水無月4日
24
東日本言語修復センターへ到着すると、黒衣姿のホクトさんが迎えに来てくれた。
「お忙しいところすみません」
するとホクトさんは穏やかに笑みを浮かべて首を横に振った。また目の下の隈がひどくなったような気がするし、青空の下だと、なんだか痩せこけて見える。
ホクトさんに連れられて特別療養棟の一室へ向かう。
「……失礼します」
塩素の匂いがする、明るい病室。中央では言祝ぎ姫が今も眠り続けていた。その周りを取り囲むようにしてセンター長や黒衣に金のパンジーをつけた上級言語修復士たちが立っていた。
「特待生とはいえただのインターン生が内部修復を治せるなんて、見たことも聞いたこともないけどねぇ」
狸のようなセンター長の言葉にはおそらく皮肉も込められているのだろう。
「しかも、相手は、特級言語修復士だ。すべてが想定外の状況だ」
他の大人たちも頷いている。
四面楚歌には慣れているけれど、流石に威圧的な態度にはにたじろいでしまう。
「彼女を信じてみてください」
するとホクトさんのはっきりとした声。びっくりして見上げると、左隣に立ってくれていたホクトさんと視線が合う。頷いて、あたしの肩に手を置いた。
味方がいてくれるから、きっと大丈夫。
厳かに、月の王の日記を取り出す。
「『青葉マーナが問う。希望、愛情、幸運、誠実。ニムロドの加護がすべてに満ち満ちて、如何なる言葉も共有され、ニムロドの根源に刻まれるべき言葉を』」
バレッタを、レプリカの表紙にはめる。
三日月がどんどん満ちていく——
大人たちの目の色が変わり、空気がざわついた。
「どうして言語修復士の詠唱を、まだバッジも獲得していない学生が!」
狼狽える誰かの声が聞こえたのを最後に、何かが大きくずれたような感覚。
*
室内には、眠ったままの言祝ぎ姫だけしかいなくなっていた。
まるで夜のように真っ暗。
言祝ぎ姫の上に浮かぶのは満月のバレッタ。
そして、隣で揺らぐ【愛】という言葉は、硝子よりも透き通って輪郭を有していた。
あたしは目の前に浮いている物語の一節を読み上げる。
「『悲しみの大きな塊を丁寧に磨いていくと、そこにはわたしだけの愛が隠れていました。小さいけれど光り輝く、美しいものでした。それを守ることがわたしの生きる意味だと思いました』」
……とぷ、ん。
満月の光に照らされて、言祝ぎ姫の【愛】に、底から液体が溜まっていく。満たされていく。
言葉のかたちいっぱいに満たされた後、ゆっくりと、言祝ぎ姫の瞼が開いた。そして頬からひと筋の涙が流れる。
美しい雫は、もしかしたら言祝ぎ姫から溢れた【愛】なのかもしれない。
「人間はお互い分かり合うことができない存在だって傷ついて泣いていたから、分かり合えないままでいいんだと言いたくて、愛をたくさん集めていました。すべて違って、どれも正しいのだと証明したかったのです」
ゆっくりと上体を起こし、言祝ぎ姫がベッドから出る。
「言祝ぎ姫。爆発から守っていただいてありがとうございました」
すると言祝ぎ姫の口角がわずかに上がる。いつの間にか修復された透明な杖を両手で握り、瞳を閉じて、杖の先を額に当てた。
「全てを元通りに戻すこと。わたしたちに課せられた使命であり、科せられた罰です」
瞳を開いた言祝ぎ姫が、あたしと向き合う。
「しかし気の遠くなるような長い道のりです。己の優しさ故に、彼は自分を見失ってしまいました。どんなにきれいな水でも、流れが止まればいずれ澱んで、腐っていくように」
今のあたしなら、なんとなく理解できる。
言祝ぎ姫が自分の【さびしい】を大事にしなさいと言ってくれたこと。
美並ジロウさんの件みたいなことが積み重なっていけば、あたしだって他人の感情の重たさに潰されていくかもしれない。だから言祝ぎ姫が言ってくれたように、自分のさびしさとか悲しみをきちんと持っておくことが大事なんだと。
「植物を愛でている方が楽だと、かつての彼は言いました。だからこそ彼には傷つく以外の選択肢がなかったのです。だからこそわたしにはもう一度彼と話をする義務があります。あなたは、あなたを見失わないで、この顛末を見届けてください」
「はい」
今まででいちばん力強くあたしは頷いた。
言祝ぎ姫が微笑みを浮かべる。
「彼の言葉を届けてくれて、ありがとうございます」
*
周りにとっては一瞬の出来事だったのだろう。全員が目を丸くして、口をぽかんと開けていた。
「ひびが……治った……」
「一学生が……?」
「剣に見えるというのは本当だったのですね」
「こんな深刻な内部破壊を修復できるなんて不可能だと思っていたのに」
一瞬、睨まれたかと思ってびくっとした。喜びというよりは驚きの表情をしていた。
言祝ぎ姫に視線を遣ると、頬に赤みが差している。
そしてあたしの手元のバレッタは三日月から満月へと変化したまま。
「内部修復は治りました。いずれ、言祝ぎ姫は目覚めると思います」
がばっ。
「!」
柑橘系の爽やかな香りが鼻に飛びこんでくる。
ホクトさんがあたしを両腕で抱きしめていた。爆発のときは気づかなかったけれど、大人の男のひとの腕は太く逞しくて、力強かった。
突然すぎてびっくりして固まってしまったものの、ホクトさんが泣いているのに気づいて我に返る。顔は見えないけれど鼻を啜っているのが聞こえてきた。
「ありがとう……ございます……」
きっと、ホクトさんはヒカリさんのことを思い出している。助けられなかったヒカリさんのことを言祝ぎ姫に重ねて、泣いている……。
*
寮に戻ってきて、まず、月の王の日記を丁寧にデスクへ置いた。
ほっとした途端に急に体が重たくなる。緊張の反動が今になってやってきたみたいだった。食堂であたたかいご飯を食べようと思ったけれど、とりあえずベッドに座る。
『♪』
すると端末から緊急の着信音が鳴る。開くと、ニュース速報が空中に飛び出した。
「えっ」
映し出されたのは東日本言語修復センター。だけど、すぐには信じることができなかった。
建物から、赤い炎と黒い煙が昇っていた。炎目がけて何十台もの消防車が放水していて、上空からもヘリコプターで消火剤が撒かれている。
『……分頃、大きな爆発音があったと警察に通報があり、警察と消防が駆けつけたところ、炎が上がっていることが確認されました。現在建物内に取り残された人の救出作業も行われていますが、……』
さっきまでいた筈なのにこの建物がセンター内のどこなのか、炎と煙が凄まじくてよく分からない。
全身の血の気がさーっと引いていく。指先が震える。両手を組んで瞳を閉じた。
「……どうか言祝ぎ姫とホクトさんがどうか無事でありますように……」
『首相官邸では特別対策室が設置され、今後の対応を迅速に決定する模様とみられます』
顔を上げると、画面には頬に傷のある戸塚首相が映し出されていた。
『テロリスト組織の犯行と見られますがどうお考えですか』
『現在調査中だ。改めて午前2時に会見を開く』
落ち着いた様子で記者からの質問に受け答えしている。
首相だって言祝ぎ姫が東日本言語修復センターにいるのは知っている筈だ。心配に違いないけれどそんな素振りすら見せていない。一国の主として堂々とした立派な大人がディスプレイの向こうにいた。
「……大人でも色んなひとが、いるんだよね」
思わず、口に出してしまっていた。
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