息をするのが罪であるなら
「いっけなーい!遅刻遅刻!」
そう言って飛び出した姉が行方知れずになって四年になる。四年前の朝、食パンを咥えた姉は帰ってこなかった。学校にも行っていないらしいから、家と学校までの一キロ弱の間で失踪したということだ。
「君の姉は異世界に行った」
「何言ってんだあんた」
「やだなぁ、親切に教えてやってるって言うのに」
ヒルダはぼくが姉を探す中で出会った。占い師と詐欺師のちょうど中間みたいな人だ。良いとも悪いとも言わないけれど胡散臭いのは否定できない。普段は迷えるOLや女子高生の恋の悩みを聞いてあげるばかりのヒルダが、どうしてかぼくの姉に関してだけは非現実的なことを言う。
「信じられないのは当然だけどね」
「異世界ってね、漫画の読みすぎだよ」
「知ってるかい?壁に体当たりし続けると、うまいこと分子と分子がすり抜けて壁抜けできるらしい。人間の想像は実現するのさ」
「それは因果が逆だろ。姉が帰ってきてないのは誘拐か拉致だ。荒唐無稽なあんたの論は信じられない」
「やれやれ。親切に教えてやってるのに」
ヒルダはまるでぼくがわがままを言ってるみたいな雰囲気を醸す。ぼくは立ち上がった。ヒルダとこれ以上話しても収穫はない。姉さんが死亡扱いになるまであと三年しかないのだ。気ばかり焦っている自覚はあるが、とはいえこんな与太話に割く時間はない。
立ち去ろうとするぼくをヒルダは「君のお姉さんは異世界に行ったと表現したけどね、それは比喩だよ比喩。叙述とかいうんだっけ。情緒を解せよ、若人」と肩をすくめた。
「あんたのは本気か分からないんだよ。ふざけてるなら帰る」
「まあまあ。もう少しだけ話を聞きな」
ヒルダはシガーカッターを取り出すと、葉巻をケースから取り出した。マニラ葉のそれは、漫画で見かけるようなやつだ。
「異世界拉致っていうのが流行ってんのさ。裏社会ではね」
「暇なのか?」
「案外。とはいえ、あらゆる団体がそうであるように裏社会の人間もまた、自分たちの成長と拡大を目標にしてる。会社も家族も、全ては自己複製と拡大と生存に収支するからね。当然だ」
でもこの世界はあまりにも倫理と道徳が発展してしまっただろう。ヒルダは忌々しげに呟く。
「占いすらもほとんど社会悪だもんな。知ってるかい、星座占いを禁止する国家は四十二、この前スウェーデンの法律が通ったから、もうすぐ四十三。これは国連に国として認識されている全体の五分の一から四分の一に登る。国連加盟国のうち麻薬を法律で禁止されているのが八割、煙草が五割、飲酒が一割。そのうち煙草を超えるだろうね。占いに依存性はないから」
「それと異世界拉致に何の関係がある」
「法律を犯すのはね、とてもリスキーなんだよ。わかるかい若人。裏社会の人間だって、この監視社会の中じゃ細々した悪事でさえ殺し並のリスクがいる。それじゃあね、割りに合わんだろう」
だから異世界なのだと言う。正しくは、裏社会の人々のためだけに開かれた裏の世界。煩雑な手続きが必要だが、その手続きさえどうにかなるなら人間はこことは違う世界に飛べるらしい。そして何の因果か、裏社会の人間こそがその裏世界への旅路に一歩先んじている。
マーケットの問題だ。表社会の人間は、いまある世界、今ある社会の中でどう立ち回るかだけを考えていればよろしい。逆に裏社会の人間は、リスクまみれのこの社会での活動に限界を感じ、外にマーケットを、市場を求めた。そこにあったのは危機感の差だ。大人しく駆逐されるような呑気な連中なら、ここに来るまでにとっくに表社会に滅ぼされている。
「そこまでしてどうして罪を重ねたいんだ」
「若人、分かるかい。人間には息抜きが必要さね。倫理や道徳ってもんは息を詰まらせる。それが性に合わん人間もいる。それだけの話さ」
ぼくは、わざわざこの世界における犯罪をするために、莫大な技術と叡智でもって異世界の扉をこじ開けた連中をどう評価すべきか悩んだ。
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