~ 第一幕 ~ ●森村 徹●
●森村 徹●
廊下の途中、
広間の広さと比べて狭く作られた廊下では、年齢に不釣合いな巨躯を持つ森村とはすれ違うことも難しい。だが森村は縁の姿を見ると、すっとその身を小さくして廊下の端に寄って道を開ける。そのしぐさは洗練されていて、縁は森村を神職というよりも執事のように思えてくる。
「縁さん、そちらの湯呑みは私のほうで片づけておきますよ」
森村は縁の倍以上の年齢であり、父よりも年上である。この神社に勤める年数も二十年以上のベテランだというのに、縁に対しては常に一定の礼節を持って接する。縁にはそれが有難くもあり、こそばゆくもある。
「いや、僕がやりますよ。森村さんは忙しい身じゃないですか」
僕とは違って、とうっかり言いそうになるのを寸前で止める。足のしびれが尾を引いているのが妙に気になる。
「縁さんの暇をつくるのも、
そんなことを表情一つ変えることもなく森村はさらりと言う。口回りを豊かな白鬚を覆い、瞼の上にもやはり茂みのような眉が主張して眼球を隠してしまっている森村は、皺だらけの顔に白鬚・白眉のヴェールで表情を隠し、簡単には考えていることを読み取らせない。神職というよりは仙人という風情を持っている。
「どうしました?」
「え?」
言葉に甘えて湯呑みの乗ったお盆を渡したところで、森村は縁に尋ねてくる。
「浮かない顔をしています」
「ええ、まあ」
縁はまたキツネ目をさらに細めて笑顔を浮かべようと努めた。ただ、なんとなく今回ばかりは、森村には今の気持ちがお見通しになるように思えた。いや、実は今に始まったことではないのかもしれないが。
「お多恵さんから、何か言われましたか?」
「え?」
森村からあまりに的確な指摘を受けて、縁はさらに驚く。
「違いますか?」
「あ、いえ、違いません。けど」
「よかったら、外を歩きながら、話でもしましょうか」
「……はい」
この人にはかなわない。
●
二人で神社の境内を回ることになった。
地面はずっと玉砂利が敷き詰められている。草鞋を履いた足が玉砂利を踏みつぶす音が周囲に響く。社務所兼・実家である建屋の玄関を出ると、正面は左右を木に覆われた細道で、その向こうが参拝者の歩く参道になっている。建屋は木々に囲まれて、参道や拝殿のあるメインの空間とは少し切り離された小空間に立っている格好だ。境内は面積にして百平方メートル程度。この地域では最大級のサイズだが、全国で見ればそれほどでもない。それでも人のいない境内は広々として感じられる。
参道は早朝に森村と縁が二人で掃き清められ、木くずが落ちていることも玉砂利が参道の石畳の上に散乱していることもない。
「お多恵さんは、なんと言っていましたか」
森村は前置きなく切り出した。
「いつもと変わりない話題が続いていたんですけど、うーん、なんというか、いつも以上に父のことを意識していたような気がします。それに、これもいつものことと言えばそうなんですけれど、小古呂神社を盛り立ててくれってアピールはいつも以上だった気がします」
縁は言葉を選びつつ、ぽつりぽつりと発する。
「何か新しいことを言われたわけではないんですけど。あえて言えば、パワースポットの話なんてしてましたけど、なんというか、いつもより念押しが強くて。父のこと、周りのことにもっと気を遣うように、と、世間話じゃなくて、忠告しにきたような、うん、忠告ですね。それが一番しっくりくる」
「忠告ですか」
「はい」
「それを聞いて、縁さんはどう思いました?」
森村の問いに、縁は言葉が詰まった。頭の中に靄がかかるような、しこりができるような感覚に陥って自分が何を思っているのかわからなくなる。一人でいたときはあれもこれもと考えが走っていたのに、途端に思考がストップする。
「今、何かを考える必要はないですよ。そのときに思ったことを聞いているだけです」
森村は縁の状態を察したのか、こんがらがった頭の中に、補助線を与えてくれる。
「森村さんのことを恨んだりしてるつもりはないんです」
そんな言葉が口に出て、縁自身が驚いてしまう。しかし続ける。
「別に、この神社に来る前から、希望があって何かをしていたわけじゃないですから。ただ、その、自分が何になら気持ちを入れてやれるのか、それを見つけることくらいは、自分でやりたかった、とそんなふうには思っていたかもしれません」
よく言う自分探し、というやつなのだろう、と縁は自分のしていたことを認識していた。森村は口をはさむことなく、縁が続けるのを促すでもなく、黙って縁の隣を歩いた。
手水舎の傍を通る。龍の飾りの口からちょろちょろと水が吐き出て、石桶に溜まった水面に波紋をつくっている。
「ただなんというか、自分が父の後を継ぐなんてこと、まだちょっと受け入れられないし、どういうことか理解できていません。ベタな言い方だけど、僕は僕で、父とは違う。父と同じようにはできませんよ」
そこまで言ったところで、縁の頭に一つの明確な問いが浮かんだ。
「森村さん……僕が求められていることは、父のコピーなんでしょうか」
「コピー?」
「父と同じようなやり方で、父が要求されていたことをやり遂げるのが、僕にも要求されていることなんでしょうか」
「縁さん」
「はい」
「ちょっと、力が入りすぎていますね」
「え?」
森村はおもむろに縁の肩をつかむと、ぐりぐりともみほぐす。突然のことで、縁はうぁっ、と、声を上げてしまう。森村の両手が加える圧迫と解放の反復、これがまた、やたらと気持ちがいい。縁の全身の神経に快感が走り、ぞぞっと体が伸びる。
「縁さんの取り柄はふんわりとした物腰にあると私は見ています。今のあなたは妙に力が入っている。取り柄が損なわれています。それではもったいない」
「あた、あた。いやいや」
縁は自分でもよくわからない声を上げる。気持ち良いが、なんだかはぐらかされている気がする。
「そんな調子で湧いた疑問が、そしてその疑問に対して無理やりに引き出した結論が、あなたを、ひいてはこの神社を良い方向に導くとは思えませんな」
森村は左手で肩をがっしとつかんだまま、右手を開いて、縁の顔面をつかむようにする。プロレス技のアイアンクローをやられている状態に近い。森村の大きな手は縁の顔面を覆って隠すのに十分すぎるほど大きい。とても齢七十に迫る老体の手のひらとは思えない。その手が縁のこめかみを、頬を、額を、ぐいぐいとマッサージしていく。
「考えすぎて身動きが取れなくなってしまっているから身も心も固まってしまうのです。動きたいのにどう動いていいのかわからない。動くのが怖いのに、じっとしているのも不安だ。そんな矛盾した思いが互いに互いを縛りあって、あなたの心身を蝕んでいると見えます」
なんだかその物言いは神職というよりカウンセラーのそれではないか、と縁は思った。やはりこの人は何者かわからない。
「よし」
境内で立ちながらのマッサージを受けながらの悩み相談という、傍目にちょっとよくわからない状態が数分ほど続いたが、ようやく森村は縁を解放した。縁はその状況の不明さと同時に、マッサージ効果でいろいろな物質が体内を駆け巡っている効果で全身がくらくらとした。
「戻りましょうか」
縁がはい、という前から、森村は踵を返して社務所のほうへ戻っていった。
できる人物は手際のよさも引き際も違う。
●
「そろそろ、縁さんには新しいことを始めてもらおうと思っていました」
森村は社務所に戻るなり、事務所の応接机で縁に対して切り出した。
「また、突然ですね」
どちらかといえば普段は粛々と職務をこなすイメージだった森村が、今日に限っては次に何をしてくるかわからないように見える。いったい今日という日はなんなのだろうか。
「物事の始まりはいつだって突然です」
なにやらドラマかなにかのキャッチフレーズのようなものが森村の口から飛び出す。縁は再びめまいを感じずにはいられない。
「縁さん。小古呂町役場で、小古呂神社を中心とした町興しの事業計画が立てられているのをご存知ですか?」
縁はまったく知らなかった。日頃から広報を読んだこともない縁には、町の事業計画など知る由もなかった。ましてやその計画の中心にこの神社が据えられているなどとは。またしてもこの神社の跡取りとしての自覚のなさを突きつけられる。
現在の神職は世襲制ではない。縁が神職以外の職に就くことは、なんら批判されることではない。だがそんなのは建前だ。すくなくとも小古呂神社の実情の前では。
「このことは、お父上の隆行さんが健在であられたときから進めていたことです。三年前にストップはしましたが、ころ合いを見て縁さんに引き継ぐように、隆行さんからは言われていました」
「そんな話、全然知りません。父は何も言っていませんでした。何か、秘密にしておくような理由があるんですか?」
「そりゃあ、そのことを知っていたら縁さんは何としてでも後継ぎを拒んだでしょう」
そうだろう。そうだとも。縁は返す言葉がない。
「というのは冗談です」
森村が真顔でそんなことを言うので、絶句している縁はそのまま息も止まってしまいそうな気がした。
「森村さん」
「はい」
「僕の反応見て、楽しんでません?」
「そんなことはありません」
巨躯の老仙人は表情一つ変えるところを見せずに答える。飄々と、という形容がしっくりくる。
「縁さんの耳にこの計画が届かなかったのはむしろ、縁さんを巻き込まないようにとお父上が配慮されていた結果です。お父上は、縁さんがこの神社に縛られることがないよう、常に心配りをしていましたよ」
「……知りませんでした」
何もかも知らない。父が自分のことを配慮していたなんて、まるで実感が湧かない。しかし、その配慮は本当に自分のためのものなのだろうか、という疑念がちらりと頭をよぎる。父は単に自分を遠ざけておきたいだけではなかったのか。不出来な息子を、神社という聖域に上げるのをよしとしなかったのではないか、と。
「また、固くなっていますね」
気づくと森村さんがぐい、とその手を挙げてこちらに向けている。アイアンクローの構え。
「いや、いや、大丈夫ですから」
慌てて言って、縁は自分の世界に籠るのをやめる。
「ふむ、固くなっている、というより頑なになっている感じですね。いやいや、ずいぶんと重症だ」
森村はふん、と鼻息を荒立てる。鼻の下の髭が鼻息に吹かれてふわりと浮き上がる。
「いいですか。縁さん。あなたの資質は、軽さにあるのです。ふわりとして、つかみどころのない、誰に縛られるでもない、何にも染まらない、だけれど何者にもそれなりに対応できる、そのしなやかさです。縁さんご自身にはその自覚はないのかもしれません。あるいは自覚はあっても経験が不足していて、自覚を支える自信がおありにならないのかもしれません。ですが、それは間違いなくあなたの武器です。私は縁さんのことを小さいころからよく見ています。それこそあなたのお父上と同じくらいに」
「しなやかさ、ですか。武器ですか」
なんだというのだ、急に。こんなふうに自分のことを評価され、諭される風に言われるのにまったく慣れていない縁は、正直、森村の発言に引いてしまう。
以前から友人などに人当たりがよいだとか言われたことはあるし、別に物事にこだわりがあるわけじゃないので、何でもそこそこにやれるのは確かだ。だけど、それは翻って器用貧乏。なにをやってもそこそこにしかできず、のめりこむほど好きにもなれない、ということでもあった。
「また、何か後ろ向きなことを考えておられるようですが」
「あ、いやいや」
隙あらばアイアンクローで脅迫してくる巨漢の
「あなたのその資質を、これまでの間に密かに見極めておりました。そして、私は実は、もう以前から結論を出しておりました。あとはいつ、どのように切り出すか、そのタイミングを計っておったのですが」
森村はそこで一度言葉を切る。
「口火を切ったのは、むしろお多恵さんでしたか。やはりあのお方は侮れないですな」
そしてあごひげをさすりながら、妙に満足げにそんなことを言う。
「森村さん」
「はい」
「僕に拒否権は」
「ありますよ。でもあなたは拒否しません。なぜならあなたはなんだかんだで他人の思いを無視できないお人だからだ」
また、自分のことを断言される。
自分でも自分のことがとんとわからないでいるのに、長く生きた人間からしたら、縁のような若者のことなどすべてお見通しとでも言うのだろうか。
これだ。この重み。縁は自分がこれまで避けてきたものの正体を改めて突きつけられていると感じた。森村に言われるでもない。自分は、ゆらゆらと、ふわふわとして、そうした重みを躱してきたのだ。無視するでもなく、さりとて向き合うでもなく、ゆらゆら、ふわふわ。ゆるゆる、ふらふら。
冗談じゃない。
縁の頭に浮かんだのはそんな言葉。
しかし実際に表現したのは、いつものキツネ目の笑顔。今回ばかりはいささか眉間にシワ寄せした笑顔になったが。
「そう。そのお顔と、その裏側にある思いをお忘れなく」
森村は何もかも悟ったように、そう言い放った。
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