皐月15日
9
記入者:青葉マーナ
新たな依頼がありました。所員の方々によると、かなり稀な内容の案件だということです。学びの多い分、今度こそ先走って失敗しないように、依頼人第一で行動したいと思います。
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朝、駅の改札を抜けると突然声をかけられた。
「マーナちゃん、おはよう!」
「うわっ!」
目の前に見たことのある朱いスポーツカーが勢いよく止まった。派手さか急停車かにかは分からないけれど、周りの視線が集中する。
そんな視線を気にも留めず運転席から笑顔のイノルさんが手を挙げる。
「乗ってく?」
「おはようございます。いいえ、結構です」
「ちぇっ。また後でね」
食い下がることなくイノルさんは急発進で去って行った。
……あたしのインターン4日目が始まる。ちょっとでも多くのことを吸収できるようにがんばっていこう。
今度月の王に会ったときには、ちゃんと会話ができるように。
「おはようございます」
「おはよう! さっきぶりだね!」
事務所の扉を開けると3人は既に揃っていた。言祝ぎ姫は相変わらずデスクに突っ伏して眠っていたけれど、イノルさんもホクトさんも黒衣を羽織って定位置についている。
「ああいうの恥ずかしいからやめてください。……イノル、さん」
ぎこちないながらも名前で呼んでみると、気づいてくれたようでイノルさんの表情がさらに明るくなる。
「ホクトさん! ホクトさん~!」
「嬉しそうにホクトさんに報告するのもやめてください!」
そんなつもりはなかったのに頬が熱い。
「いやあ、マーナちゃんが僕たちに心を開いてくれたことを全力で喜ばずしてどうしろっていうんだい」
「あたしのことを何だと思ってるんですか」
なんてやり取りをしていたら、扉がノックされた。
ホクトさんとイノルさんが顔を見合わせて、軽いテンションで扉を開けたのはイノルさん。
「言祝ぎ言語修復事務所へようこそ!」
「こちらで通常の言語修復事務所では扱えないような案件を取り扱っていると伺ってきたのですが」
臆することなく口を開いたのは、20代くらいの女性だった。
表情は硬く、葡萄色の三白眼が室内を注意深く覗いていた。肘くらいまであるまっすぐの黒髪は前髪がきちんと眉の上で切り揃えられている。まるでお人形みたいだと思った。
「はい、当事務所では拒否案件はひとつもございません。どうぞ中へお入りください」
拒否案件?
耳にしたことはある。難易度の高い案件は、断る場合があると。そういえばアオイさんも事務所の専属言語修復士には断られたみたいなことを言っていた。今回もそんな難しい話なんだろうか。
「では、失礼します」
頭を下げて、女性が入ってくる。すとんとした形の、深緑色を基調としたチェック柄のシャツワンピースを着ている。靴はブラウンの、レースアップブーツだ。黒いキルティングのポシェットは肩紐の部分が大ぶりのゴールドチェーンになっていて、きらきらしている。
イノルさんに誘導されて女性はソファに腰かけた。
お茶を用意してから、向かいにホクトさんが座る。その隣にはイノルさん。ふたりが自己紹介をする。
所在なく脇にちょこんと立ったあたしには、女性から訝しげな視線を受けたところでタイミングよくイノルさんが、言語修復大学校からのインターン生だと説明してくれる。なので、軽く頭を下げてみせた。
表情は少しも崩さず、女性が口を開く。
「
「はい。お任せください」
「安心しました。もし今回の件が世間に知られたら犯罪になるんじゃないかと両親は怯えているものですから」
サラサさんは小箱を鞄から取り出して、ちょこんとローテーブルに置いた。
「……失礼します」
ホクトさんが丁寧に小箱の蓋を開ける。隣に座っているイノルさんが中身を覗きこんだ。
脇に立っているあたしには何が入っているか見えないけれど、ふたりが神妙な面持ちになったのは分かった。
「……これは、ディクショナリウム、ですよね?」
「はい。祖父の部屋から見つかりました。ただ、これが誰のものなのか、わたしたち家族にはさっぱり分からないんです。祖母が亡くなったときには正式な手続きをふんでニムロドへ返却しましたから」
与えられた本人以外、ディクショナリウムを手にしてはいけない。
それはこの世界の言語化されていないルールだ。他人のディクショナリウムを正式な手続きなく携帯することは、その者に不幸を呼び寄せるという。
言語修復士はニムロドの加護を受けているから大丈夫だというけれど、普通は他人のディクショナリウムを持とうなんて思わないのだ。……普通ならば。
「先週、祖父を『後期言語療養施設』へ入所させました。そして片付けをしているときに母が見つけたんです」
淡々とした説明でも困っているのは伝わってきた。
後期言語療養施設ということは、加齢に伴ってディクショナリウムの力が弱くなって言葉に不自由や不具合が発生していると言うことだ。
そこまでの説明で、サラサさんの祖父がぼけてしまって他人のディクショナリウムをどこかから持ってきてしまった、というのはなんとなく推測できる。
ということは現在進行形で誰かがディクショナリウムを紛失してなんらかの状態異常にあるかもしれない……。
なるほど、普通の言語修復事務所だと門前払いされそうな案件だ。
「すべて判明して元の持ち主へ返却できたら連絡してください。お金は幾らでも払います。いかがでしょうか」
「そうですね。どんな結果になるかは保証できかねますが、やってみましょう」
ホクトさんが聞こえる声量で決定する。新たな依頼だ!
「ありがとうございます。途中経過の報告は、一切要りません。宜しくお願いします。前金はこれくらいでいいでしょうか」
サラサさんによって宙に映し出されたディスプレイには見たことのない桁の金額が表示された。あたしとは違って落ち着いているホクトさんは人差し指でサインをしてその額を受け取り、ホクトさん側のディスプレイからの手続きを経て、依頼が承諾される。
「はい。お任せください」
一瞬サラサさんと視線が合って、そこでようやく違和感を覚えた。
淡々としているのではない……。これは、相手のことを忌々しく思っている表情だ。
あたしはよく知っている。前の施設長と同じ。態度が悪いと言っては髪の毛を引っ張ってきたり頬をはたいてきたり、蹴ってきたりした、あれと同じだ。
誰にも気づかれないようにぶるっと身震いをする。
そして決して笑顔を見せることなくサラサさんは退出した。
勢いよくイノルさんがソファーに背中を預ける。
「マジかーっ!」
頭を抱えて叫ぶ。
「ややこしいのが来たなぁ。ここ最近は平和だったのに、立て続けに2件もなんて相当だよ」
「なんでそんなややこしい案件ばっかりくるんですか」
「特級言語修復士がいるからだよ」
イノルさんは苦笑いして言祝ぎ姫の方に顔を向けた。当の特級言語修復士は、眠ったままぴくりとも動かない。
「イレギュラーすぎてインターンには向いてないってのがよく分かったでしょう、マーナちゃん」
あたしは生返事をして小箱を覗きこんだ。
艶のある、小さな、櫛だ。椿のような花の絵が描かれている。
ホクトさんがじっと櫛を見つめている。そして、ぼそっと呟いた。
「箱」
「箱がどうかしたんですか?」
「特殊な封印がかけられていて、他人でも持ち運びできる仕掛けになっています……。この箱を用意した人間が何者かによっては依頼の本筋以外に考えなければならないことがでてきます」
イノルさんが考え込むホクトさんの肩をちょんとつついて、あたしを指差した。それから、しーっ、と口元に人差し指を当ててみせる。
はっと我に返ったようにホクトさんが背を正す。
「何の話ですか」
「インターン生には聞かせられない話だよん。さて、この櫛を調べようか!」
イノルさんの茶化し方はずるい。何もつっこめないまま、イノルさんが背中を押してくるのであたしも工房に入る。後ろから小箱を持ってホクトさんがついてくる。
お香の焚かれた工房。中央のテーブルにそっと小箱から取り出された櫛が置かれる。
言語修復士のふたりはきちんと黒衣のボタンを上まで留めて、白い手袋をはめた。ホクトさんはさらに髪留めで長髪をくくる。
イノルさんがぽきぽきと手首を鳴らす。
「どうするんですか、ホクトさん」
「ふたり同時でディクショナリウムへ問いかけてみましょう。出力は最大限で」
「反動がこわいっすね」
ホクトさんは頷くとあたしへ顔を向けた。髪の毛をまとめていると顔の輪郭がはっきりと見えて、男性の骨格なんだと急に気づく。
「持ち主が近くにいないディクショナリウムはどう暴走するかわかりませんから、マーナさんはできるだけ離れたところにいてください」
「は、はい」
慌てて工房の隅に立つ。
ホクトさんとイノルさんがテーブル越しに向き合う。
ホクトさんは右手でピアスに触れる。まるで、楽器を弾いてるみたいだ。
「『瀬谷ホクトが問う。希望、愛情、誠実、幸運。ニムロドの加護がそれらすべてに満ち満ちて、瑕疵の治癒に必要な言葉とは何かを。そして、如何なる言葉も共有され、根源に刻まれるべき言葉を』」
ぞくっとした。言語修復士の正式詠唱だ。
ニムロドの加護を受けた言語修復士が選ぶ、4つの祝福。それらは順番は人により異なって、修復における相性の善し悪しもあるという。あたしはまだ持っていない憧れの詠唱。
イノルさんも真剣な表情でブレスレットを櫛の上に翳す。
「『湊イノルが問う。愛情、誠実、幸運、希望。ニムロドの加護がそれらすべてに満ち満ちて、瑕疵の治癒に必要な言葉とは何かを。そして、如何なる言葉も共有され、根源に刻まれるべき言葉を』」
ぐわぁっ! 櫛を起点として巻き起こる強い風!
竜巻のように回転しながら言葉が飛び出てくる。淡い色をした言葉たち。元の場所に還りたい言葉たち。
——不意に。
目が合ったような気がした。目なんてないのに。言葉と。どうしてかは分からない。分からないけれど、気がついたときにはホクトさんの大声が響いていた。
「マーナさんっ! 避けてくださいっ!」
【さびしい】
ぶつかってきたのは、【さびしい】という言葉だった。衝撃が全身に伝わって、そのまま意識がブラックアウトする——
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