シュレーディンガーの証人

監視カメラのある現代は生きにくいよ、とマチルさんは言い、歩くたびにカメラを壊していく。

「私ね、証人なの」

この世界を見届けるために、人間が理性を持ってこの方ずっとこうして生きている。だから自分がカメラに写ったりして記憶に残るのはだいぶ問題がある。犯罪者として指名手配されるのもそれはそれで問題だけれど、名前だけなら顔よりかは変えるのが簡単だ。それも難しくなりつつあるけれど。

バールのようなものを軽やかに振り回し、近くにあったカメラを全て破壊してからマチルは少しマスクをさげて一息ついた。衛生的な白ではなくファッション性重視の黒であるのが、手元の凶器と合間ってちょっとしたチンピラみたいに見える。

「で、空港なんかに侵入してどうするつもりなんですか」

ぼくはしんどくなって腰をおろした。地下通路はどこからかドブの香りがする。表をどれだけ綺麗に繕っても、だいたいどこだって裏はこんなものだ。キャビンアテンダントたちが笑顔で出迎えてくれるのを期待していたわけではないが、薄汚い連絡通用口に不法侵入は気分がのりようもない。

マチルさんと移動する時は車以外の交通手段はほとんど使えない。道端や電車内のカメラを全て壊すのは現実的ではないし、そもそもそんなことをすれば即お縄なわけで。だから空港にもなんの用事があるのか分からなかった。マチルさんはひとより多くのものが見えるくせに、説明を端折ってしまう悪癖がある。

「西のほうからね、天使がやってくるらしい」

「え?それどういうことですか」

「いや、よく分からない。とにかく天使らしいよ。火炎放射器を持ってる」

「天使って火炎放射器持ってるんだ……じゃああれですか、ついにこの世の終わりでも来るんですか?」

黙示録はラッパの音がするんだっけか、なんて頭のすみっこの知識をひねり出し、楽器を吹くジェスチャーをして見せる。マチルさんは手元の鈍器をぶらぶら揺らしながらぼくを立たせて前に進むように促した。

「それが見たいんだよ。彼らが何をするのか……もし世界の終わりなら、この目で見なくちゃ」

「光栄ですねえ、ぼくが生きてる間に世界が終わるなんて」

「おや、悲しくないの?」

「ぼくが死んだ後に世界がますます発展したらほら、あれじゃないですか」

「どれ?」

「嫌な気分になりません?ぼくだってあとちょっと遅く生まれてればって。それなら未来まるごと全部なくなる方がいい。これ以上嫌な気持ちにならなくてすむ」

「あはは、それなら逆に、この先の未来絶対これ以上発展しなくて、悲惨なことにしかならないのなら?」

「それは可哀想だし、ぼくが愚かな先人として責任を問われそうだからいやですね」

「めちゃくちゃだ」

しばらく歩くと、地上に上がるはしごがかけられていた。全人類から忘れ去られていそうな古びた佇まい。どうしてこんなものをマチルさんが知っているかといえば、彼女が証人だから、という以外の理由はないだろう。彼女はどこにでもいて、いつにでもいて、そして本当は存在していない。見られてはいけないのだ。見られていると、存在が確定してしまう。マチルさんは常にシュレーディンガーの猫でいなくてはいけない。

「じゃあ、登るよ。西に向かうためには、流石に足が必要だからね」

「ああ、ものすごく嫌な予感がしてきました。マチルさん、聞いていいですか?」

「なに?」

「帰っていいですか?」

「だめ。君にはこれからハイジャックをしてもらうから、居てもらわなくちゃ」

ぼくはため息をついた。このヒトの無茶振りには慣れたつもりだったけれど、あくまでただのつもりにすぎなかったようだ。

「近くにいないんですか、他の証人」

「さあ?いるかもしれないし、いないかもしれない。私たち別にお互いのこと知らないからね」

だからもしかすると、天使を見るためにたくさん集まって来るかも」

そしたらそこは観光スポットだね。マチルさんは屈託無く笑い、地上へ続く鉄の扉をこじ開けた。

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