ふりだしまであと千日
あとわずかでタイムトラベラーになれたはずの夢見る者たちの首を刎ねながら、イチジクは「分かってないのよ」と嘆く。
「分かってないの、可哀想なくらい。未来に行くなら好きにすればいい、でも過去に行ったら世界が終わっちゃうのに、どうしてタイムトラベルなんてしようと思うのかしら。自分のわがままで他の全人類が死滅してしまうのに。どうして百億の人命と自分の夢を天秤にかけた挙句に自分の欲望を選べるのかしら」
あたり一面はタイムトラベラーになり損なった科学者たちの血でどろどろで、むせ返るほどの血の匂いと熱気と湿気で呼吸もままならない。ぼくは自分の袖で口元を覆ってどうにか失神せずに済んでいるが、もしそれができなければ入室一分で卒倒する自身がある。
「でもほら、よくあるじゃないか。世界を敵にしてでも君を救いたいとか」
「世界を敵にしたら殺されるのなんてあたりまえじゃない。なによそれ。悲しくなるくらい愚かね。そんなこと言ったやつは誰?私が殺してあげるわ」
「もちろんフィクションだよ」
「流石に非実在の人間は殺せないわね。諦めるわ」
すぱっと言い切って、それから一転イチジクは忌々しそうに顔中をしかめた。
「フィクションね、ああ、フィクションよ。フィクションがいけないの!そんなものがあるからみんなタイムトラベルを夢見るし、勝手に世界を敵に回すんだわ!はじめにタイムマシンなんて言い出したやつを殺してやりたい」
「ウェルズとか?」
「もし過去に戻ることができるなら私そいつの首をちょん切りに行くわ」
でも残念ながらそれは不可能だ。そもそも、そんな憎み言を吐いているのだってタイムトラベルをすると世界が滅ぶためなのだから、もし過去に戻ってもいいならイチジクの苦労自体存在しなくなる。
過去に戻るということは、すなわち世界が終わることである。
イチジクの言葉によれば、そういうことになるらしい。過去に戻るということは、現在から人一人分の物質やエネルギーが跡形もなく失われるということだ。これがいわゆる熱力学の第三の法則、エントロピーは常に増大し続ける……というこの世の理とばっちり矛盾し、その矛盾は宇宙を大爆発させるという。ビックバンからやりなおし、というわけだ。ふりだしに戻るよりひどい。
そういうわけだからイチジクは日夜こつこつとそういう輩の首を刎ねている。
「もう生き残りはいないわね。よし、機械を壊すわよ。棍棒を持ちなさい。角材でもいいわよ」
「はいはい」
「野生に還ったつもりで徹底的にやりなさい」
ぼくはそこらへんにあった鉄製の工具で、科学者たちの叡智の結晶をボコボコにする。注ぎ込まれた予算が弾け、貢がれた時間が飛び散り、捧げられた知恵が火花を散らして地に堕ちる。それを見て笑顔で腕を組むイチジクは、陳腐だけれど悪魔に似ている。
申し訳ないなあ、と思った。
イチジクの言葉に従えば、この世界はもうじき滅びることになる。
何といっても、ぼくは未来からやってきた。やってきてしまった。これから三年後の八月三十一日、ぼくは入学式を前にタイム・マシンに乗り込んでデタラメな時間に飛んでしまったのだ。というわけだからあとちょうど三年後に、宇宙はビックバンからやり直しになるというわけ。ぼくには救いたい少女も叶えたい夢もなかったのに、ただ憂鬱な入学式から逃げたかっただけなのに、その巻き添えで爆発四散する宇宙のみなさんにはとてもとても頭が下がる。
ぼくは罪滅ぼしのように腕をふるった。魂が原始のリズムを取り戻すほど機械を叩いて叩いてたたきまくった。イチジクはにこにこと楽しそうにそれを見ていた。
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