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「恋人はマネージャー説、です」
事務所に戻ると、湊さんはいきなり座っている瀬谷さんの肩に手を置いた。
瀬谷さんが無言で見上げる。したり顔で湊さんは己の推理を述べた。
「アオイちゃんが街でばったりマネージャーと歌姫と会ったときの、あの微妙な違和感。あれは三角関係に違いない」
湊さんがマネージャーさんから貰った名刺を懐からすっと取り出す。
「ホクトさん、この男性について調べてもらえませんか」
なるほど、名刺というのはそういう使い方もあるのか。早速、瀬谷さんが端末に文字を入力し始める。
さらに探偵を気取っているつもりなのか、湊さんは眉をひそめて、顎に右手をやる。
「どう
そんなやり取りを入り口で眺めていたら、不思議そうに湊さんが首を傾げてきた。
「ん? そんなところに立ってないで中に入っておいでよ」
「あの。ほんとうに、そうなんでしょうか」
視線が一斉にこちらを向く。
インターン生の意見なんて適当にあしらわれるだろうと思ったのに、何故だかふたりの表情を見たら、ちゃんと話を聞いてくれるような気がした。
上手くまとまらないなりに言葉を探す。
「あたしにはちょっと違うような気がしてならないんです。それが何かと問われたら分からないんですが……」
「しかたないんじゃないかな。マーナちゃんは男女の機微に関してはひよっこだから」
すると瀬谷さんが湊さんを目で制した。あたしに向かってゆっくりと唇が動く。
なんとなく、どうしてと尋ねられている気がして、さらに言葉を探す。
歌姫と会ったときのことを思い出そうとする。
……そうだ、指輪だ。
「去り際の歌姫の指に、大きな宝石のついた指輪がありました。たぶんあれが歌姫のディクショナリウムだと思います。その宝石にひびが入っていたんです」
そのひびから、漏れる光が。
ネックレスの光と、少し、似ていたから……?
「あの、やっぱりあたし、もう一度アオイさんのところへ行ってきます」
確かめなきゃいけないと思ってしまった途端に、足が、体が動いていた。
*
マンションには迷わず辿り着くことができた。エントランスでインターホンを押すと、モニターからアオイさんの声がした。
『さっきはごめんなさい。ええと』
「青葉マーナです。あの、体調はよくなりましたか?」
『ありがとう。少し横になったら楽になったから、よかったら中へどうぞ』
「お言葉に甘えて、おじゃまします」
オートロックを解除してもらって中へ入る。
アトリエはまたひっちゃかめっちゃかになっていた。体調がよくなってからは仕事をしていたようだ。
抜き足でなんとか空いている床に辿り着いて正座する。
アオイさんの顔色はすっかり元に戻っていた。熱々で香りの濃い緑茶と、つやつや光る芋けんぴを出してくれる。
「わたしの実家でつくっているお菓子なんです。よかったら召し上がってください」
「ありがとうございます。いただきます」
硬いので噛む度にぽりぽりと音がする。あまり食べたことがなかったけれど、甘すぎなくて美味しい。それに濃いめの緑茶と合う。
「今日はごめんなさい。湊さんもきっと困っていましたよね」
「あの人はやけに女性の扱いに慣れているので、気にする必要はないと思います」
アオイさんが口元に手を当ててくすくすと笑った。
「ところで、マーナちゃんのインターンは何日間なんですか?」
「2週間です。今日で3日目です」
「今日で3日目? すごいなぁ。しっかりしてますね」
「あたしは早く大人になりたいんです」
お茶の水面に自分の顔が映る。17歳は、まだまだ子どもだ。
「そしてあたしをばかにした奴らを見返してやりたいんです」
「大人になりたい、かぁ」
アオイさんが苦笑いを浮かべる。
「わたしだってまだまだ子どもですよ」
「そんなことないです。仕事もしてるしアオイさんは立派な大人です」
お茶を飲み終えてからはちょっとだけ片付けを手伝うことにした。
床に散らばったボタンを拾い集める。色や大きさは様々だけどラメが入っていたり透明だったりして、きらきらと光を反射するものばかりだ。
「どんな衣装をデザインしているんですか?」
興味が湧いてきて尋ねると、アオイさんは嬉々として10枚ほどのデザインを見せてくれた。カラフルなシャボン玉。虹の架かった未来都市。夜のメリーゴーランド。咲き誇ったバラ園。……。1着ずつ隠れテーマがあるのだという。どれも派手でアオイさんの見た目とは真逆のものばかり。出会って間もないけれどいちばん楽しそうに説明してくれる。
「次はルリハさんの20歳記念コンサートだから、とびきり似合うものをデザインしたいの。美しいだけではなく、人々の記憶に一生残るようなものを」
「あんな態度の悪い表裏のある子のどこがそんなにいいんですか」
「さっきの一瞬だけだとそう見えちゃうかもしれませんね。誤解されやすい子だけど、芸能界のなかで必死にがんばっているからどうしてもきつくなっちゃうところがあるんです。普段はもっと素直で喜怒哀楽もきちんと表現できるいい子なの」
アオイさんはあたしの無礼な発言に怒りもせず笑う。本心から言っているようだった。
だとしたらどうしてさっきはあんなに萎縮してしまっていたんだろう。やっぱり、マネージャーさんも絡んでくる問題なんだろうか。
「ボタンは集まったから次はレースをお願いします」
「はい、分かりました」
積みあげられた大判のレースを1枚ずつ丁寧に広げていく。やわらかなもの、かたいもの、細いもの、幅広のもの。どれも繊細な模様が編まれていて見ているだけでも楽しくなってくる。
すると、明らかに違う何かに指先が触れた。紙のようなものが埋もれている。
……写真だ。
「えっ」
表に返すと思わず大声が出てしまった。
離れていた場所にいるアオイさんと視線が合う。あたしは恐る恐る写真を掲げてみせた。どうしてなのか、さっぱり理解できなかった。
データで保存できてしまうのに、わざわざ現像をするということはそれなりの理由があるのだ。
「これ……」
近づいてきて写真を受け取ってくれたアオイさんの唇が震える。
「どうしてなんですか」
アオイさんは両手で写真を持ったまま、唇を噛む。瞳を閉じて、写真を額に当てた。
写っていたのはアオイさんと――歌姫ルリハだった。
明るい部屋で、頬を寄せて口を開けてふたりとも笑っている。歌姫の右手には、チョコレートアイスクリームのガラスの器。おそらく彼女の左手で自撮りされた1枚。
ネックレスも指輪もきらきらと輝いている。
湊さんの推理は的外れだった。
アオイさんの恋人は、——。
「アオイさん」
立ちあがって、アオイさんに視線を合わせる。泣いてはいなかったものの、瞳が潤んでいた。
「歌姫のところへ行ってみましょう!」
*
アオイさんと向かったのは駅前の大通りにある縦長のビル。駅前へ行く度にガラス張りで目立つと思っていたら、歌姫の所属する芸能事務所だという。受付でアオイさんが弱々しく名乗り、歌姫との面会手続きを取る。
ちょうど歌姫はレッスンルームで自主練習をしているらしい。
アオイさんと一緒にエレベーターに乗り込む。
「大丈夫ですよ」
真っ青な顔をして震えているアオイさんに声をかけると、小さく頷いてくれた。しっかりしていると言ってもらえたからには、あたしがアオイさんを助けなきゃいけない。
地下2階に着くと、細い廊下を通って明かりのついている部屋へ向かう。
第1レッスンルームと表示された扉。その小窓から歌姫がいることを確認したアオイさんは、ドアノブに手をかけたまま固まる。じっと、室内を、凝視する。
「どうしたんですか?」
不思議に思ってアオイさんの後ろから覗く。
「わぁ……!」
思わず感嘆が口から漏れた。
——踊っていた、歌姫ルリハが。
手足は寸分の迷いなくぴんと爪先まで伸びる。
それから静かでやわらかなステップ。くるりと大きく一回転。
見たことがないから自信はないけれどバレエだろうか。
優雅に躍動する姿は、鳥のように力強く蝶のように繊細だった。表情も柔らかく、まさに女神のよう。
練習着だしウィッグもつけていないけれど、思わず見とれてしまうには充分すぎた。目を逸らせない迫力があった。
「歌姫って、すごいんですね」
ちらりとアオイさんを見遣ると、頬を涙が伝っていた。あたしの言葉は耳にさえ届いていないようだった。
やがて舞い終わった歌姫は外にいるあたしたちに気づいて、内側から扉を開けてくれる。
「早く入ってきてちょうだい。わたしは忙しいの」
タオルで汗を拭きながらこちらを見ようともしない。一瞬前までとは打って変わって冷たい口調と視線。
まるで別人だ。拍手を送ろうと思った両手を引っ込める。
「急遽デザイン画を見てほしいって、どういうこと?」
俯くアオイさんに代わって、写真を歌姫に突きつけた。
「一体、これはどういうことですか」
歌姫ルリハは写真を受け取ると、意味を理解したようで眉を顰めた。
あたしは探偵のように歌姫を指差して断言する。
「アオイさんから『愛』を奪ったのは、歌姫ルリハ。あなたですね!」
「……そうよ」
鼻で笑い、歌姫が肯定する。
「見ての通り、わたしたちは恋人のような関係だった。だった、よ。過去形」
写真を伏せて壁際のテーブルにそっと置く。
「マネージャーに言われたの。もっと売れる為にはスキャンダルの種になるようなものはすべて手放しなさい、って。わたしはより多くの人々に歌を届けたいから、それを受け入れた」
「だから別れ話を切り出したんですか?」
「そう思ってもらってかまわないわ、探偵さん。アオイがどうして記憶を失ったかのかは知らないし知りたくもないけれど、気づかないでいてくれた方がよかったのに」
アオイさんがどんな気持ちでいるか知りもせずに、ひどい言い方だった。
反論しようとすると、それまでずっと黙っていたアオイさんはすっと立ちあがって鞄のなかからたくさんのデザイン画を取り出した。
びりびりっ。びりびりびりっ。
ばさっ!
すべてのデザイン画は勢いよく破られて、紙の欠片が部屋に舞う。
アオイさんが甲高い笑い声をあげる。
「あははっ、ははっ、あはははは!」
こんな風に人間は笑えるのか、と思えるような表情で、笑っていた。
あたしと歌姫は呆然としてアオイさんを見つめていた。歌姫ですら、驚いた表情のまま、アオイさんの行動を制止できずにいた。
何十枚、何百枚と破られていくデザイン画。その度に紙の欠片は羽根のように室内に舞い散る。
——やがて破り終えると、アオイさんは鞄のなかから、最後の1枚を取り出した。
「幸せになってね」
アオイさんはそれを歌姫に押しつけてレッスンルームから走り去る。受け取った歌姫は自分からふっかけた筈なのに顔面が真っ青になっていた。
ちらりとデザイン画を横目で見る。それはまるで純黒のウェディングドレスだった。
「アオイさん! 待ってください!」
あたしもアオイさんの置いていった鞄を取ると、部屋から飛び出る。
ビルの外でアオイさんは雲ひとつない空を見上げていた。
「ぜんぜん、思い出せない。思い出せないのに苦しくて、胸が張り裂けそう」
袖で瞼をこする。
「悔しいなぁ。きっと、大好きだったんだ」
あたしに背を向けたまま言う。
「ありがとう、マーナちゃん。連れてきてくれて。最後に話ができてよかった」
泣いている筈なのに、どうしてお礼なんて口にできるんだろう。
……ようやく思い至る。
もしかして、これは間違った選択だったんじゃないんだろうか、と。
*
湊さんが苦笑いを浮かべる。
「ちょっと、早まっちゃったね」
言祝ぎ言語修復事務所へ戻ると、瀬谷さんと湊さんへ起きたことを報告した。
一通りあたしの話を聞き終えての感想は、湊さんの苦笑い。
……怒られる。
急速に冷えていく指先。拳をぎゅっと握りしめる。幼い頃から慣れているから平気。しかも理不尽な理由ではなくて今回は怒られて然るべき内容だ。
ところが、怒鳴られる覚悟をして瞳を瞑ったものの、頭に降ってきたのは大きくて温かい掌だった。
「……瀬谷さん……」
掌の主は、瀬谷さんだった。
「……言語修復士とは、依頼人の人生へ積極的にかかわる職業です。ひとたび選択肢を誤ると、取り返しのつかない状況に陥る場合もあります」
「はい」
「なにかを決めるときは、自分の為の選択であってはいけません。依頼人の為のものです」
「……はい」
急に恥ずかしくなってくる。
すべて見透かされているようで心臓がきゅっと縮こまるようだった。
怒鳴られるよりも辛いことがあるなんて初めて知った。
「まぁ、だから間違ったかなって思っちゃったら、できるだけ修正をして最善に近づけなきゃね」
後ろからぽんと両肩に手を置かれる。
いつの間にか湊さんの手に写真が渡っていた。
「答え合わせをしよう。おいで」
ふたりが工房へ向かう。
あたしも恐る恐るついていくと、アオイさんのネックレスが中央の丸いテーブルに置かれていた。
「『ホクトが問う。ニムロドの加護のもと、正しき言葉をもたらさん為に要する言葉を』」
ピアスが光る。ぶわぁっ、と工房のなかいっぱいに言葉が飛び出す。そこまでは見慣れた光景だった。
迷うことなく、瀬谷さんと湊さんは弱々しく点滅する【愛】に近づいて写真を触れさせた。
『どうしてそんなこと言うの!』
突然、この場にいない人間の声が部屋に反響する。
『大丈夫だから。わたしたちは、大丈夫だから。さよならなんて、言わないで』
この声を聴いたことはある。これが誰だか、あたしは知っている。
『わたしにはあなたが必要なの。お願いだから考え直して』
声はずっと訴え続けている。
「そういう、ことだったんですか」
あたしは唇を噛んだ。目の前にはアオイさんと歌姫の幻が浮かんでいる。
『アオイ。お願いだから、さよならなんて言わないで……』
「思い出せない理由は、アオイさん自身のなかにあったんだ」
湊さんが呟く。
『だめよ、ルリハさん。恋愛なんて歌姫にとってはスキャンダル以外の何物でもないのに、ましてやそれが女性同士だなんて。わたしたちにはあなたの歌をもっと多くの人々に届ける為にこの選択肢しかないの。20歳記念コンサートは、必ず成功させなきゃ』
『嘘。マネージャーに言われたんでしょう? 別れないとアオイや、アオイに関わるひとたちの人生をめちゃくちゃにしてやるって』
激昂するルリハと、落ち着いているアオイさん。だけどどちらの声も震えている。
「だから歌姫はきちんと答えなかったし、写真を破ることができなかったんだ」
湊さんがぽつりと呟く。
なんてやるせない話なんだろう。拳を握る。向ける先はどこにもない。悔しくて、自分自身の額に当てた。
『そんなことは、ないわ……』
『だったらわたしの目を見て話して。お願い』
幻は映像として起きたことを伝えると、すっと消滅した。部屋に溢れた言葉たちも消えてしまう。
瀬谷さんがあたしの隣に立つ。
「忘れなきゃ生きていけないくらいの強い想い。強さ故に、忘れてしまっても、思い出そうとしてしまったのでしょう。これが、今回の真実です」
それがどれだけのことなのか、誰かを好きになったことのないあたしにとっては、想像することすら……できないのだった。
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