皐月12日

5


記入者:青葉マーナ


 所員の方に同行して、依頼人のディクショナリウムの特殊欠損について原因を究明させていただくことになりました。やはり特級言語修復士の所属する言語修復事務所には通常では想定されない依頼があるので、実際の業務を見学できるのは勉強になります。



「おはようございます」


 ノックして事務所の扉を開ける。


「おはよう、マーナちゃん。今日もがんばろうかー」


 湊さんが背筋を伸ばしながら大きなあくびをした。その向かいでは瀬谷さんが黙々と調べ物をしている。

 言祝ぎ姫はやはり眠ったままだ。この光景にも慣れてきた。


「どっちにするか決めた?」

「はい。依頼人との行動、でお願いします」

「そうだと思ってた! じゃあ半日、宜しくね」


 湊さんと半日……。

 薄々分かってはいたけれど、別の意味できつそうだ。


「アオイさんとは駅近くで待ち合わせをしているから早速向かおうか。とりあえず成果があってもなくても、ここに戻ってきて報告会」


 はい、と頷く。

 湊さんが黒衣を脱いで壁のハンガーにかける。今日は青い大きなチェック柄のシャツを着ている。チノパンとスニーカーは、白い。

 瀬谷さんがこっちを見て、軽く手を挙げた。いってらっしゃいと唇が動いたような気がする。


「いってきます!」


 見上げると空は雲ひとつない快晴。空気も澄んでいて心地いい。

 遠くには、巨大な剣が見える。

 あれはあたしの『ニムロド』だ。何に見えるかは、ひとによって異なるらしい。大樹とか塔というのが一般的らしいけれど、物心ついたときからあたしにとっては大地に刺さった巨大な剣だった。どうやら奇妙なことらしく、施設でもそれを理由に気味悪がられていたものだ。

 そして、ニムロドから創造されるのが『ディクショナリウム』なのだという。どのように創られるのか、どのように受け取るのかは、言語修復士にすら分からないという。

 このふたつは、世界の大いなる秘密なのである。


 大きなスクランブル交差点に差しかかったところだった。

 湊さんがあくびばかりするのでつい訊いてしまった。


「夜更かしでもしたんですか?」


 きょとん、とこちらを見てくる。


「お? 僕のことに興味が出てきたのかな? うれしい傾向だね」

「違います。依頼人の前でもあくびばかりしていたらよくないんじゃないかと思っただけです」

「ちぇっ。マーナちゃんはツンデレだなぁ。あっ、あれが歌姫だよ」


 湊さんが道路の向こうにある駅舎脇にある何かを指差した。

 それは待ち合わせに使われていそうな背の高い時計だった。時計の文字盤の下には柱が存在せず、この前、湊さんが見せてくれたよりも大きい、ほぼ等身大と思われる瑠璃色の女性のホログラムが映し出されて歌を歌っている。

 遠目ではよく見えないけれど、言われてみれば目にしたことはあるかもしれない。歌も、聞いたことのあるような気がした。……興味がなくて認識の対象外だっただけで。


「アオイさんが歌姫の衣装デザイナーっていうのも、ひとは見かけによらないって感じだなぁ」


 わりと失礼なことをのたまいながら、湊さんは歌姫とやらからサインを貰えるのか楽しそうにしている。


「マーナちゃんにはいないの? このひとのファンなんです、っていう芸能人が」

「そういうの、興味ないので」

「うーん。じゃあ、質問を変えよう。憧れのひとはいないの?」

「憧れのひと……?」


 憧れ、と口に出すと、真っ先に想うのは月の王だ。他のどんな記憶が曖昧になっていっても、子どもの頃の一度きりのあの出逢いは今でも鮮明に思い出せる。


「それは『いる』反応だね! 好きな子?」


 ——好き?


「そ、そんなんじゃありませんっ! やめてくださいっ!」


 思わず声を荒げてしまった。湊さんのペースに乗せられるとどうも調子が狂ってしまう。


「おっ。アオイさーん!」


 そしてあたしの抗議など気にもしない湊さんは、土ヶ谷さんを見つけたようで大きく右腕を振った。

 交差点を渡り終わり、歌姫時計の下に立っているアオイさんの元へ軽やかに歩いて行く。


「おはようございます。お忙しいところお時間を頂いてしまいすみません。インターン生も同行しますがご理解のほど宜しくお願いします」

「こちらこそお願いします。わたしなんかの為に時間を割いていただきありがとうございます」


 土ヶ谷さんが何度も頭を下げる。

 今日は緑色の地のドット柄ワンピースを着ていた。

 歌姫の繊細な衣装からかけ離れているセンスに、ほんとうにデザイナーなのか首を傾げてしまうのはなんとなく理解できた。

 そんな土ヶ谷さんが目の前のビルの1階、カフェの入り口を指差す。


「席は予約してあるので、早速入りましょうか」


 店内は落ち着いたダークブラウン調で、大きな木が真ん中に生えていた。天井や柱を伝って隅々まで降りてきている枝や葉を見る限り、本物ではない。その木を中心に鳥の置物がまるで羽を休めているかのように飾られている。

 会話を妨げない程度に流れるジャズ。席は見るからにおしゃれなひとたちで埋まっていて、駅前だからというのもあるだろうけど人気店のようで、美味しそうな香りが充満している。こんなお店に入ったことがないので、なんだか落ち着かなくてきょろきょろと見回してしまう。

 湊さん曰く、このカフェでランチをするのは意味があるのだという。

 ディクショナリウムが——【愛】がちぎれた原因を探る為に、彼女の普段の生活を見させてもらって、調査するのだ。


「自然に囲まれているような雰囲気が、離れた故郷みたいで落ち着くんですよね」


 4人席で、ふたり掛けのソファーに座る。向かいに座った土ヶ谷さんがメニュー表をこちらに向けてくれた。

 どれも魅力的だったけれどあたしはそぼろ丼セットを、湊さんは二十品目のサラダプレートを注文する。

 まずはここで土ヶ谷さんにインタビューを行う。

 本質的な欠損。記憶は、どうして失われたのか、ということを探る為だ。

 先にドリンクが運ばれてきた。オレンジジュースのグラスの縁にオレンジスライスが刺さっている。一口飲んでから、あらかじめ指示されていたことを土ヶ谷さんに尋ねた。


「土ヶ谷さんは、どちらのご出身なんですか?」

「アオイ、って呼んでくださっていいですよ」


 言葉を選ぶようにして、アオイさんが話してくれた。


「あまり苗字で呼ばれるのに慣れてないんです。えっと、生まれは南の方です。首都よりもずっと暖かい場所です」

「南ですか。方言が出ないのでわかりませんでした。アオイさんがデザイナーになったきっかけは?」


 横から湊さんが質問を重ねる。


「子どもの頃から絵を描くのが好きで、大人になったらそういう関係の職業に就きたいと考えていました。残念なことに故郷には環境が整っていないので、上京してきて専門学校に通いました。在学中にいただいた賞のおかげで今の会社に誘ってもらえて今に至ります」


 湊さんが口笛を吹く。


「そうだったんですか。すごいですね!」

「いえ、運がよかっただけなんです。いろんなことに恵まれていて、ほんとうにありがたいことだと思っています」


 アオイさんは膝の上で握られていた両手を広げて左右に振る。


「歌姫は普段はどんな感じなんですか?」

「いたって普通の女の子です。まだ19歳ですから、年相応の幼さはありますね。ただご存知の通り、ひとたび歌を歌いだすと、まるで女神のようになるんです」


 女神、の部分を強調する。自分については謙虚なのに、歌姫のすばらしさとやらを説明するのはやたらと積極的だ。よほど入れ込んでいるのだろう。

 湊さんもうんうん頷いている。


「歌姫の衣装をデザインすることになったきっかけはどんなものだったんですか?」

「最初はコンペでした。一度は他の有名なデザイナーさんに決まっていたそうなのですが、歌姫の鶴の一声でわたしになったんだそうです。そこから気に入ってくれているみたいで、ここ2、3年くらいはずっと描かせていただいています。今も描いているんですが、なかなかOKをもらえなくて」

「もしかして20歳記念コンサートの?」

「あっ、そうです」

「うわー。チケット、当たらなかったんですよね。見たかったなぁ! そうか、アオイさんは陰の功労者なんですね!」


 両手で頭を抱えたり、身をぐっと乗り出したり、湊さんの反応はいちいち大げさだ。


「いえ……。わたしなんて、そんな……」


 アオイさんが縮こまる。やっぱり自らのことに関しては腰の低いひとだ。

 ランチが運ばれてきて質問は一旦中止。

 しかしオーバーリアクションだとは思うものの会話が続いたのは湊さんのおかげだ。口から先に産まれてきたっていうのは湊さんみたいなひとのことを表すのだろうか。食べながらも、歌姫の曲について熱くアオイさんへ語っている。


「はー。食べた食べた!」


 外に出て、湊さんが大きく背伸びをする。

 ご飯はどれもほんとうに美味しかった。頷こうとしたとき、突然、道を塞ぐようにあたしたちの前にひとりの人間が飛び出してきた。

 つばの大きなキャップを被った細身の少年。着ているのはグレーのトレーナーとだぼっとしたズボン。大きなサングラスとマスクをしていて顔は分からない。後ろには黒いスーツ姿の男性が影のように立っている。

 明らかに不審者だ。すばやく湊さんがあたしたちの前に立つ。あたしも何もできないなりに身構えた。アオイさんの身に何かあってはいけない。

 しかし、アオイさんは疑う様子もなく少年に話しかけた。


「ルリハさん、どうしたんですか。それにマネージャーさんまで」

「えっ」


 驚いた顔をして湊さんがこちらへ振り返る。

 と同時に、不審者が帽子とサングラスを取ると顔の整った少女が正体を現した。その仕草で薔薇のように少し甘くて高貴な香りが辺りに振りまかれる。


「歌姫……!」


 湊さんもあたしも驚くしかなかった。

 目の前にいたのは不審な少年なんかじゃなくて、立体映像で見た美少女だった。顔は小さいし肌は陶器のように白くて滑らかで映像よりもきれいだ。ただ、長い睫毛の下の瞳は瑠璃色でも、髪の毛は黒くて短い。歌っているときはウィッグでも被っているのだろうか。


「どうしたんですか、じゃないわ」


 両腕を組んで仁王立ち。不機嫌を音に載せたような言葉。


「納期が迫っているのにオトコとランチなんかできる、おめでたい頭をしているのねって言いに来たの」


 さっきまでの穏やかな雰囲気から一転して、空気が凍るようだった。

 ……直感で、思った。嫌な奴だ。仲良くなれないタイプだ。

 微妙な距離感を保ちつつ、無表情のままマネージャーさんが口を開く。


「最高のステージの為に妥協は一切許されない。そういう『契約』だったのをお忘れですか。作品が完成しなければ、あなたには何の価値もないのですよ。土ヶ谷さん」


 口調こそ穏やかなものの、反論を認めない強さがあった。

 アオイさんの瞳に動揺が浮かぶ。俯いて黙ってしまう。

 すると湊さんが懐から1枚の名刺を取り出して歌姫に差し出した。


「すみません。わたくしはこういう者です。土ヶ谷アオイさんについては、ご本人から依頼を受けて調査をしている最中なんです」


 歌姫から名刺を受け取ると、マネージャーさんが湊さんを訝しげに確認する。


「あの言祝ぎ言語修復事務所の方とは。大変失礼しました」


 そしてマネージャーさんも名刺を差し出した。

 大人が名刺交換するのを初めて見た。マネージャーさんの口調から、言祝ぎ言語修復事務所というのは一般的にも有名なのだということを改めて知る。


「しかし調査というものが何かは存じませんが、こちらにはこちらの事情があります。あまり連れ回さないようにしていただきたい」

「はい、すみません。気をつけます」


 一方で歌姫はアオイさんを睨みつけて、不機嫌さを隠そうともしない。


「言語修復事務所? どういうこと?」

「あの、ディクショナリウムが、壊れちゃいまして……」


 まるで凶器のように鋭くて冷たい視線だ。アオイさんは完全に萎縮してしまっている。

 少しの間があって、歌姫はアオイさんから視線を逸らした。


「ふぅん。早く『直す』のね」


 行くわよ、と歌姫はマネージャーに声をかけて踵を返す。

 そのときだった。微かな違和感を覚えて、あたしは歌姫の右手を見た。

 薬指にリングが光っている。ひときわ強い透明な輝きを放つのは大粒の宝石。

 模擬を見たばかりだったので気づいてしまった。あれは歌姫のディクショナリウムだ。

 そして、指輪だからというだけじゃないこの既視感は、何?


「ひび割れて……いる……?」



 少し沈んだままのアオイさんに案内されて、あたしたちはアオイさんの職場兼自宅へと足を踏み入れた。


「お邪魔します」

「へぇ、ここがアオイちゃんの仕事場かぁ!」


 湊さんのアオイさんの呼び方が、いつの間にかちゃん付けに変わっている。

 木々に囲まれたデザイナーズマンションの2階の角部屋。南向きの部屋で日当たり良好。第一印象は、オフィスというよりアトリエだ。

 壁際では何体ものマネキンが鮮やかで豪奢な衣装を着せられていた。反対の壁面にはたくさんの賞状と衣装のイラストが貼られている。世の中の多くはデータで済ませられるので、こんなに大量の紙を見たことがない分、かえって新鮮だ。


「待ってくださいね。今、お茶を用意します。えーと」


 アオイさんの動きが止まる。何を見ているのか視線の先を確認して気づいた。

 たくさんのデザイン画が床を埋めるように散らばっている。布やリボンやボタンや糸も無造作に積まれたり広がったりしている。とにかく足の踏み場がない。

 さらに奥にあるキッチンのようなスペースにも物が山積みだ。

 待つ場所もなければお茶を入れられそうな気配もなかった。


「うーん。これは先に片づけ、かな?」


 湊さんが笑う。

 アオイさんは縮こまって、すみません、と呟いた。

 とりあえずデザイン画などは重要度がわからないので、あたしたちは忍び足で辿り着いたキッチンを片づけることにした。

 片づけながら、湊さんがアオイさんを振り返らずに言った。


「もしかしてアオイちゃんの恋人ってあの無表情マネージャーだったんじゃない?」


 振り返ってしまって、大きく目を見開いたアオイさんと視線が合う。


「あくまでも推測だし仮説なんだけど。マネージャーと話してるときの、歌姫とアオイちゃんの間の空気はとてもビジネスパートナーとは思えなかった。だからたとえばマネージャーを巡る三角関係。なんちゃって」


 アオイさんの手が止まり、視線が床に落ちる。小刻みに震えているのが分かった。


「女の嫉妬っていうのはこわいからね」

「まるで身に覚えがあるような言い方をしますね」

「身に覚えがあるからだよ」

「……それは自身にも原因があるのでは」

「うぐっ。それは否定できない」


 会話が進んでいる間にどさっという物音。ふたりで振り返るとアオイさんが倒れていた。慌てて駆け寄ると顔色は真っ青になって呼吸も荒い。


「アオイさん、大丈夫ですかっ」

「どいて、マーナちゃん」


 湊さんはアオイさんをそっと抱えると自分の膝に乗せた。それから膝枕のまま横向きに寝かせて、優しく背中をさする。


「ゆっくり、息を、吐いて、吸って。そう。大丈夫、大丈夫」


 おろおろして何もできないでいると湊さんはあたしを見上げた。ちっともへらへらしていなかった。


「過呼吸だね。少ししたら落ち着くだろうから、回復したら僕らは帰ろうか。今日の調査は中止だ」

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