左の頬を差し出せ
彼女たちは殴る。殴り合う。蹴り上げ、首を絞め、目を突き、組み敷いて締め上げる。憎んでいるわけでも嫌いあっているわけでもない。これは会話だ。彼女たちのコミュニケーションであり、バイオレンスな光景も本人たちからすればただ昼下がりのお喋りにすぎない。
アサカの拳がネズの脳を揺らしたところでお喋りは終わりになった。ネズが昏倒し立てなくなってしまっては続けられないからだ。アサカは乱れた息と髪を整えながらネズの横に腰を下ろす。
彼女たちはわずかな息遣いのほかはうめき声のひとつもあげない。それもそのはずで、アサカの喉もネズの舌も高度な医学的処置を施されており吐息ですら声となりはしない。先ほどの激しい運動で肩を上下させているのに、彼女たちの間にはほとんど静寂と言っても過言ではないしじまが降りている。
「喋ってはいけません。それは罪です。たった今、罪ということになったのです」
様々な理由があったのだが、結論はひとつだけだ。政府は国民に会話を禁じた。SNSや各メッセージサービスによる文字コミュニケーションの発展、あるいはバーチャル・リアリティが人口に膾炙したのもあって、残念ながらそれは不可能なことではなくなってしまっていた。政府は手際良くお利口な国民たちの喉を焼いて焼いて焼きまくり、最終的に街は静まり返ることになった。
声が使えないからといって、それは他人と繋がらないことを意味しなかった。
アリストテレスは人間を社会的・政治的動物として規定したけれど、社会も政治も一人ではできない。人は繋がることにした。仮想空間を介して、文字を介して、そして、拳を介して。
こういう人類学の研究がある。とある村と村の戦争に関する研究だ。Aという村と普段交流があり村民同士に血縁関係も認められるBという村があり、このA村とB村の戦争は主に拳や棍棒で行われた。別のとき、A村はこれまで全く交流のなかったC村と戦争することになった。A村の人々は槍を持って戦った。B村とC村の違いはひとつ、A村との心理的距離の近さだ。単純な事実として心理的距離と暴力の物理的距離は比例関係にある。あらゆるコミュニケーションと同じように。
人々はこれまでしてきたように人を殴った。けれど意味はどんどんと変わっていった。それまでほとんど怒りの意味でしか使われていなかった暴力というコミュニケーションツールは、言葉の喪失によって怒り以外の意味でも使われるようになったのだ。暴力の手段が増えていたのもそれに拍車をかけた。肉体のみの相互暴力は好意の発露だという共通認識が形成されるのに、半世紀もいらなかった。
ネズはむくりと体を起こした。隣で三角座りをしているアサカを見て自分が負けたことを悟ったのだろう、悔しそうにまた後ろに倒れる。さやさやと柔らかな風が二人の間をそしらぬ顔で通り過ぎていく。
暴力は嘘をつかない。
殴ったか、殴らないかの二つしかない。スペクトラムは存在しない。言葉とは違う、余分なレトリックは削ぎ落とされている。
彼女たちは満足そうに笑っている。
残念ながら、肉体言語で交わされた理解も感情も、声とは違って盗み聞きすることはできないので、彼女たちの間で交換されたものがなんだったかを知ることは彼女たち以外にはできないのだった。
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