第658話-1 彼女は勝利を見届ける
水煙で視覚を一瞬奪い、後ずさりながら地面に水を撒いていく。最初こそ何なのだと思われたが、やがて彼女ら以外の観客は打つ手がない時間稼ぎだと考え、ヤジが飛び始める。
「さっさと勝負しろ!!」
「逃げんなぁ!!」
騒ぎ始める観客を尻目に、彼女は冷静な表情を一切崩さない。
「副伯、あの逃げ腰は作戦なのか」
「そのようなものですわ」
段々と大きくなる罵声に気の小さな王弟殿下が気になったのか彼女に何度も話しかける。
「水を魔術で撒くのは反則ではありません。彼女は魔力量に恵まれておりませんが、水の精霊の『祝福』を受けています。この場所は近くに大河も流れておりますので、水の精霊の力はそれなりに強いのですわ」
水気の無い場所、例えば砂漠であれば水の精霊の力は弱い。川や湖、雨天であれば相応に力を発揮しやすい。
「魔力の消費も加護持ちほどではありませんが、相応に少ないのです」
「その力を目くらましに使っているのか」
「ええ。『目くらまし』といえばその通りですわ」
水を撒くのも水煙を立てるのも目くらましの一環だ。徐々に水浸しになる場所の中心には『伯爵戦士』。そして、その外周には灰目藍髪がいる。
気が付くと、地面はすっかりとぬかるんでいた。
足場の悪い場所で、身体強化を施した全身鎧に加え防御力を強化した分重量の増した『伯爵戦士』は、ズルズルと足が滑り始める。
「滑れば、身体強化したとしても加速は相当削がれます」
「無駄な力が必要になるし、同じ身体強化なら踏ん張れない分、負けるわね」
「……なるほど」
『バングル式戦術』と呼ばれる、長弓兵と馬防柵、下馬した騎士を重装歩兵として活用する百年戦争における連合王国軍の決戦戦術。少数が多数を破り、弱者が強者となる為の技術の根本は、相手の長所を消す事にある。
最初の大勝利の際、『善領王』は王国軍を決戦場である林間の狭隘な平原に誘い込んだ。その場所は確かに開けているのだが、小川が幾つも流れており、前日までの雨で半ば湿地帯となりつつあった。また、戦場を限定する左右の森は、騎士の迂回・側面攻撃を防ぐ防御陣地の役目を果たしていた。
幾ら大軍を有するとはいえ、限られた正面に投入できる戦力はさらに制限される。また、騎士が幾つかの大領主の下に纏められた集団で段列を形成していたことも要因となる。
同じ正面を何度も騎士が突撃し、その突撃が失敗した後に、先陣が退く間もなく突撃を繰り返す事により、地面は更にぬかるみ後退する先発隊と突撃する後発隊が戦場で交錯し突撃の衝突力が大いに逓減された。
ぬかるみに倒れた騎士は、その鎧の重さ足場の悪さで消耗し、立ち上がれば無数の長弓の矢に前進を阻止され、防柵では満を持して待ち構えていた連合王国の騎士に叩きのめされ打ち倒されていった。
結果が、万余の死者、千を超える騎士の死へと繋がったのである。遠征末期で、連合王国軍内に疫病が流行し、決戦を急ぎ捕虜を取らなかったことも騎士の死者を増やした原因でもあるのだが。
最初の頃の華麗な足さばきが鳴りを潜め、踏ん張りの利かない地面で足を滑らせる姿がはっきりするようになると、戸惑いを感じるざわめきが広がっていく。
「魔力も体力も技術も経験も不足するのであれば、それを発揮できない戦場にすればいい。それは、百年戦争で王国が学んだことですわ」
彼女の声は、王弟殿下に伝えられたようで観覧席のもの全てに向けられたものである。
身体強化による攻撃が不利と判断したのか、『伯爵戦士』が接近戦を挑み始める。が、そんなものに乗ってやる必要はない。
地面を蹴り、空中で体を回転させつつ、兜の側面に剣を叩きつけ、さらに空中の『魔力壁』の足場を蹴って伯爵から距離を取る。一瞬の魔力壁の形成ならさほどの消耗にはならない。
「さて、面白くなってきたわね」
「蹂躙の始まりね」
「「「……蹂躙……」」」
身体強化をすれば足が滑ってしまい、加速することができない。目の前に水煙が上がり、相手は空中に逃げてしまう。とんだ場所から着地点を推察し、その場所を想定して剣を振るえば、空中で体の位置を変えられてしまい、自らの剣は空を切り、相手から綺麗に反撃を喰らってしまう。
攻防が……攻防と言えるかどうかは既に怪しいのだが、ドンドンと加速していく。
剣を撃ちこみ、躱し空中に逃れ、さらに柄頭や鍔で兜を滅多打ちにし着地する。その着地もだんだんと緩慢になり、常に空中で『伯爵戦士』の兜を面貌を撃ち続ける。
煌びやかな輝きを放っていた兜は激しく変形し、羽飾りは地面に落ち泥まみれとなり、馬上槍試合の伊達者の姿は見る影もない。足元をふらつかせ、剣をめくらめっぽう振り回す姿は、既に道化者にしか見えないのである。
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