皐月11日

3

 記入者:青葉マーナ

 

 言祝ぎ言語修復事務所に1件の依頼がありました。

 内容は、他事務所では断られたというディクショナリウムの特殊欠損の修理依頼です。言語修復士の方が稀な案件に対してどのように取り組むのかを知ることができる、とてもいい機会となりそうです。



 言祝ぎ言語修復事務所の扉の前に立って深呼吸をすると、ノックしようとした瞬間に扉が引かれた。


「なんだ、マーナちゃんか。おはよう!」

みなと、さん、……おはようございます」


 扉を開けてくれたのは湊『さん』だった。


「ちゃんと来たんだね。偉い偉い」


 にこにこしながら頭を撫でてこようとしたので勢いよく手を振り払う。


「来るに決まってるじゃないですか」


 振り払われたことにちぇっ、と残念そうに口を尖らせてから、一方で何も気にしていない様子で湊さんが告げた。


「大ニュースだよ。数ヶ月ぶりにこの事務所へ依頼人がやってくる」


 どうやら待っていたのはあたしではなく依頼人らしい。


「マーナちゃんも同席可能だ。うれしいでしょう?」


 口をぽかんと開けて湊さんを見上げる。


「それは、もう、とっても」

「よしよし。じゃあ、中に入っておいで」


 所長席では言祝ことほぎ姫が眠っている。

 瀬谷せやさんはこちらを見ると唇だけが小さく動いた。たぶん、挨拶をしてくれたのだ。あたしはおはようございます、と声をしっかりと出す。


「言祝ぎ姫は、ずっとここで眠っているんですか」

「この上が住居になっているから僕たちが帰ったあとにはそっちに戻ってるみたいだけどね。出勤するとやっぱりここで寝てるから、真偽の程は分からないけれど」

「起きることはあるんですか?」

「年に数回。あっ、マーナちゃん、それで特級が務まるのかって思ってるでしょ」

「何で分かったんですか」


 嬉しそうに湊さんが笑う。


「さて、なんででしょう。……でもね、言祝ぎ姫は月の王と並んで特別だから」


 不意に月の王の名前を出されて心臓が跳ね上がる。


 こん、こん。


 小さくノック音がして、湊さんが軽やかに扉を開けた。


「はーい! 言祝ぎ言語修復事務所へ、ようこそお越しくださいました」

土ヶ谷つちがやアオイです。よろしく、お願いします」


 外に立っていたのは小柄な大人の女性。

 赤毛の天然パーマがくるくると可愛らしい。暗めの赤色に白で描かれた大きな水玉模様のワンピースも可愛い。

 赤い縁の丸眼鏡の下から、自信のなさそうな焦げ茶色の瞳がこちらを見ていた。

 湊さんは土ヶ谷さんの両手を取って、まるでナンパしているかのように言った。


「お伺いしております。中級言語修復士の湊イノルです。以後お見知りおきを」


 前言撤回。ナンパなんて見たことがないけれど、確実にナンパだ。


「お待ちしておりました。さぁさぁお入りください」

「し、失礼します」


 湊さんが土ヶ谷さんをソファへと案内する。瀬谷さんはいつの間にかキッチンで飲み物の用意をしていた。どうやら、そういう役割分担らしい。

 土ヶ谷さんは落ち着きのない様子で部屋のなかをきょろきょろと見渡している。

 ローテーブルを挟んで湊さんが腰かけた。

 瀬谷さんは土ヶ谷さん用の緑茶を置いてから、湊さんの隣に座る。あたしが所在なくしていると、湊さんがあたしの方に手を向けた。


「アオイさん。すみませんが現在インターン期間中でして、インターン生も同席いたしますがご了承ください」

「あっ、はい。大丈夫です」

「ありがとうございます。こちらはインターン生の青葉マーナさんです」


 つられてぺこりと頭を下げる。それでもあたしの居場所はないので、とりあえず瀬谷さんの横に立った。


「……上級言語修復士の瀬谷ホクトです。所長代理をしています。宜しくお願いします」

 初めて瀬谷さんの声をちゃんと耳にした。比べれば湊さんの方が低音だけど、思っていたよりは声が低い。少し乾いた、ちゃんと男のひとの声だ。


「土ヶ谷アオイです。あの、今日ここへお伺いしたのは、一応勤め先に専属の言語修復士さんもいるのですが、その方からここを紹介されまして、その」


 つまり、難しいというか面倒な案件ということだ。


「これはわたしのディクショナリウムです」


 そう言って取り出したのは、細いチェーンでできた華奢なネックレスだった。ひとつだけ、深いピンク色をした小さくて丸い石がついている。

 留め具とは違う箇所で見事にちぎれていた。


「3日前のことでした。朝、起きたときには既に壊れていました。そして隣で誰かの眠っていたような形跡があったのですが、それが誰なのかまったくわからないし、思い出そうとしても頭のなかに霞がかかったようになって、まったく思い出せないのです」


 アオイさんはちぎれた部分をそっと指先でなぞる。


「言語修復士さんからは、思い出させないようになっているのではと言われました。誰かがいたのは確かで、どうしてかと言うと、キッチンに融けてしまって液体になったチョコレートアイスクリームが置いてあったからです。わたしはチョコレートが苦手なので、買ったことがないんです」

「……失礼します」


 瀬谷さんがネックレスを丁寧に手に取った。

 ちぎれた部分に触れて繋げてみようとすると、静電気が起きたかのようにぱちっと音がした。

 湊さんは珍しいものを見たかのように軽く拍手をして口笛を吹いた。


「封印まではいかないけど、他人の思念が影響しているのは確かですね! しかし見たところ、ディクショナリウム自体の機能にはまったく異常がありません。たしかにこれは一般の言語修復士では難しいでしょう」


 そう言って、湊さんが楽しそうに瀬谷さんの両肩を後ろから掴んだ。


「しかしご安心ください! 当事務所には安心と実績の高レベルな言語修復士しかおりません。必ずや、アオイさんのディクショナリウムを『治し』て、記憶も元に戻してさしあげましょう!」


 ……その軽薄そうな雰囲気はなんとかならないものだろうか。

 なんとかならないから鼻につくのかもしれないけれど。


「……ところでアオイさん、お仕事は何をされていらっしゃるんですか?」

「あ。すみません、わたしはファッションデザイナーをしています。歌姫・都筑ルリハはご存知でしょうか? 彼女の専属舞台衣装を務めて3年になります」

「えええええ!」


 素っ頓狂な声を上げたのは湊さんだけだった。


「って、ホクトさんはともかく、どうしてマーナちゃんも驚かないの」


「音楽には興味がないので。で、誰ですか」

「今をときめく人気歌手だよ! 彼女の歌を聴くだけで脳が蕩けそうになるんだ。だから、さながら天使の歌声って称されているんだ」


 すると隣で瀬谷さんが頷いた。反応が薄いだけで瀬谷さんも驚いているようだ。

 それでもぴんときていないあたしに向かって、湊さんは自身の腕時計型端末を立ち上げた。

 ローテーブルの中央に浮かび上がったのは高さ30cmほどの女性の立体映像。薄水色のロングドレスを着ていて、髪の毛にはきらきらと天の川のように宝石が瞬いている。


 Let’s meet at meteor shower night.

 Everyone blesses our love.


「もうすぐ20歳なんだけど、瑠璃色の髪と瞳がまるで女神さまみたいなルックスなんだよねぇ。それもあって歌姫って呼ばれているんだ」


 なるほど。とてもきれいな歌声だというのは、あたしにも分かる。


「まさか歌姫とお近づきになれる機会が来るなんて! あのっ、サインは貰えたりしますか」

「ど、どうでしょう。それは訊いてみないと分からないですが」

「では、今回の案件、喜んでお引き受けしましょう!」


 湊さんは土ヶ谷さんが軽く引くほどのミーハーっぷりを発揮している。

 一方で、冷静なのは瀬谷さんだ。


「……こちらのディクショナリウムを一旦お預かりしてきちんと調べさせていただきたいのですが、構いませんでしょうか」


 土ヶ谷さんが戸惑いの表情を見せる。

 当然だ。ディクショナリウムは、常に身につけておかなければならない。それが難しくても目に見える範囲に置いておかないといけないのだ。


「勿論、代わりのディクショナリウムはご用意いたしますのでご安心ください」


 命と同じくらい大事な物だ。土ヶ谷さんが安堵の溜息をつく。

 でも、代わりとはどういうことなんだろうか。


「少しお待ちください」


 頭を下げると、瀬谷さんが立ちあがって工房へ向かう。

 慌てて追いかける。上級言語修復士の仕事現場を見る貴重なチャンスを逃すわけにはいかない。

 きょとん、と瀬谷さんがとぼけた表情になる。


「あのっ、見させていただいても、いいですか」


 するとあたしがインターン中であることを思い出したようで、小さく頷いてくれた。

 工房に入ると、瀬谷さんはハイテーブルにネックレスを置いた。

 それから右側の髪の毛を耳にかける。耳にはいろんな箇所にピアスがあったが、耳たぶにはひときわシンプルな透明な石が燦めいていた。

 ディクショナリウムなのは明らかで、あたしは息を呑む。

 瀬谷さんが、滑らかな手つきで右手の指をすべてピアスに触れさせる。指先が石と同じ光を発して、空中へ軌跡を残す。最後に、右の掌をネックレスに翳す。


「『ホクトが命ずる。ニムロドの加護のもと、言葉の共有と復活たらんことを』」


 何も文字は浮かび上がらない。

 だけど瀬谷さんは動ずることなく、左手で同じ動作をしてから、あたしが聞いたことのない宣言を続けた。


「『名は土ヶ谷アオイ。セミラーミスの名において、この者の蓄積を模倣する許可をニムロドへ求める』」


 今度は、ネックレスがオレンジ色の淡い光を緩やかに発し始めた。そして目に見えるか見えないくらいの小さな文字群が、炭酸の泡のように浮かび上がる。

 しゃらしゃらと、ウインドチャイムの音が遠くから聞こえてくるような気がした。

 その音に合わせるように小さな文字群は光を帯びたまま、徐々にひとつの環となっていく。

 ……やがて、まったく同じ見た目をしたネックレスができあがった。

 思わず大声をあげそうになって両手で口を塞ぐ。


 ——これが、上級言語修復士!


 瀬谷さんは微かに頷いて自分の仕事を確認してから、オフィスへと戻る。またもやあたしは慌ててついていく。

 ソファに座り直した瀬谷さんは、すっとテーブルにネックレスを置いた。


「お待たせしました。今日はこちらをお持ち帰りください」

「えっ? うりふたつ……。まさか、そんな」


 ふたつのネックレスを交互に見比べて土ヶ谷さんが目を丸くする。おそるおそるつけてみると、胸元で石がきらきらと輝いた。

 そこでようやく土ヶ谷さんは安堵あんどの表情を浮かべた。

 瀬谷さんはその様子を眺めてから、小さく頷く。


「本物はきちんと原因を突き止めて修理してからお返しします。また、ご連絡いたします」

「あ、ありがとうございます」


 では、と言い、瀬谷さんが自らの端末からテーブルの上にディスプレイを表示した。

 修復依頼の契約書面に土ヶ谷さんがサインする。これにより、依頼が受諾じゅだくされたことになる。

 本物の契約場面を見るのは初めてだけど、意外とあっけないものだ。

「宜しくお願いします……。ありがとうございます。ありがとうございます」

 そして何度も頭を下げながら土ヶ谷さんは事務所から出ていった。

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