鼓動にさよならを

音楽のない人間になるためには、心臓を止めなくてはいけなかった。

死人には音楽がないという虚無主義みたいな話ではない。音楽の源泉は心音にあるという話で、ゆえに人間から音楽を切り離したいのであれば心拍を、拍動をなんとかする必要があるという話だ。

というのも、ビートドラッグが誕生し、音楽によって狂わされる人々が大量発生するようになってしまったからだ。

耳にはまぶたがない、というのは散々言われてきた陳腐な言い回しだが、多くの人々が異口同音にそう伝えただけあってそれは真実だ。視覚のように手軽に無条件に塞げるものではないし、かといって常時聴覚も封じることはできない。

故に反社会的な者たちが現れ、ビートドラッグをゲリラ的に散布し始めたとき、社会は完全に停止しなくてはならなかった。人が住む場所にはスピーカーが多すぎ、人々は脳への攻撃に無防備すぎた。

ビートドラッグは主に音楽の形をとった。テンポとリズムがビートドラッグの正体であり、そこに旋律が乗っていようがいまいが亢精神薬としての効能に変化はないからだ。社会は音楽そのものを禁じた。けれど電子化とネットワーク化が進んだ社会はクラッカーたちにやさしかった。法律でいかに禁止と制定されようとも、そもそも社会をひっくり返すことが目的のテロリストたちには関係がない話だ。だって彼らは他のぜんぶの法律を遅かれ早かれ破るのだし、最終的には分厚い法典をすべて火にくべるために日夜活動しているのだから。割りを食ったのはつまり、一般の善良なる市民たちだった。耳から入り込んだ薬物は脳下垂体をめちゃくちゃに乱打してホルモンをびしゃびしゃに撒き散らさせ、彼らの良心と理性とを破壊した。街には廃人の山が積み上げられて、街路は糞尿と吐瀉物のにおいがこびりついた。

そういうわけなので人類はとにかく音楽を、ビートドラッグをどうにかするために音楽を人間から剥奪しなくてはならなかったのだ。そして最終的に、人間は鼓動にさよならを告げることになった。心臓を摘出して特性の代理心臓に置き換える。ごく簡単に形容するなら、ポンプ式からモーター式に。そうして人類は心音を忘れ、音楽を失い、そしてビートドラッグの悪夢から醒めることができるようになる。

「手術が終わったら、またピアノを弾ける?」

「……弾くことはできますよ。知識や経験がなくなるわけじゃないですから。でも、魅力を感じることはなくなるでしょう」

患者はそう、と諦めの感情を滲ませながら顔を伏せた。患者の名前はムジカ。このご時世にあってもピアニストを続けたほどのピアノ好き。音楽への憎悪が肥大していくこの社会においてピアニストをやるということは、誰にも評価されないどころか誹りと誹謗中傷をその身に引き受け続けるということでもある。それはもはや好きやら愛やらというよりも執着であり、こう言って良ければムジカは病気なのである。ビートドラッグをやる前から音楽に人生と人格を狂わされた重症患者であるというわけ。

「そっかあ……それは寂しいな」

「失礼ですが、ムジカさんはどうして手術を受けようと?アンダーグラウンドで音楽を続けていたやつの多くは、音楽のあるうちに死にたいといって自殺したり、自分からビートドラッグを服薬して脳みそを壊したりしたそうですが」

「だって死んじゃったらピアノがひけないでしょ」

ムジカはあっけらかん、と言い切ってみせる。それは自分から音楽が失われることをちっとも信じていないからなのかもしれない。ぼくは哀れに思った。楽観主義者はだいたい泣きを見る。ムジカも彼らと同じになるだろう。

ぼくの哀れみを視線から拾いとったのか、ムジカは天使のように笑いかけてみせた。

「大丈夫。わたしは鼓動がなくなってしまったみんなに音楽を取り戻す薬を作ってみせるよ。そうだな、メロディ・ドラッグなんてどう」




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