優しくなければ人類じゃない

アンリはぼくを棒で打ち、今悲しいか?だとしたらお前は偽善者だ、と吐き捨てた。

「今更アンリに打たれたところで何も思わないけど」

「ならお前は人の五倍偽善者だ。社会の蛆虫め。柱に住み着く白蟻め」

「毎日やられたら流石に何も感じないって。事実の確認って感じだし……」

「じゃあお前は私が嫌いか?」

「別に……」実際のところ、ぼくとアンリは同僚以上のどんな関係性も築いていない。ぼくはアンリのファーストネーム以外の何も知らないし、アンリはぼくの名前ですら知っているか怪しい。

「ほら、偽善者だ」

「わかった。もう偽善者ってことでいい。それで、偽善者の何が悪いんだ?殴られて悲しいのは自然だし、イエスだって左の頬を差し出せって言っただろ。殴り返せとは言ってない」

「イエスは殴られたら哀しめとは言わなかった。左の頬を差し出せと言ったんだ」

「じゃあほら、殴れよ左を」

「嫌だよ。君、もしかして私が君を殴って喜んでるとでも思っているのか?」

「違うのか?」

「違うに決まっているだろう!どうして絶滅危惧種の純正人類を殴って喜ばなくちゃいけないんだ!」

純正人類、という言葉にぼくは眉根をひそめた。ホモ・サピエンスは絶滅危惧種だ。レッドリストにもちゃんと載っている。地球上のありとあらゆるところに存在し蟻よりも数が多いと言わしめたのも今は昔、栄華盛衰、奢れるものも久しからず。歴史が演算し、現実が証明した。

「別に殴ったくらいじゃ死なないんだからいいだろ。っていうか、純正人類ってやめてよ。みんなみたいに旧人類って呼べばいいじゃん」

「純正人類はみんなお前みたいな気持ち悪い倫理道徳で生きてたのか?矛盾だらけで例外まみれ、おぞましくて気が違いそうだ」

「人の話聞けってば!」

「聞いた結果、答えるに足る質問と見なさなかったんだ。ああ、そうか純正人類はチョイスが見えないんだったな。不便なくせに感傷的で……よく生きてられたよ」

「だから次世代が出てきて滅びたじゃないか、ちゃんと」

「ネクスト・ジェネレーションじゃない。ニュー・エラだ。私たちはトランス・ヒューマンだからね。厳密な意味でさえお前と地続きではない」

ゲノムの相違は1.47%、これはゴリラよりはお前に近いがチンパンジーよりは遠いということ、とアンリが説明してくれる。分かっている、分かっているんだそんなことは。アンリがぼくより優れていて完成された生き物であることは、これ以上なく理解している。

「純正人類の偽善には驚かされるよ。個々人で見ると随分と温和で平和的に見える!だがその悲しいという感情そのものが悲劇の引き金になってきた!分かるかこれが」

「分かってたら絶滅しかかってないと思うけど……」

「バーカ!お前の脳みそエメンタルチーズ!悲しみというのは伝染するんだ、そして不快な感情であるが故に怒りを誘発する。俺を悲しませやがったな……って具合に。悲しむ奴らは潜在的に怒れる奴らなんだ!人類は優しくなんてないのに偽善の皮を被った、それが故に滅びたのがどうして理解できない!」

「人間は優しくないって言い切る君のことが嫌いだな」

ぼくはアンリを傷つけたかったのに、アンリは目をキラキラさせてぼくの入っている檻に顔を近づけた。

「そうだ、それでいい!私の次の研究は偽善の存在しないトランス・ヒューマンだからな。人類のために、見せかけの優しさを捨ててくれ」

ずっと昔の育成ゲームでは、持たせるアイテムやアクションによっていく通りもの進化をするキャラクターがいたらしい、純正人類をそのキャラクターの名前で呼ぶものもいるという。言いえて妙だな、と思いながらぼくは檻の中で転がった。

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