隣の庭で芝を


楽園に奉仕せよ。それはつまりプログラムを愛せということで、0と1の塊になれなかったことを悔いなさいということだ。そしてぼくには肉の体があり、汚れた肉を脱ぎ捨てない限り楽園には登れない。


バタバタバタバタ、忙しない音がさんざめく。キータッチの音は数百、数千、数万と重なって、どこか波 飛沫あげる波だとか嵐の前の葉擦れだとか、そういうものに聞こえてくる。

意識が遠くなりながら、ぼくは指を無心で動かす。目の前には真っ黒なCUI画面があり、ぼくの入力に合わせてお決まりのコードが白文字で流れていく。目にも止まらぬ速さというには遅く、人間の黙読できるスピードよりは速い。そんな勢いでコーディングするのは、楽園を綻ばせないためだ。

きーん、こーん、かーん。錆びたチャイムの音が響いて、はっと意識が浮かび上がる。没入しすぎて前後左右の感覚さえあいまいで、今自分が何をしていたかさえ思い出せなかった。

「休憩に行こうぜ」

「あ、あぁ」

シノがぼくの背中をトンと叩く。ぼくがすぐに我を忘れてしまうことは今に始まったことではないから、シノもまたか、という顔をしただけだった。

無機質な廊下にはぞろぞろと人が蠢く。どいつもこいつも楽園にいけないだけあって冴えない面を下げていた。そしてぼくも、きっと彼らと同じ顔をしている。そう思うとどうしようもない諦念と羞恥心が襲いかかってくる。隣のシノはそんなぼくとは大違いで、労働がひと段落したこの喜びを噛み締めていることがわかる、はつらつとした顔をしていた。

「飯だな、飯!やっとだ」

「シノは飯食うのすきだよね……」

「そのために仕事してるよ。あと寝るため」

「動物って感じだ……」

「動物だよ。血と肉の塊だよ」

シノはまるでぼくが冗談でも言ったみたいにけらけら笑う。それを周囲の人は迷惑そうに、あるいは羨ましそうにちらりと視線をやる。となりにいるぼくもなんだか居心地が悪かった。

「なあ、少し声落として……」

「ああ、まあみんな疲れてるもんな。騒いでたら迷惑か」

そういうことじゃないと思うけど、とはぼくは言わなかった。シノには人のこころに聡いようでにぶいところがある。スレていないとも言えるし、無知にも見える。

「シノって本当に変なやつ」

「そう?俺からしたらみんなのほうが変だけどな」

さすがのシノも、自主的に声を低めた。さすがに周囲全員を敵に回しかねない発言を自重するという最低限の配慮くらいは、シノにもあったようだ。

ぼくはこてんと首を傾げた。

「どうして?」

「だってなんだって楽園なんかに行きたがるんだ」

「はあ?そんなこと?」

「だって、プログラムだぜ。ゼロと一の塊で、物理的身体なんてないんだよ、どうしてそんなところに」

「物理的な体がいやになったから」

百年くらい前。人類の中でもトランス・ヒューマニズムといって、人間に人間以外のものがまじるのをどんどん進めていこう、という潮流があった時代。そのころに、人類はついに自分の魂、意識、自我、とにかくそういうものをアップロードする方法を実現した。それからというもの、人々はゼロと一の塊であることがどんどんステータスになっていった。たくさんのプログラマを雇いこんで、自分の住まう世界をアップグレードし続けることが富豪のあかしだった。貧困な人々は使い捨てにされることをわかっていても富豪たちのもとでプログラムを組んだりテストをし続けた。いつしか、プログラマ達は自分の住めない、自分たちの作った仮想空間をして楽園と呼ぶようになる。当たり前のような流れだ。

物理的肉体は苦しい。いやらしい。痛い。暑い。寒い。経年劣化で壊れていく。だからやっぱり、ぼくたちはプログラムになってしまいたい。毎日毎日キーボードを叩き続ける側から、叩き続けられる側へ。それはここで働く全ての人に共通することのはずだった。

「へんなやつ。ここのやつって」

「……そう?」

シノはきらきらしたビー玉みたいな目を瞬かせた。

「俺、もともとプログラムだったけどね、お前が楽園と呼ぶ場所のやつらはだいたい肉の体が欲しくてたまらないっていうよ。かくいう俺もそうだけどね」

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