日常@定年退職の日

「いってきます」


「いってらっしゃい」


 幾度となく繰り返されたそのやり取り、それはなんの変哲もない朝の

 ただ、その日はそれまで当たり前に存在していた日常が終わる日だった。


「今ま…」


「ん?どうしたのあなた?」


「いや、何でもない。それじゃ、特にやることもないが最後の出勤をしてくるよ」


「気を付けてね」


「ああ」


 男は「今までありがとう」と言おうとしてやめた。

 言わなかった理由…

 それは、照れ臭さもあったが、男にとって同様にの日常に女が欠かせないからこそ「今までありがとう」という言葉が伝えられなかった。

 この日、女は数十年ぶりに仕事へ向かう男の背中が見えなくなるまで玄関先でそれを見送った。

 女の視線を背中に感じた男は「ありがとう」と心の中で呟いた。

 そして、帰ったら必ず「ありがとう。これからもよろしく頼む」と女に伝えようと決心した。

 定年退職の日も男の日常はそこにあった。

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