど」
「ああ、そうね」
どうでもよさそうだ。
それにしても、さっきの怒りはなんだったのかというくらいに円香は美哉に気を許して無駄口に付き合ってしまっている。もう美哉のペースに飲まれているのか。これまでのいちいちこちらを苛立たせるやりとりも、場所を屋上に選んだことも、相手から日常性を排除して自分のペースに持ち込むための美哉の常套手段だ。わかっていてもなかなか防御が難しい。
「で、ぶっちゃけ、辞めたいんだよね?」
美哉はもう飲み切って空になった紙コップを加えたまま、器用にしゃべって円香に尋ねる。
「辞めたいのはトクメイだけじゃないよね。うちを? それともイン・ゲイジを抜けたいの?」
美哉が『うち』と言っているのは自分の編集部を、という意味だろう。美哉の編集部は現在三誌を扱っている。どれも女性向けの雑誌だ。自分には向いていない。そのことは円香の口で直接美哉には何度も伝えてあるし、そもそも言葉にするまでもなく、そんなことは美哉には先刻承知のことだった。円香がゴシップをやっていた誌の副編、円香の直接の先輩が美哉だったのだから。
「会社を辞めるつもりですけど」
円香は簡潔に答える。が、内心、じれったくてしょうがない。もっともっと、この人には言ってやりたいことが山ほどある。しかし、それを口にしてしまうと、この人に叩き付けてしまうと、その分だけ美哉にスキを与えてしまうのは間違いなくて、円香はジレンマに胸をかきむしりたくなる衝動を必死で抑えていた。
こんなのは自分らしくない。まったくもって、自分らしくない。四季丞円香という人間は昔から勝気で、自分をごまかすような真似は大嫌いで、何事にも白黒をつけてきたはずだ。それはこのイン・ゲイジに入って、目の前の男、阿加井美哉の下に就いて世の中の汚いもの・臭いもの、世間が目を背けて蓋をしたがるものをおおっぴらにしてやろうと自分のすべてを賭けていたあの頃から何も変わっていなかったはずだった。
それがこうして、あの頃と同じ会社で、同じ人間を前にして、なんで自分はこんなにもくすぶっているのか。
「ふうん」
美哉の様子は少しも変わりがなく、声にも何の感情もこもっていないように、円香には聞こえた。
「今の円香はさあ」
表情だけで笑ったように見せて、美哉は言う。
「俺の瞳に恋してる」
いつもの意味不明なギャグだ。いや、正確には本人がギャグだと言い張っているだけの戯言でしかない。
いつもならはいはいと聞き流すその言葉が、今の円香には無性に腹立たしい。
「いいねえ。昔の円香の凶暴さはむき出しだったけど」
円香の胸中とは真逆に美哉はとても楽しそうで、作っていただけの笑顔に本気の喜びが混じるのが円香にはわかった。
「今の円香の、その内側で溜めに溜めた、近寄らば斬る、みたいなタイプの殺気。すごくいい。本当の手練れって感じだ」
「それで」
円香は美哉のおふざけを断ち切る。
「今回のトクメイは?」
「やってくれるの?」
「さっきから、聞くって言ってるでしょ」
「よし、じゃあよーく我慢しておあずけができてる円香に、俺がトクメイをあげよう」
エロオヤジ向けの三文小説に出てくる変態野郎そのもののセリフ回しに、円香はいよいよ美哉の正気を疑う。が、かつて担当していたゴシップ誌にもそんなような内容の小説がが絶えず連載していたなと思った。この男はずいぶん変わってしまったようにも見えるが、本当にいろんなことを見失っているのは自分のほうなのかもしれない。
「小古呂町って聞いたことある?」
美哉はようやく本題を切り出した。円香には聞いたことのない名前の町だ。
「まあ、知らないのも無理はないか。田舎だからね」
そう言うと美哉はレザーのジャケットの内側に手を入れ、そこから封筒を取り出して円香に差し出す。封筒には折り目やヨレなど一切ついておらず、ピンとしている。どう締まっていたのかわからないが、こういうあたりが妙にきちんとしている。
円香は封筒を受け取ると、断ることなく中身を取り出す。大きな紙が何重にも折られて入っている。
開くと、縮尺の小さい……つまり原寸よりもうんと小さくして複数の県が描かれている地図だった。
自分たちが今いるのが平野の都市部だとすると、そこからずいぶんと北の山間部、等高線の間隔が非常に狭くて指紋のようになっているあたりのとあるポイントに赤で丸が打たれて、その上に「小古呂町」と走り書きがしてある。
「こんなところに、町なんてあるんですか? 山ばっかに見えますけど」
円香は素朴に疑問を口にすると、
「うん。そう。山ばっかだ。その丸印あたり全体が小古呂町として区切られてるだけで、実際に人が住んでるのはその土地の数%だよ。山間部じゃあ、『市』でもその土地の大半が山なんてことはザラだし」
そういうものなのだろうか。円香は自分がほぼ街暮らしで、田舎のことなんてさっぱり知らないことに気が付いた。
「ここに行くんですか?」
「そのとおりでございます」
「えーと……道はどうなってんの、これ……。電車は? 線路通ってるの、これ……」
円香は地図が読めない女性だった。もとい、街での暮らしで使うような会社や店へのアクセスマップのような、必要な情報だけがピックアップされた簡略化された地図なら読める。しかし今見ているような地図は情報量が多すぎる。線が多すぎる。道はどれだ。線路はどれだ。これは川か? 線が多すぎる。いらん!
円香はパニックになっている。
「意外と古いというか女の子らしいところもあるよね、円香って」
「いい加減につまんないことばっか言わないでください。そんな風に……なんつーか、モニタ越しに、芸能人のこと批評するみたいにわたしのこと見て、楽しんで、下らない」
「なにを今さら。俺たちはそういう仕事をして飯を食ってる」
「そう、今さらです。茶番です。だからね、わたしは辞めるんです。余計なことを美哉さんとベラベラしゃべる気なんかないんですよ」
脈絡なく感情が湧き出て垂れ流すように話してしまっている自覚はあったが、円香は自制ができなかった。地図を見ていた流れからどうして突然と自分でも思ったが、地図で頭がいっぱいになっているところに美哉の言葉が入ってきた瞬間、円香の中のキャパシティをオーバーしてしまったようだった。
「辞める? トクメイも?」
「だいたい、トクメイトクメイって、他の社員には頼めないことをわたしにだけはいいように使えるからってホイホイ頼んで」
「いつも同意の上だったろ。円香だって、必要としていたはずだ。お前が日常に満足できるクチか? 今の居場所だってそうだ。同世代の女の子たちとまるで馴染めない自分にイライラしている。お前は彼女のことたちをつまらない、と本心では思っている。それを隠せないでいることもまた、お前を苛立たせる。自分が子供であることを突きつけられるからだ。だから辞める。だから逃げる。それで? ついでに俺から逃げるのか? 俺に自分のことをあれこれ言われるのが嫌だからか?」
自分の言葉も、美哉の言葉も、三文小説、三文芝居。どこかで聞いたような言葉の応酬にしか円香には聞こえない。自分はこんなに安っぽい女だったか? ヒステリックに、自分はなにを垂れ流している?
「美哉さんこそ何をいつまでも執着してるんですか。わたしなんかに……違うな、昔のバリバリやってた頃の自分に執着して。見てらんないんですよ。もう。お互いに、昔のことでがんじがらめじゃないですか。きっぱり清算したいんですよ。わたしは」
言い切って、円香は自分が紅潮し、肩で息をしていることに気が付いた。
「わたしは見たくない。こんな子供じみた、安っぽいこと叫んでる自分が見たくないんです。昔のことに執着して今から逃げ続けている自分の姿も。あと、おんなじことしてる美哉さんのことも、もう見たくありません」
言葉にすればするほど陳腐になっているのがわかり、いい加減にしろ、と円香は自分に言い聞かせる。言葉というものはいつだってそういうものだ。一人勝手な言葉は誰にも届かず、宙に浮いてそのまま消えてしまう。そんな言葉を発すれば発するほど、発した人間からも力を奪い去っていく。
美哉はしばらく沈黙していたが、円香の息が整うのを見て、口を開いた。
「整理しようか。円香は辞めたい。俺との縁も切りたい。で、いいね」
円香はすぐに首を縦に振った。右手で渡された地図をきつく握りしめていた。当然、地図はくしゃくしゃになってしまっている。
「残念だよ。じゃあ、僕の言い分。僕は円香に辞めてほしくない。でも僕は今のままでここにいたいし、今の自分を醜いと思ってもそこから逃げる気はない。だから、円香の期待に応えることで円香を存続させる、という選択肢はない」
美哉はいたってクールだった。昔からそうだ。
「僕は円香にも逃げないでいてほしいと思っている。なんだかつまらない痴話げんかじみているけれど、僕と円香とのつながりは男女間のそういう関係とはまったくの別物だってことは、わかっているはずだよね」
円香は再度うなずく。そうだ。だからこそ、こんなふうに美哉のことで心をかき乱し、女としての自分を振りかざしているような態度を取っていることに我慢がならない。
「しかし、一方で、この奇妙な関係がどこか欺瞞に感じられることは確かだ。第三者的に見てもクリーンな関係とは言いがたい。どうしたものか、とは俺も思っていた。でも僕は気が長いほうだ。円香と違ってね。ケ・セラ・セラ、だ。円香のほうが先に我慢ならなくなるのはわかっていたけど、とくに動く気はなかったよ」
整理すると言っておきながら、美哉の言葉にも脈絡がなくなってくているのが円香にはわかった。さすがの美哉も冷静さを欠いているのだろうか。
「わたしが言い出すのを待っていたってわけ?」
また余計なことを言っている、と円香は言いながら思う。でも人と人との会話なんてそんなものだ。ノイズだらけ。余計なものばかり。
「今回のトクメイがターニングポイントになることは間違いない、と思ってた。潮時とも言うけどね。だから今日も待った。それだけだよ」
いつのまにか美哉の口から消えていた紙コップが、彼の右手からひょい、と出てくる。
「じゃあ、個人的な感情表現はこのくらいにして、編集長として話そう」
そう言うと、紙コップをまた加えなおした。
「今回のトクメイが最後だ。これを無事にやり遂げてくれたら、辞めてもいい」
「……本当に?」
円香は美哉を上目づかいで見る。甘えているわけではもちろんない。思い切り疑っている、という視線を向けるためだ。どうせ大した効果はないだろうとわかっていながらの、せめてもの抵抗として。
「うん。円香がよければ、再就職とか独立とか、やめた先のことをバックアップしてもいいと個人的に思ってる。ただし全部トクメイを成功させたらの話。どうする?」
円香は大きく息を吸い込んだ。胸を張る。踏ん切りをつけるためだ。もうごちゃごちゃと考えたりするのはやめにしたかった。
「わかった。やる。やりますよ、美哉さん。やればいいんでしょ?」
円香は真正面から美哉の目を見る。美哉は楽しそうに笑っている。心から楽しそうに。いや、まだ少しだけ、からかうような笑みも残っているが。
「ありがとう」
美哉は素直に頭を下げた。
「ああもう、恥ずかしい。なんでこの年になって中年のオッサンと! 屋上で! 二人きりで! 青春ごっこしなきゃなんないわけさ!」
「ま、たまにはいいでしょ」
そう言うと美哉がまた懐に手を入れる。出てきたのは新品のハンカチ。
「え……。わたし、ちょっとマジ?」
不覚にも目じりに涙を浮かべていたようだった。別に悲しいわけじゃない。感情が極まっての生理現象だ。そう言い聞かせる。
「ああもう」
「ふう、やっと以前の円香になった感じがするかな」
「美哉さんこそ……変だったよ、ずっと」
やっぱり、二人とも今の立ち位置が合っていないのだ、と円香は確信する。はやく、なにもかも済ませてしまおう、と決意する。
「このくらいやりあえば、すっきりと本題を話せるかな」
「ええ、ええ、もうさっさと話してよ。卒業記念になんだってやってあげるからさ」
「気が早いよ……ところで、その地図、読める?」
「……あとで、要約したやつ、頂戴」
トクメイは、最初はちょっとしたお遊びのようなものだった。
まだ美哉が三流ゴシップ誌の主任で、円香は入社したての新人だったころ。
美哉は初めて持った直属の部下となる円香を、雑用係としてとことん使い倒した。円香は右も左もわからず一人では何もできない新人なのだから、やれと言われればやるしかなかった。企画や編集、取材や外部スタッフとの打ち合わせ、原稿作成や校正といった、編集者らしい業務に直接タッチする機会は与えられず、ただただ見ているだけ。いや、見ていられればラッキーという具合で、ほとんどは言われた資料の印刷・整理、録音の書き起こし、取材機器の整備、デスク清掃といった裏方作業。このあたりもまだ雑用としていいほうに入り、ひどい場合だと今どきパートの事務職でもやらないだろうお茶くみや、スポーツ紙を近所のコンビニまで買いに行かされたりまでする。
そんな中、ある日突然、美哉に言いつけられたのが、のちのちトクメイと名付けられる、美哉から円香に下されるオーダーであった。
「円香、円香。ちょいちょい」
美哉が向かいのデスクから手招きをするので近づいてみると、丸めた原稿用紙で口元を隠し、内緒話のように言ってくる。
「あいつさ、あいつ」
と言いながら、少し離れた島の男性を指さす。その手はやはり原稿用紙で隠しながら。
「え、門倉さん、でしたっけ。経理の」
「しっ。名前は言わない」
美哉が小声で話すために肩を寄せてきたので、円香は少しびくっとなる。このころの円香はまだまだひよっこだった。
「すみません」
「で、あいつさ、今、総務の小野とできてるらしいんだ」
「え!」
「声、声」
「あ、はい」
円香も意識して自然と声をひそめる。
「で、円香さ。その裏、取って」
「……はい?」
「とっくに噂広まってるのにさ、当人らだけが認めようとしない。だから俺らで裏、押さえよう」
「いや、押さえようって、プライバシーじゃないですか」
「お前、何しにこの会社入ったの?」
「いや、同じ社員の暴露ネタなんて仕事にならないじゃないですか。つかみんな知ってるなら暴露にもなんないし」
当然の反論をする。そう言いながら、どうして自分はその噂を知らなかったのだろうと思い立ち、自分の情報収集力のなさを恥じたが、今はそこは問題ではない。
「あのさ、仕事だったらやらせないよ。10年早い。こりゃ、そうだな、トクメイだ」
「……トクメイ?」
「そ。業務外の特別命令」
「何の意味があるんです、その特別命令に」
「いい機会だろ?」
「いや、ええ? 修行とか、そういうのですか? うーん……そうかなあ……」
円香が疑問を呈しつつ抵抗を示していると、
「あいつらの後押しをしてやりたいんだよ。なんにも隠すことはないんだよ、って。ていうかバレバレだよってさあ。裏押さえてサプライズを仕掛けるんだ」
「後押しですか……」
確かに門倉さんと小野さんだったら悪くないカップリングだ。日頃お世話にもなっているし、二人の幸せを後押しできるならいい役回りだな、とは思う。
それになにより二人の噂が本当なのかどうか、そのことが美哉の命令抜きに気になってきた。
自分の恋愛には昔からまるで頓着したことがないが、人のことなら話は別だった。人の恋愛への興味というより、秘密というものに円香の好奇心は強く働く。それこそ、秘密というものに恋をするように。
そんな円香の思いを見透かすように、美哉が、
「円香、お前があいつらの恋のキューピット、やってくれよ」
なんて言ってくる。円香はまんざらでもなくなっていた。
結局、最初のトクメイはあっけなく完了した。すぐにバレンタインデーがやってきたので、定時で早々に帰る二人のうち門倉さんの方を追った。女性のほうが警戒心が強いからそちらをつけるのは得策ではないと、経験的に判断したからだ。その判断が正しかったのかどうかはわからないが、門倉さんと小野さんがレストラン前で落ち合い、手をつないで入店していくのを撮影することができたので、その場をさっさと立ち去った。それ以上は無粋である。美哉の命令でも、これ以上いちゃいちゃを見せつけられて楽しいはずがない。
写真を美哉に渡すと、美哉はありがと、と言うだけで、それきりだった。
得に写真を使って社内に暴露記事を流すでもなく、結局二人はその数日後に自ら交際していることをオープンにし、円香のミッションは無意味なものに終わったのだった。
まあ、写真は二人の結婚式の余興で使われるというかたちで陽の目を見はしたのだが。
ともかくそのときのお遊びから始まったトクメイだったが、美哉はそのお遊びをいたくお気に召したらしく、次第に社内のお遊びの域を超えていき、美哉がおおっぴらには指示できない限りなく黒に近いグレーな取材など、まさにトクメイと呼ぶにふさわしいに変貌していった。
基本は無茶ぶりばかりで、下手をしてトクメイのことが外部、もしくは社内でも、他の人間に知れたら自分の首が飛びかねないような内容のものもあった。
それでもハイリスクにはハイリターンが世の常なのか。円香の技量は自身が自覚できるくらいに、目に見えて伸びていった。スリルと達成感が円香には心地よすぎたのだ。
いち編集者の肩書を超えて、本をつくるものとしての力を円香はトクメイの中で身に着けていった。円香は間違いなく、トクメイに、そして美哉に育てられたと言える。
○
「でも、いまだに地図読めないんだね」
「山登りにでも行くような取材なんですか?」
そんな取材でもない限り、このような本格的な地図は必要ない。
「地理的には山のほうだ。でも国道も鉄道も通ってる。この地図を選んだのは、覚悟してもらおうと思って」
「覚悟?」
「円香の苦手なド田舎だ。耐えられるように、事前に覚悟しておいてもらおうって配慮だよ」
「はあ、そうっすか。ご厚意、痛み入りますよ」
「覚悟はいいかい?」
「ええ」
「じゃあ、今回のトクメイは、パワースポットの先物買いだ」
「パワースポット、って」
さっき、編集部の女子たちがああだこうだとやっていたことじゃないか。
「美哉さん……ついにトクメイも女子の流行にターケット変更ですか?」
『女子』の語尾をわざとらしく上げたイントネーションで発音する。
「不満かい?」
「別に。阿加井美哉もホントに落ち目かなって。まあこれで最後のトクメイなんだから、なんだってやりますよ」
「はっきり言ってくれるね。まあ、いいけどさ」
と口では気にしないそぶりの美哉に対して、円香は続きを促した。
「で、先物買いの詳細は?」
「うん。行先は地図で見た通り、小古呂町。県境の過疎地域。電車は通ってるって言っても、1日に数本しかない超ローカル線だ。そこで、まだ公にはなっていないけど、一度立ち消えになったはずの町興しのプロジェクトが再開しようとしている。その内容は……」
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