美容室
川谷パルテノン
開店とともにやってきた客はインターネット予約で登録したとおりの名を名乗り、私はいらっしゃいませ、どうぞこちらへと彼を案内した。
「初めての担当をさせていただきます。ササモリと申します。よろしくお願いします。それでは先にシャンプーしますね」
彼の首にタオルを巻き、上体を寝かせ、顔が濡れないようナフキンを被せた。
「苦しくないですか」
何も答えなかった。私はじゃあ洗っていきますねといつもやっているように手にシャンプーを落とし泡立てるとそっと髪に触れた。綺麗な枯れ草色の柔らかい髪。手入れするところなんてどこにもないように思えた。
「痒いところはありませんか」
やはり何も言わない彼を少々不審に思ったけれど今までの客にもこういう人はいたし私は気にせず洗髪を続けた。髪が洗い終わるとサッと拭き上げてマッサージを軽くする。店の決まりで私はこれが最初は上手くできず「お姉ちゃん肩から先っぽもぎ取る気かいな!」などと怒られたこともある。今では力加減も慣れてきてとやかく言われなくはなった。彼を鏡の前に案内し「今日はどうしましょうか」と尋ねる。彼は「お任せします」とだけ答えた。これは美容師としても困る回答だ。こっちが良かれと思っても後で文句を言う人も少なくない。正直なところ写真を持って来てくれる人は楽だ。私は雑誌を開いて「こんなのはどうでしょう」と幾つか候補を挙げた。「どれでも構いません」と彼は言う。それほど伸びきっていない綺麗な髪。私は困り果てたが意を決してハサミを入れた。髪を切られる彼はずっと目蓋を閉じたままで本当に任せっきりだった。私は久しぶりにハサミを持つ手が緊張しているのに気づく。どうやっても壊してしまいそうな気がした。
「お客さん、髪綺麗ですね」
私は間を埋めるため口を開いた。彼は聞こえないとでも言うかのように目を瞑ったままだ。気まずさだけが漂った。私はもう何も話さずに早く終わらせようと思った。どうせ殆ど切るところもない。集中すれば三〇分とかからないだろう。
「僕、人を殺してきたんです」
心臓が握られたような感触があった。突然何を言い出すんだ。私は手をとめて「は?」と聞き返してしまう。
「どうですか。人殺しの髪を切る気分は」
「あの、やだなあ。ご冗談を。笑えないですよ。ハハハ」
「笑ってるじゃないですか。そうか、冗談じゃないから笑えるのか。なるほど」
何を納得してるのかさっぱりわからない。本気で言っているのだろうか。私は緊張で何も言い出せなかった。
「どうしました。どうぞ、切ってください」
彼は目を閉じたまま私を促した。警察を呼ぶべきか。いや待て、そんな本気なわけが、いったい何者なんだこの客は。まとまらない思考は行動に結びつかない。それでも何かリアクションしなければ私は、殺されるかもしれない、そう思うと妙なことを口走っていた。
「どなたを、その殺されたんですか」
店には私とこの客だけだった。次の予約まで後二〇分ほど。店長は昼からの出勤だった。なるようになれという気分だった。
「母です。母だった、かな」
「お母様を」
「この髪色、どう思いますか」
「いや、お綺麗だと」
「そうですか。これ地毛なんですよ」
「へえ」
「日本人っぽくないでしょう。随分いじめられました」
「お気の毒に」
「母方に外国の血が流れてまして。遺伝というやつですかね。生まれつきこういう色で」
「こんなに綺麗なのに、いじめなんて」
「同情ですか。あなたには分からないだろうな。事情なんて無視して自分とは違う生き物を排他しようとする残酷な怪物のことなんて」
「すみません。私はその」
「謝らなくていいですよ。僕とあなたじゃ生きてきた場所が全然違うんですから。分からなくて当然だ」
「その、どうしてお母様を。もしかしてこの髪色のことで」
「逆恨み、ですか。違います。それなら母はもっと早くに死んでいた。僕がもっとも辛かった時期に。母はどちらかと言えば愛情の強い人でした。僕がいじめられているのも知っていて敢えて大事にはせずただ強く生きれるようにと励ましてくれるような」
「いいお母様じゃないですか」
「ええ、自慢の母でした」
「じゃあなんで」
「何故。僕にも分からないんですよ。どうしてあんなことをしたのか。愛されていたのと同じくらいに母のことを愛していたはずなのに」
時計に目をやると流れた時間はほんの四、五分でしかないのに私には何時間にも感じられた。何もかもがわからなくて殆ど作業も進んでいない。私はとにかく解放されたくてもうきりあげてしまおうと思った。
「お名前、なんと仰いましたっけ」
「私ですか。ササモリといいます」
「失礼。ササモリさんは誰かを殺したいと思ったことはありますか」
勘弁してくれと思ったことならあります。今です。
「そうですね。なくはないかな」
何故か私は正直に答える。
「どんな相手ですか。どんな理由ですか」
「その人は、なんていうか自分勝手な人で無責任で、現実が見えてないというか」
「恋人ですか」
「元、ですね」
「憎かったんですか」
「というか裏切られちゃったんですよね。結婚の話とかしてて、その時も浮気してた。どうしようもない奴ですよね」
私は何を言っているんだろう。頭の中がグチャグチャなのに言葉は饒舌だった。
「もう会ってはいないんですか」
「もちろん。二度と会いませんよ」
「出会ったら殺しちゃいますか」
「いやいや、今はそこまでは、ただアイツが幸せだったりしたら頬を張るくらいはしちゃいそうですけど」
「まだ気にされてるんですね」
「あの」
「なんですか」
「どうして髪を切ろうなんて思われたんですか」
彼は一瞬黙った。私なりの逆襲のつもりで吐いた台詞だ。逆撫でしちゃったかな。私も殺されちゃうのかな。
「言われたんです。正直に話しなさいって。警察に行って僕がどういう気持ちでどういう理由で母を手にかけたのか。その前に身嗜みは整えてからねって」
「えっと、誰に」
「母ですよ。二人暮らしでしたから」
「えっと」
「僕が首を絞めてるもんだから声はかすれてて、なのに最後の言葉がなんで僕みたいなクソ野郎のためなんだって、よくわからなくなってどんどん握ってるチカラが強くなって」
「落ち着いてください。お母様はそのえっと、だから、あの」
「ササモリさん、大丈夫ですよ。僕は罪を償うつもりです。逃げたり隠れたりするつもりもない。もちろん他の誰か、ましてやあなたに危害を加えるつもりなんてありません。ただ最後に誰かに聞いてほしかった。ずっと求めてたんです。たぶん。母でもない自分でもない、全然知らない誰かが僕の話を聞いてくれるのを」
私は何がなんだか分からなくて気づくと目から零れ落ちるナミダを止められなくなっていた。彼の些細な願いは私に受け止め切れたのだろうか。出来るならば彼のことを知らないまま平凡で退屈でどうしようもなくつまらない人生でありたかった。人一人の悲しみをこんな形で背負わされるなんてちょっと辛い。
「どうでしょうか」
バックミラーを持つ手は小刻みに震えた。彼は目を開けて殆ど変わらない髪型に満足そうに微笑んだ。次の予約が迫っていた。
「ありがとうございました。それとすみませんでした。僕は」
「大丈夫です。私なら全然問題ないです。いやほんとに」
「じゃあ行ってきます」
こんな時なんて言えばいいのだろう。わからない私はわからないなりにいつもどおりであろうと思った。
「お気をつけて。またのご来店お待ちしております」
彼は一瞬驚いたような顔を見せた後ニッコリ笑って手を振った。駅に向かってだんだん小さくなっていく彼の背中に私は小さくお辞儀した。
美容室 川谷パルテノン @pefnk
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