角砂糖は1つだけ

広川志磨

角砂糖は1つだけ

彼が喫茶店の樫の重い扉を開けると、カウンターのすみに先客が座っていた。


「また来てたのか。よく会うな」

「そっちこそ。よっぽど気にいってるんだね」

「まあな」


彼の手には台本が握られている。

高文連の演劇会の為のもの。

しかも、今年は主役を仰せつかったわけだから、気合いが入っている。

読み込みをしようと思ってお気に入りの喫茶店に入ったら、彼女がすでにいたわけだ。

そんな彼女は、カウンターに総譜を広げていた。


「定期演奏会のか」

「そう。1曲振ることになって」

「さすが、次期部長」

「ウチの慣例なんだよね。就任前の度胸試しというかなんというか」

「そうか、大変だな」

「まあね、そちらもだろうけど」

「そうだな。隣いいか?」


彼女がうなづく。

彼はコーヒーを注文しつつ、腰を落ち着けた。

彼女が総譜に集中しているので、彼もパラパラと台本をめくってみる。

自分のところにチェックを入れ、読みがななどわからないところがないか改める。

台詞の矛盾などないか、鉛筆で台本をつついていたとき、横から声をかけられた。


「コーヒー、来てるよ」

「お、気づかなかった」

「全部入れといた。『濃い目で、ミルクはたっぷり、角砂糖は1つだけ』なんでしょ?」

「―よく見てるな」

「まあね」


彼女はすっと、カップに口をつけた。

『うすめで、ミルクはたっぷり、角砂糖は2つ』だったと思う。

ふと手元を見やれば、いろいろと書き込まれた総譜。

なんとなくだが、負けた、と思った。


「なあ、僕に主役がつとまるかな」

「その台本の話?」

「うん、いざとなると自信がない」

「そんなの、やってみないとわからないじゃない。そのために、もがく時間があるんだから」


ポン!と彼女は総譜を軽く叩いた。


「友人として応援するから、友人として応援してよ!」

「………君と友人になれて嬉しいよ」


なぜか知らないけど勝てない、そう彼は思ったのだった。


  ◆


それから数年後。

同じ大学を卒業したふたりは、教師になった。

勤務校は同じ市内だけど、別々で。

忙しさで疎遠になっていたが、久しぶりに連絡がきた。

待ち合わせはあの喫茶店。

大学の時より痩せた彼が、カウンターのすみで静かにたたずんでいる。

声をかけると、淡く微笑んだ。


「久しぶり。仕事どう?」

「まあ、忙しいな」

「だよねぇ。でも、吹奏楽部指導してるんだ。大変だけど楽しいよ~」

「僕もだ。演劇部の顧問をやってる。アマチュアの劇団の脚本と演出も」

「すごい!夢叶えてるじゃない」

「役者にはなれなかったけどな」


彼は苦笑した。

才能の限界を感じ、役者はやめてしまった。

が、少しでもそばにいたくて、裏方に回っている。

彼女が隣の席に落ち着いたところで、彼は用件を切り出した。


「それでな、今市民サークル向けのミュージカルを書いているんだけど」

「ミュージカルかぁ、へぇ~」

「音楽アドバイザーを探してるんだ」

「ふうん。で、私に誰かを紹介してほしいのかな?」

「いや、君に頼みたい」

「えっ、私!?」


彼女は目を丸くした。


「待って。私、中学校で音楽を教えてるただの教師なんだけど!音大出とかじゃないし…」

「教育大出なのは、僕も同じだ。ちょっと演劇をしていた経験のある、高校の国語の教師で演劇部の顧問。さて、『やってみないとわからない』といったのは、誰だったかな」


彼女はため息をついた。

負けた、と思った。

両手を軽くあげて、降参の意を示す。


「わかった、お受けいたしましょう」

「謝礼は払う」

「えっ、いいのに」

「ダメだぞ、それは。仕事には対価が必要だ」

「現物支給でいいよ?ご飯とか、譜面紙とかそういうので」

「わかった。では、とりあえず…」


目の前に、コーヒーが運ばれてきた。

久しぶりの「いつもの」だ。

彼が角砂糖のポットを引き寄せる。


「2個でいいよな?」

「うん、そっちも1個で変わりない?」

「変わりない。ミルクの量は少し増えたが」

「大学の時より痩せてるように見えるけど?」

「やつれてるんだよ。これでカロリーとっておかなきゃな」


眉間にシワを寄せながら、彼はむすっとした顔で答えた。


  ◆


それからふたりは、1年をかけてミュージカルを作り上げていった。

主に週末が作業日となり、文化系部活の大会が重なる秋口は休止。

最初に彼女のキーボードとPCが、彼の家に持ち込まれる。

徹夜作業になることも出てきて、いつの間にかお泊まりセットやら、彼女専用の布団が整えられてたりとか。

いわば「半同棲」とか「週末婚」などと、お互いの同僚に揶揄されるような感じになっていた。

まあ、このふたりは「そういうのよりも仕事!」というような気質があるので、「あやまち」などとは無縁ではあったのだけど。


―無縁では、あったのだけど。


週末の作業が終わって、彼女が帰る前にゆっくりとコーヒーを飲む。

角砂糖の数は変わらないが、いつの間にか彼女は彼と同じ濃さのコーヒーを飲むようになった。

最初は向かい合わせ、次第に隣り合わせに。

1杯を飲みきる時間も、ゆっくりとゆっくりとなっていく。

お互いに確信がある、でもそれを言えないもどかしい日々が続いた。


  ◆


「で、できたぁぁぁ~」

「おわったっっ」


台本と挿入歌のデモデータを付き合わせて、抜けがないか確認したふたりはその場でガッツポーズを決めた。

彼などそのポーズのまま、脱力して床に転がっている。


「はぁああ…。ありがとう…」

「こちらこそ、大変だったけど楽しかった!」

「これで、一旦は終了か」

「だね。さて、打ち上げといきますか。コーヒー淹れてくるね」


彼女が軽やかな足取りで、キッチンに消える。

やがて、コーヒーの香りが漂いはじめた。

脱力していた彼が、ゆっくりと起き上がる。


―「終わって」しまう。


彼の瞳に、決意が宿った。


コーヒーの香りが漂うキッチンで。

彼女はポットに手を伸ばす。

ドリップし終わったコーヒーをゆったりと、いつの間にか色違いのお揃いになった2つのカップに注いだ。

そして、彼の好み通りに角砂糖を1つ入れようとしたとき。

急に後ろから抱き締められた。

震える声が、彼女の耳をくすぐる。


「いれるな…」

「―え?」

「それをいれたら、きみはかえってしまう……。おわったから、かえったら、あえなくなってしまう。それは、いやだ」


彼は彼女の肩に顔をうずめて、何かをこらえている。

小さく低いうめき声が、彼女の身体の芯に響いた。

すっと、彼女の心が静まっていく。

こういう関係になってから、覚悟はとっくに決めている。

いつからか、それを望むようになっていたから。

―だから。


「………いいよ」

「すまん……」


彼の震える指が、彼女を上向かせる。

彼女の指から、スプーンが落ちた。

角砂糖が所在なく転がる。

その角砂糖がコーヒーに入れられることは、なかった。



   ◇



「ね、起きて…」

「ん………」

「いい天気だよ?」


少し揺さぶられて、彼は気持ちのよい泡沫うたかたから目を覚ました。


「朝か………」

「うん、朝だね」

「おはよう」

「おはよ」


彼はいつも通りゆっくりと寝返りをうったところで、自身が何も身に付けていないことに気づいた。

一気に目が覚めてがばりと起き上がると、いつも一緒に寝ていないはずの彼女が自分を見上げている。

毛布からのぞく肩肌があらわになっている、ということは………。


「あ…………」

「―ふふふ、初めてだね」

「ええと、何が?」

「こんな感じで朝になっちゃったのが」

「―今までもこうしてきて、いや、なかったな」


彼は隣に横たわる彼女を、あらためて見つめた。

胸元や首元には、点々と刻まれた赤いあざ。

シーツには、少し明るい長い髪がゆったりと広がっている。

そのいつもアップにしている彼女の髪を、昨日の夜に解いて大いに乱したのは誰あろう彼だ。



―昨夜、彼は長年の想いを遂げた。



おかしいことに、彼女は彼の家に何度も泊まりこんで作業をしている。

その度にチャンスはあったのだ。

しかし、何もせずにいたのは、この「同志のような関係」にヒビを入れたくなかったから。

そう言えば、格好よく聞こえるかもしれない。

―が、実情はというと。


「怖かったんだよ、情けないことに」

「何が?」

「いつの間にか染み出てきた、僕の君に対する踏み込んだ欲望が」

「そう……」

「友人のままなら楽だ。でも、到底友人のままじゃいられなかった。苦しくて、本当に苦しくて、くるおしくなった」


―衝動にまかせて、ほの暗い部屋のベッドの上で彼女を組み伏せて。

―むさぼるように、彼女を求め続けて。

―彼女があげた嬌声も、すべて呑み込んで。

―何度も何度も、己を注ぎ込んで。


「―――ダメだな、ホントに」

「ダメじゃないよ…。私だって、私だってちゃんと言えばよかったんだし」

「―言ってくれてたな、最中に」

「はは、言っちゃってたね…」

「あれは、うわごと?」

「ううん、ホント」


彼女は起き上がって、彼に背を向けた。

耳まで真っ赤にしてうつむいている。

白くまぶしい背中が、はずかしげに丸まっていた。


「―ええと、コーヒー、飲む?昨日のは冷めちゃったから…」

「ん?ああ」

「淹れてくるね。いつも通り『濃いめで、ミルクはたっぷり、角砂糖は1つだけ』で?」

「そうだが、今日は角砂糖は要らないな」


彼はそう言うと、彼女を抱き寄せた。

そして、軽くくちづける。


「苦ければ、君のくちびるで甘くする」

「――――――はい……」

「楽しみだ」

「―なんか、いつもの調子が戻ってきたね」

「そうか?」

「そうだよ?」

「それはよかった」


彼は微笑んだ。

その時の笑顔は、いつもの何か演技がかっている笑みではなく、人好きのするとても魅力的なものだった。



  ★



彼が後ほど書き上げる、『角砂糖は1つだけ』。

名ミュージカルとして長年親しまれるものになるが、有名吹奏楽指導者でエッセイストである妻との結婚前のエピソードが元になっているといわれている。

彼らはそれについて詳しくは言及しなかったが、「そういうこともあったかもね」と晩年の彼がインタビューで答えた。


トレードマークの、「人好きのするとても魅力的な笑顔」をたたえながら。

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