第5話 小学校高学年~後編~

 7月18日、やっと私の入院生活が終わった。病棟を出るとき、荷物を搬出し終えた私に、病棟のみんなが祝ってくれた。わたしをいじめていた中学生たちも、手紙をくれたり、みんな苦しいし、退院できるかどうかもわからない中で、私の退院を祝ってくれた。彼ら、彼女らの優しい笑顔や言葉を、私は忘れることはないだろう。そう思った。

 その後は、久しぶりに乗る母の車や、海岸線をひた走る道中で過ぎ去っていく、ほんの3か月前まで極々当たり前に映っていた世界、そしてもう間もなく戻るであろう以前と比べて少し進化したであろう自分のいる、日常。入院する前は煩わしさにまみれ、苦しみの象徴のように映っていた、目の前を流れ、私の頭の中を通り抜ける全てが、懐かしく、愛おしく、かけがえのないものに見えた。

 その後にやって来た夏休みは、入院のよかった部分が顕著に表れ続けた。これまでならぶつかっていた、家族ともぶつからなかった。だからか、私は入院でよかったところ、入院して良くなったところばかりを話した。まるで入院で負った傷を石膏で塗り固めるかのように。

 しかし、私はそう簡単に変わることができるはずもなく、段々と元の状態に戻っていった。いや、寧ろ「何かやらかしたら入院になる」という恐怖が心を支配し、荒んでいったと言っても過言ではないかもしれない。

 そうしているうちに段々と、入院の時に負ったトラウマが、入院のいいエピソードを覆い隠していった。

 そして時は過ぎ、2学期が始まった。当初警戒していた担任の男先生も、私の成長に合った、素晴らしい教育をして下さった。ある時は魂でぶつかり、ある時は互いに笑いあった。そして私が困った時は、いつでも手を差し伸べてくれたり、今思えば、膨大な量のセーフティーネットを用意してくれていたように思う。そうしているうちに、私の学校での暴力は、徐々に収まっていった。

 そして退院した時には、施設主員さんも優しい言葉をかけて下さった。どういうことかを説明すると、これまで登場しなかったのが不思議なくらいではあるが、小学3年生のころから、私は仲良しの施設主員さんの下で配膳室掃除の担当をし続けていた。周りの人たちは配置換えになっても、私だけはずっと掃除場所が配膳室。昼休みになったら、施設主員さんの仕事内容はすべて覚えているので、給食の食器の片づけや、掃除の準備を手伝わせてもらっていた。ある時は授業時間にもかかわらず、施設主員室にお邪魔したり、花壇の手入れを一緒にさせてもらったりもした。あの時間が一番、私にとっての安らぎだったように思う。

 一方家では、段々と入院前のような様相を呈すようになった。暴力はだんだんと出るようになり、祖父母や母との衝突も日に日に戻っていった。それでも、以前と

決定的に違うのは、家の中でも入院につながらないように振舞う必要に迫られ続けたことだった。それでも自分の中から湧き上がる膨大な苦しさは、周りがより見えるようになったこともあって日に日に増すばかり。到底あの頃の私には処理できるものではなかった。だから暴れ続ける。その矛盾に常に追い立てられる日々だった。それに、退院を早めたこともあって通院の頻度が倍になり、余計に不安を駆り立てた。

 そんな私だったが、決して苦しいことばかりではなかったし、楽しいことも確実に増えていった。自分で動ける行動範囲も増えたし、学校では少しづつだが、普通学級のみんなとも一緒に授業を受けられるまでになった。ある時はクラスメイト達と笑いあって、成績もどんどん伸びて、充実した学校生活を過ごせたりもするようになってくる。家でも少しづつだが、良い変化が続いた。そして私は、いよいよ小学校6年生になる。

 いよいよ最高学年。不安と期待の入り混じる中、私は始業式に臨んだ。支援部には、2人の1年生と、5年生が入ってきた。私は一人だけの6年生、これまでの私からは想像もつかないほど、後輩に懐かれたし、自分なりに精一杯可愛がることができたと思う。それでも、そんな中でも、どんなに学校が楽しくなっても、無情に体力は削がれていき、生活リズムはいよいよ昼夜逆転に近くなる様になった。そうなると当然ながら、私が学校に登校できる時間は減っていった。

 そんな中だったが、あるとき先生から話があった。それは、私の学級に通常学級から「弾力的運用」として人が来るとのことだった。誰が来るのかわからない中、不安な時間を過ごしていると、髪の毛で顔を覆ってよく顔のわからない女の子が、音もなく入ってきた。その時わたしは畳敷きのスペースから、観察台越しに中庭を眺めて休憩していたため、突然の正体不明の来訪者に戸惑いを隠せなかったが、後から先生から説明があり、それが件の転入生であると分かって、私達は打ち解け、家族ぐるみの付き合いになり、私達は幼き暗黙の了解の中で、恋仲になった。

それと同じころ、私は行事に多く参加し、少しずつだが、力を出せるようになっていた。キャンプにも参加したし、遅れがちになっていた勉強でも、決意を祖父に話して2ヶ月で巻き返した。2学期に入れば、運動会に出て色々と活発に動いた。それだけでなく、学習発表会では合唱や劇にもにも参加し、全く出来ないリコーダーを吹く場面では、“エアー”リコーダー吹きなるものを使って何とか切り抜けた。それだけではない。支援部の発表にも主役級で参加し、無事に演技をやり切った。そうしているうちに、いよいよ冬がやって来る。

 私たちには、通常学級のみんなと違って、3年早く進路選択の機会が襲ってくる。養護学校に行くのか、中学校に行くのかである。私はいろいろな要素を先生と話したりして検討した結果、中学校の特別支援学級に進学することにした。ここに、今につながる新しいドラマの幕が上がることが決まったのである。

 突然だが、私のいた特別支援部には、「カフェ」なるものが開催されることがある。私は3年生のころから関わっていたのだが、それもいよいよ最後の年。最初のころは、山のように失敗を積み上げたが、6年生とあっていつも以上に気合を入れて品物を作り、接客もした。あれはかなり面白い時間だったように思う。そうやってみんなで作り出した利益で、年度末に卒業生の行きたい場所へ行くのが支援部の恒例である。そこで私たちは、汽車で約1時間のところにある、古い城下町に行くことにした。そこで私は「下見に行ってきます!」と先生に告げ、一人汽車に乗って旅に出た。そうして情報を持ち帰り、計画案をを私が提出したが、あまりにも行き先を詰め込みすぎて、行く先が半分ほどカットされたのは、想像に難くないだろう。そうして卒業の前、春が郷を温かく包み込む中、私たちは卒業旅行に出た。有名な神社や、高級ホテルのバイキング、そしてのどかな汽車の旅。最高の花道と呼ぶに相応しいものであった。

 そうして私達は、6年間通った小学校を卒業した。卒業式のとき、私は大きな屁をこいた。いつもはすぐに出してしまう屁を我慢していたため、椅子に座った際に肛門括約筋が緩み、咄嗟に屁を止めようとしたが時すでに遅し。「プウ~~~~~ウ!!!」と大音量で放出してしまったのである。このとき私が屁をこいたことをはるか遠くに居ながらにして音だけで特定し、自らも笑って屁をこいてしまったやつが、未来の親友になり、それだけでなく、退場の際に隣を歩いた女の子と、一世一代のドラマを巻き起こすことになるのだから、人生とはわからないものである。





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 いかがでしたでしょうか。少しずつ加速していく私の人生。トラウマと不安やもどかしさにまみれながら、精一杯楽しい時間も苦しい時間も味わって、希望の灯を絶やさぬようもがいていたあの頃。懐かしいですな。

 では、次回もお楽しみに!

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