シック・バタフライ

ぼくは万華鏡の犠牲者として指名されてしまったらしい。

どんな顔をすればいいのかよく分からない。職場まで唐突に押しかけてきた役人さんがいうところによれば、社会が最大利益を上げる未来のためにぼくは邪魔なんだそうだ。

「このままだと三十年後に金融崩壊が起きて、だいたい五百万人が死ぬ。エンパイア・ステートビルやビックベンから飛び降りたりして。まあ君がそれを望むのであれば、逮捕することになるんだけど……」

なんて荒唐無稽なことを目の前で、ものすごく真面目な表情で並べられてもぼくからすれば現実味がないにもほどがある。

バタフライ・エフェクト。あるいは初期値鋭敏性。カオス理論のものすごく有名な寓話で、映画や小説に引っ張りだこの人気者だ。簡単に説明するなら、ブラジルの蝶の羽ばたきが、ゴビ砂漠に竜巻を起こす。誇大妄想がすぎるとでも言えばいいのだろうか。これを考えついた人は随分な神経症に悩まされていたに違いない。けれどまあ、世界というのは神経症なくらいでちょうどいいということだろう。ぼくたちはその蝶の羽ばたきの中で生きている。

蝶の群れは英語でカレイドスコープというらしい。だれかが洒落を利かせた結果、ぼくのように将来的な惨事を予防するために割を食う人々を万華鏡の犠牲者、なんて持って回った呼び方をするようになった。寒気がするのはぼくもおなじだから、あまり痛い子を見る目でこちらを見ないでほしい。

「それで、ぼくはどうすればいいんですか……」

「あ、大丈夫大丈夫。まさか命をいただきますなんてことは言わないからさ。再計算して、金融危機の可能性がなくなるまでちょっと隠遁生活をしてもらう必要があるってだけだから。優雅なホテル暮らしだぜ。仕事も強制休暇だからゴロゴロしなよ」

なるほど、万華鏡の犠牲者というのは随分いいご身分であるらしい。よく考えてみればぼくが普段通り過ごさないだけで五百万人の命が助かり何兆円もの損害がなかったことになるのだ。下にも置けないだろう。もしここでぼくにやーめた、なんて手のひらを返されて困るのはぼく以外の全員だ。

そんなふうに丸め込まれて三日、役人さんに言われた通り近くのビジネスホテルで自主的に軟禁されていると、深夜フロントから電話がかかってきた。とてつもなく嫌な予感がしたが、電話を取らないわけにもいかない。もしもし、と定型句を口にしながら受話器をとると、役人さんのどこか能天気な声が聞こえた。

「あ、ごめんね。再計算が今終わったところなんだけど。いやあバタフライエフェクトって怖いね」

「何が言いたいんですか……」

「うん、それがね。三十年後の金融危機は回避できたんだけど、そのせいで五十年後に核戦争が起きるらしくて。金融危機、起こす方向になったんだ。だから隠遁生活お終いです!お疲れ様でした〜」

役人さんは急いでいたのか、ぼくの返事を待つことなく通話は途切れてしまった。ぼくはどうしていいか分からず、パジャマのまま立ち尽くしていた。そうか、ぼくがいなくなると核戦争が起きるのか。金融危機で五百万人死ぬ代わりに、核戦争で何億人が死ぬのか。人間の命をそう簡単に足したり引いたりするのはいけないことだと分かりつつも、ぼくはなんとなく窓の外に目を向けた。どうせぼく以外にも万華鏡の犠牲者になる人々はこれから山ほど出てくるだろうけれど、きっとぼくの羽ばたきも誰かの羽ばたきでかき消されてしまうのだろうけれど、不謹慎なことにぼくは核戦争を起こしてたまらなくなってしまった。ぼくの末期の息が核爆弾のスイッチを押すなら、そのためならぼくは、なんだって

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