駆け引きと桜の木

「だからこれは駆け引きなんス!」

「法律の話ですよね?」

ヴィックがはしゃいだように言うので、ぼくは思わず問いただした。こてんと首を傾げるヴィックは、さも不思議そうにしていてこちらが困ってしまう。まるでぼくが当たり前のことを聞いたみたいだったけれど、どうして立法に駆け引きの概念が発生するのかがよくわからなかった。だって法律って然るべき手順で然るべき論理によって制定されるべきではないのか?ぼくがおかしいのか?

ヴィックは司法院に勤める下級士官生だ。そういう意味では門外漢のぼくよりずっと法律に詳しいわけで、そのヴィックが言うのであれば真実なのだろう。そう思いたいぼくもいるが、そもそも司法院に勤めるやつなんて民間企業に就職できなかったでくのぼうたちなわけで。不安は拭えない。

ぼくは教師だ。子供たちに勉強を教え、教育を施し、社会までの道のりを舗装する仕事だ。だからこそ職業に貴賎なし、と司法院なんかのところまで顔を出して職業見学に来ているというのに、すでにだいぶ失敗したなと言う感じが強い。職業に貴賎はない、ただし司法院を除く、とならなければいいけれど。

ヴィックはすでに帰りたがってるぼくを気取ったのか、「案内するっす」と奥へ歩き出した。

「司法院の中枢は、判官ってよばれる人工知能……まあそんな感じのやつなんす。あたしもよく知らないんすけどね」

「そちらさんが知らないのは大問題じゃ……」

「見てみればわかるっすよ。役割としては人工知能で間違いないっすけど、人工知能って呼んでいいのかめちゃくちゃ悩むっす。あんたもきっとそうなるっす」

「……まあ、いいです。それよりヴィックさん、お話を続けても?」

「ああ、駆け引き、そう、駆け引きなんす。あたしらがやってるのはね、結局そう言う部分なんすよ」

「そこがよくわからなくて、説明してほしいんです」

ヴィックは顎に手を当てて、んーと考え込む仕草をした。我が校を卒業して十年近く経っているOBという話なのだが、その仕草だけみれば生徒にも見紛う。若いと言うより幼いだな、こりゃ。教育者としての悪癖で、相手を分析しながら待つこといくばく。廊下を三本渡ったところで、ヴィックは「たとえば」と話し始めた。

「誰しも、これをするなって禁止されるとしたくなっちゃうことってあるじゃないっすか。逆に、しようとしてたことをしろって言われるとみるみるやる気が削がれたりとか」

「まあ、よく聞きますね」

「今法律に求められてるのはね、経済のサポートなんす。経済がうまく回るように人々を立ち回らせるって言うのが法律のほんとうのお仕事なんす。禁止事項を作るのだって、結局短期的な利益は長期的に見て崩壊の原因になるからなんす」

「つまり?」

「経済と政治の逆転っすよ。昔は政治に経済が奉仕していた。今は経済に政治が奉仕している。だから政治は経済のために軽やかに動き回って人々を動かして回らなくちゃいけないんす。持ってるものを手放せ、新しいものを買え、ってな、具合に」

「はあ……」

ぼくは思わず間抜けな吐息をこぼしてしまった。ヴィックはしごく真面目な顔つきでしゃべっていたけれど、ぼくは戸惑ってばかりだ。ヴィックの発言は壮大すぎ、荒唐無稽が過ぎた。現実味がなくて、いまヴィックが考えた創作話と言われた方が百倍くらい説得力がある。

「だから駆け引きなんす。今必要な法律そのものは判官が考えてくれるんで、うちらはその中からどれを選べば人々を操作しやすいかで選ぶんす」

「……」

「だから正直、法律のこととか自分の携わったやつ以外ほとんど覚えてませんよ、あたしも」

でもそれはそっちも同じっすよねえ。まあ、毎週コロコロ変わる法律なんて、直近の一個覚えてたら優等生っすもんね。この国、違反者の罰則金で成り立ってるようなもんだからなあ。ヴィックはつらつらと喋りながら、一つの扉の前で立ち止まった。

「ここだ、ここ、ここ」

「ここが……人工知能のあるところですか」

「そっす。あ、気分悪くなると思うんで、ビニール持って。トイレあっちなんで覚えててください。バケツは中にあるんで、無理そうならそっちを使ってください」

「はい」

何をそんなに脅かすのか。ヴィックの警戒に内心で首を傾げながら、巨大な両開き扉を押しあける。

そこには中空にあまりにま大きな、桜の木と見間違うばかりに大きな脳みそが浮かんでいた。

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