皐月14日

8


 記入者:青葉マーナ


 事務所が定休日の為、休日。



〈休日外出願 青葉マーナ 理由:買い物 帰宅時間:17時〉


「珍しい。あんなに嫌がってた私服で、しかも出かけるなんて、どうしたの」


 寮母室は玄関の脇にあるけど、だいたいは玄関と繋がっている小窓で用事が事足りる。そこから寮母さんに形ばかりの休日外出願を提出すると、目を丸くされた。

 たしかに休日は言語修復大学校の図書室や実習室にいたし、遊びに出るような友人関係も皆無だから、外に出かけるというのは入学以来初めてかもしれない。

 しかしあたしだって好んで私服を着た訳ではない。世間は平日なので補導されないように、片手で数えられるくらいしかない私服を着るしかないのだ。……施設の人間が送ってくれた少し流行からは外れたようなデザインの私服を。


「買い物? 何を買ってくるの?」

「買ってくるかは分かりません。インターン先で、興味を持ったことがあって、とりあえず街へ出かけてみようと思ったんです」

「言祝ぎ言語修復事務所で? すごいわねぇ、このマーナを動かすなんて、よっぽどのことじゃなきゃできないっていうのに」


 寮母さんが何故だかうきうきしている。

 そういえば寮母さんは何歳くらいなんだろう。大人の年齢ってよく分からないけれど、ホクトさんと同じくらいだろうか。だとすると20代後半?


「この、ってどういう意味ですか」

「だって頼まれたって外には出ないでしょう? びっくりしちゃう。楽しい休日を」


 のんびりとした口調で言われると、苛立つものも苛立たない。まぁ、そうやってすぐにいらいらしてしまうところが『この』の指す意味かもしれない。


「はい。行ってきます」


 扉を開けて、寮の外に出る。


 空を見上げると、今日も雲一つなくて、見渡す限り青色で塗り潰されている。遠くにはニムロドが見えた。巨大な剣が刺さっているように見えるあたしのニムロド。

 他のひとにはどんな風に見えているんだろうか。たとえば、月の王とか。

 はぁ、と溜息が漏れる。

 まさか一瞬とはいえあんな不意をついたタイミングで月の王に会えるなんて思わなかった。 思い出すだけで胸に込みあげてくるものがある。

 ずっと会いたかったひと。記憶のなかの姿と変わっていなかった。

 ただ唯一引っかかるといえば、湊さんと、瀬谷さんの、見てはいけないものを見てしまったかのような瞳……。それから湊さんの振り絞った一言。


『戻ってきたのか』


 決して歓迎しているような雰囲気ではなかった。

 月の王といえば言祝ぎ姫の唯一無二の相棒だった筈。少なくとも言語修復士の歴史にはそんな記述がたくさんある。だからこそあたしは言祝ぎ言語修復事務所へのインターンを希望したのだ。事実上、消息不明となっている月の王について何か知ることができるのではないかと考えたから。

 再び溜息を吐き出しそうになって慌てて首を横に振る。


 電車に乗り、言祝ぎ言語修復事務所のあるターミナル駅で降りる。

 改札を出るとすぐに人々の待ち合わせにされている時計台があった。柱の代わりに、瑠璃色の髪をした女性の立体映像が歌を歌っている。

 歌姫ルリハだ。

 幻が見せた、血の気の引いた表情を思い出す。ちくん、と胸が痛んだような気がして、服の裾をぎゅっと掴んだ。

 立体映像はあまりにも対照的だった。美しく、華やかな女神。

 それにしても平日なのに人間が多すぎて頭がくらくらする。街に出てきたものの居場所もないし特に目的もないからやっぱり帰ろう。交差点の手前でそう思ったときだった。

 目の前を見たことのある朱いスポーツカーが走り抜けていった。


「あれは」


 乗っていたのはイノルさんと、若い女性だった。

 事務所の入っているビルの一階に止まっていた自動車の主は彼だったようだ。……なんとなくそんな気はしていたけれど。

 それからしばらく歩いていたら、またもや見慣れたシルエットを今度は遠方に発見した。

 ホクトさんだ。てろんとした黒いシャツと黒いスキニーパンツで全身真っ黒のコーディネートは、かえって目立つ。

 あたしの視線に気づいたのか、顔をあげた。そして小さく右手を挙げてくれて、ゆっくりとこちらへ近づいてきてくれた。


「こんにちは。あの……」


 ホクトさんが無言で持っていた黒い革の鞄を掲げる。


「特殊案件だった為、土ヶ谷さんのディクショナリウム異常についての報告を言語修復士協会の本部へ報告してきたところです。アオイさんがよかったら、一緒にご飯でもどうですか」


 たぶん気を遣って声を大きくしてくれたのだろう。もしくは耳が慣れてきたのか。

 ぐぅ。そしてあたしのお腹が先に答えてしまう。


「えっ、いいんですか、……ホクト、さん」


 きょとんとされてから、わずかにホクトさんの口元が緩む。よかった。名前で呼んでみても、大丈夫なようだ。


「大通りから一本入ったところに、行きつけのカレー屋があるので」



 いかにもカレー屋という雰囲気の、ちょっとエスニックな店内は、空間そのものにスパイスの香りが染みついているようだ。お昼時というのに閑散としている。

 慣れない雰囲気にきょろきょろと視線が落ち着かない。


「注文は?」


 無愛想な店員がメモを片手に訊いてくる。慌ててメニュー表を見て、スタンダードセットという物を注文した。ホクトさんには何も尋ねなかった。


「ナンはお代わり自由だよ!」


 店員さんが大声を上げながら運んできたのは、ふたり分のお皿からはみ出ている大きなナンと、なみなみと注がれたラッシー。

 無言でホクトさんが両手を合わせるのであたしもつられて手を合わせる。熱々のナンをちぎるとふかふかしていて、ちぎったところからおいしそうな香りの湯気が立った。


「おいひい」


 あたしが感想を述べると、ホクトさんは無言でにやっとした。

 さらに金属製の器に入ったカレーも運ばれてきたのでナンと一緒に食べる。お肉が大きいのに口のなかでほろほろと崩れてとても美味しい。空気はむせ返るくらいスパイスの香りなのに、カレーそのものはふつうに美味しかった。


「こんなに美味しいカレー、初めて食べました」

「それはよかったです」


 ラッシーを一気に飲み干すと、甘さがほどよくカレーの辛さを中和してくれる。


「あの、休日までお仕事されてるなんて、大変ですね。イノルさんは呑気にデートなんかして休日を満喫してるっていうのに」


 ホクトさんが首を傾げた。


「さっき目の前を朱いスポーツカーが横切って行ったんです。助手席に女のひとが乗っていました」


 あぁ、と小さく唇が動いた。


「あまり彼を責めないであげてください。イノルくんにもいろんな事情があるんでしょう」

「事情、ですか」


 ホクトさんが頷く。それ以上イノルさんの話題は出なかった。

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