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扉が閉まるのを確認するや否や、湊さんが
「すごっ! ディクショナリウムの模倣なんて初めて見た!」
ぼそぼそと瀬谷さんが答える。さっきまでの声量は来客用のようだ。
「え? 所長がやったのを見たことがある? マジか……」
いい加減そうに見える湊さんでも、瀬谷さんや言祝ぎ姫のことはきちんと敬っているようだ。
「かなり希少なケースだから、場合によっては学会への報告対象となるかもしれないですね」
瀬谷さんが
確かに、ここまではっきりと壊れているのに正常に機能しているなんて話は、見たことも聞いたこともない。
「問題はどうしてこれが内部損傷ではなく、ただちぎれただけなのか、ってことだよな」
背もたれに体重をかけたまま湊さんが唸る。
ぼそぼそと瀬谷さんが呟いた。すると湊さんは天井を見上げて両手で顔を覆った後、勢いよく両腕を伸ばした。
「よっしゃー、やるか!」
ふたりが立ちあがる。
状況を飲み込めずにいると、瀬谷さんと湊さんは当たり前のようにあたしの方へ顔を向けてきた。
「何ぼーっとしてんの。マーナちゃんも参加するんだよ」
「……え?」
言祝ぎ姫は、眠っているままだ。
瀬谷さんと湊さんは黒衣をきちんと着直してから工房へ入った。
湊さんが部屋の隅にしゃがんで、お香に火をつける。立ち昇る細い煙。森のような香りが一層濃くなる。
再びハイテーブルに置かれたネックレスは、ダウンライトの照明を浴びてちかちかと光を反射する。
黒衣を羽織りながら尋ねる。
「あの、説明してもらわないと、何がなんだかさっぱり」
「うん? マーナちゃんはホクトさんの声を聞き取る修業をしなくちゃいけないな」
どんな修業ですか、とつっこみたくなるのをぐっと堪える。
湊さんが右手の人差し指を左右に振った。
「今から蓄積された無数の言葉たちをひとつずつ調査して、何が綻びの原因となったのか調査するんだよ」
「調査?」
「どうしてディクショナリウムに関する作業は定められた工房で行わなければならないか。それは、ここが一種の封印された空間であるからだ。たとえば模擬ディクショナリウムなんかは、制限時間を過ぎたら言葉が再び飛び出てしまうだろう? 普通の人間でそんなことが起きたら大変だ。もし言葉がどこかへ行ってしまったら、そのひとの記憶からそれにまつわるものがすこーんと抜け落ちてしまう」
突然真面目に語り出した湊さんにびっくりしてしまう。
「その原理を利用して工房のなかで何が問題なのか調べるんだ。頭数は、多い方がいいだろう?」
だけど、話のスケールが大きくてついていけない。
「そんなことできるんですか」
「できるかどうかじゃなくて、やるんだよ。僕たちは言語修復士だから」
隣で瀬谷さんが大きく頷いた。
そしてさっきのように、ピアスをなぞった掌を、ネックレスに翳す。
「『ホクトが命ずる。ニムロドの加護のもと、言葉の共有と復活たらんことを』」
ぶわぁっ……!
次の瞬間、工房のなかを文字の洪水が埋め尽くした。
ふたりはそのひとつひとつを丁寧に『点検』し始めた。立ったまま見上げてなぞる。しゃがんで前屈みになってなぞる。勢いよく逃げていく文字を追いかけて、捕まえる。
「えっ、あ、ちょっと」
あたしは見よう見まねで目の前に浮かぶ文字をなぞった。
【チョコレート】
甘ったるかったり、すっごくほろにがかったりする、お菓子。
施設でも時々おやつの時間に出されていた。そのくせ虫歯になるから食べたらちゃんと歯を磨きなさいと言われるのが鬱陶しくて、今はあまり食べていない。
土ヶ谷さんにとってはどんな意味があるのだろうか?
文字を人差し指と親指で捕まえたまま、あたしは瞳を閉じる。
「あまり好きじゃ、ない? のかな?」
そういえば土ヶ谷さん自身もそう言っていたような気がする。
そしてはっきりと確信はできないけれど、この文字が壊れているような感じはしない。欠けている文字だとあたしの持つイメージを受け取って、照らし合わせることで元のイメージを修復してくれるから。
そんな風にふたりよりスピードは圧倒的に劣るもののひとつずつ文字を追っていくことにする。
【カフェ】、【絵本】、【散歩】、……。
とにかく集中力の必要な作業だ。全員、黙々と取り組む。
しばらくすると大声をあげて場の緊張を乱したのは、湊さんだった。
「あーっ! わかんねぇ!」
あぐらをかいたまま勢いよく床に倒れる。
「昼飯にしようぜ。いったん休憩しないと、酸欠になっちまう」
ぐうぅ。
すると事もあろうに反応したのはあたしのお腹だった。
ふたりの視線が一斉にあたしに集中する。恥ずかしさで頬が熱くなる。
瀬谷さんが、仕方がないという風に頷いてくれた。
そんな気遣いはされたくなかったけれど、一度気づいてしまった空腹はどうしようもない。
3人でオフィススペースへ戻る。湊さんがどかっと面会用のソファーに座って、パウチされた出前表を差し出してきた。
「何でも好きなのを頼むといいよ」
「えっ」
「大丈夫、大丈夫。たかが1ヶ月くらい僕たちが出してあげるから」
「そういう訳にはいきません」
「いやいや、それがさ、調べてみたら他の事務所だと賄いが出たりするらしいんだよ。僕たちは料理なんてしないからこれくらいさせてちょうだいな。ホクトさん、僕はカツ丼の大盛りがいいな」
出前表には画像付きで美味しそうなご飯が並んでいた。
お腹がもう一度鳴る。しかも、さっきよりも大きな音で。
「……ハ、ハンバーグ載せオムライス、で、お願い、します……あっ、ご飯は小盛りで」
*
お弁当箱のふたを開けると、濃厚なお肉の香りがする湯気が昇ってきた。
「わぁ……」
とろとろのオムライスの上に、ハンバーグとデミグラスソースがかかっていて、脇にパセリが添えられている。とても美味しそうだ。
「いただきます」
手を合わせてからまずはハンバーグをひとくち頬張る。口のなかいっぱいにしっかりとお肉の旨みが広がった。次はデミグラスソースをたっぷりと掬ってその上にオムライスを載せられるだけ載せて口に運ぶ。ご飯もトマトケチャップ味になっている。
頭を使った分、美味しさが染み渡っていくようだ。
視線を感じてテーブルを挟んだ向かいのふたりを見ると、満足そうに微笑んでいた。
「何かおかしいですか」
「いやー、マーナちゃんもご飯を食べるときは17歳の女の子なんだなぁと思って」
「瀬谷さんも頷くのはやめてください」
あたしと向かい合って座っている瀬谷さんはチキンカレーと野菜サラダ、瀬谷さんの隣で、湊さんはカツ丼大盛りを頼んでいた。
「湊さんがもっと普段からきちんとしてくれていたら、あたしだっていらいらしません」
すると瀬谷さんがぶっと噴き出した。笑いをかみ殺しているようだ。
「ひどいなぁ。仕事のときはちゃんとやってるじゃないか」
「だからこそ余計にいらっとするんです」
湊さんが顎に左手をやって、何かを考え込むような仕草をする。……仕草だけかもしれないけれど。
「うーん、僕たちに必要なのは距離を縮めることだな! 湊さんってのは堅苦しいからやめよう。イノルと呼んでくれていいよ」
やっぱり仕草だけだった。
「無理です」
「即答はひどいなぁ」
湊さんの隣で、瀬谷さんはまだ笑っている。笑いのツボに入ったようだ。
「だってマーナちゃんと4歳しかかわらないからね? 実質、同い年じゃん」
「言っている意味がさっぱり理解できないんですけど」
和やかなのかどうか判らない歓談の後、紅茶を飲みながら瀬谷さんが聴き取れる音量の声を発してくれた。
「……人間には向き不向きがあって、指導力に長けている人間もいるけれど、自分たちは決してそちら側ではないと思います。そういう前提で耳を傾けてくれたらうれしいのですが、マーナさんは、工房でディクショナリウムと、言葉と、どういう風に向き合いましたか」
ふと見遣ると、湊さんも真剣に瀬谷さんの話を聞いていた。
「えっと、文字をひとつひとつ丁寧に調べなきゃと、思いました」
真面目な話が始まったような気がして背筋を伸ばす。
瀬谷さんの口元が僅かに緩む。小さく頷いて、言葉を続けてくれた。
「ディクショナリウムに蓄積されていくのは、とどのつまり、そのひとの人生の記録です。記録というより、喜怒哀楽と表現した方が近いでしょうか。その言葉に対して、喜んでいたのか、悲しんでいたのか。同じ言葉でも、ひとによって意味はまったく異なります。それを敢えて対照させて、修復していくのが、自分たちの仕事といえるでしょう」
「はい」
「先ほどマーナさんが真剣に作業をしているのを見ていましたが、大学校で首席だと伺っただけあって、自分が学生の頃よりも作業効率はいいと感じました。しかし、どこか事務的にも見えました」
唾を飲みこむ。事務的、と言われたのは初めてだった。
「自分が感じたことを話しますね。『文字』というのは記号の羅列にすぎません。我々が向き合うべきなのは、意味を持った『言葉』ではないでしょうか」
「文字、と、言葉……」
口に出して反芻する。
そうやって指摘されて初めて、ふたつの意味がまったく違うように感じてきた。
記憶を辿って言葉を照らし合わせていくとき、感情について考えたことがあっただろうか?
「午後からの作業で、それらを意識してみてください。きっと、何かが変わると思います」
*
作業再開。工房に入ると瀬谷さんも湊さんも真剣な表情で言葉を点検し始める。
あたしは大きく深呼吸して、全身から指先まで森のような香りを満たす。体はリラックスしているのに皮膚は敏感になって、集中力が研ぎ澄まされていくようだった。
それから、部屋いっぱいに広がる言葉を見渡す。文字じゃなくて、言葉。言葉だ。ひとつずつに意識を傾けていく。
——すると、次の瞬間、どこからともなく突風が吹いた。
「きゃっ!」
思わず床に腰をついてしまう。恐る恐る瞳を開けると、今までの工房内の景色が一変していた。
……全身に鳥肌が立つ。
今までは画一的だった言葉たちが、色や大きさもさまざまに変化して浮かんでいたのだ。これまであたしの見ていたものはなんだったのか。今、ふたりが見ている光景は、どんなものだというのか。
最初に点検した言葉を見つけて、ゆっくりと立ちあがる。そっと、触れる。
【チョコレート】
あまり好きじゃないという感情がある筈なのに、他の言葉より大きいし、淡いピンク色をしている。
その傍らに、小さいけれど同じ色をした言葉がもうひとつ。
【アイスクリーム】
紅色の細い光が、細い糸のようにふたつを結んでいた。
『キッチンに融けてしまって液体になったチョコレートアイスクリームが置いてあったからです』
土ヶ谷さんの発言を思い出す。
このふたつの言葉は、彼女にとって大事なもので、ふたつでひとつだったんだ。導かれるようにして言葉を追っていく。
【休日】
【カーテン】
【朝ごはん】
【ホットケーキ】
【洗濯】
【のんびり】
その先に、ある言葉は——
【愛】
「よく、辿り着きました」
ぽんっと頭を撫でてきたのは湊さんだった。
瀬谷さんと湊さんが立っている間に浮かんでいたひときわ大きな言葉は、【愛】。今にも消えそうなくらい弱々しく点滅している。
「……彼女のディクショナリウムをちぎったのは、彼女自身の【愛】だ」
腕を組んで、苦々しそうに湊さんが呟いた。
気づかれないように小さく拳を握りしめる。
また、【愛】か。あたしには、答えのない言葉。
「どうしますか?」
湊さんは瀬谷さんにお伺いを立てるように顔を向けた。瀬谷さんがぼそぼそと答えて、湊さんが頷く。そしてふたりはあたしを見た。
「予定変更。明日はお昼から、依頼人と共に実地調査班と事務所でのデータ調査班に分かれる。どっちがいいか、考えておいてね」
「えっ?」
刹那の神妙な面持ちは消え去って、飄々とした湊さんに戻っていた。
「マーナちゃんにとってはどっちが勉強になるかってことさ」
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