第4話 小学校時代~高学年・前編~

(当時の私視点)

 時は平成26年春。私は5年生になったが、相変わらず春が嫌いだ。でも今年は何だか気持ちがいい。いつもなら、春は周囲の大人たちが入れ替わるから不安で仕方がない。事実、今年も担任が変わる。前の担任の先生とはいろいろあったけど、安心できる先生だった。あの先生みたいな先生はもう来ないだろう。

それでも関係ない。私は今月入院するのだから。こんな苦しみにまみれたところより、あんなに環境が整っているところに居たい。だから私にとって、小学校のことはあんまり関係ない。


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 そう思いながら、4月5日・・つまり始業式の3日前、特別に新しい担任の先生に会わせてくれるというので、学校へ行った。

 学校へ入り、通されたのは校長室。私にとって歴代の校長先生は距離の近い存在だったから、幾度となく入ったことのある部屋だ。そこにいたのは、校長先生と若い男の先生。その先生は、随分と優しい目で私のことを見ていた。年は32歳だそうで、そのときは少しだけ話をした。だが、私にとってはそんなことは正直どうだってよかった。何故ならば先述した通り、この学校で起こることなどあまり興味がなかったからである。それに、前担任の女先生を超える先生などいるはずもない。しかも私は、男の先生・・・というか大人の男の人は苦手だ。だから私はこういった。

「せんせい。私は前の先生を超える先生なんていないと思っています。だから私は入院します!」

 私がこの言葉を放った時、先生は心なしか、さみしそうな表情をしたように見えた。そのせいかどうかは分からないが、何故だか私もさみしい気持ちになったような気がした。

 そして始業式が過ぎて、思っていたよりも楽しい学校生活になった。もしかすると、この先生はいい先生なのかもしれない。でも・・・いつも最初は楽しかった。でも徐々に、楽しさが埋もれて苦しくなっていく。だから今もそうなんだ。そう思って、いや・・・そう思うようにして、私は入院の準備へと突き進んでいくのだった。

 そして、いよいよその日はやって来る。平成26年4月15日・・・つまり入院の日である。その前の日から、楽しみだった感情にすこしだけ影が差し、さみしさと不安がだんだんと高まって行った。

 時刻は9時。穏やかな日差しと春のあたたかな空気の中、大きな荷物を持った私と母は、流線型の軽自動車に乗り、130kmの道のりを東へと走り始めた。流れる景色はいつも見るそれとほとんど変わらない。それでも何だかさみしいような、目に焼き付けておきたいような気がして、普段と少し違う景色に見えた。そして時刻は昼前。私はいよいよ病院の門を潜り抜けた。

 それから、入院手続きや説明を受けた後、いよいよ病棟へと歩を進めた。


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(当時の私視点)

なんかさみしい。こんなにきれいで洗練されたところなのに・・私が来たくて来た場所なのに・・・。

それに・・あれ?なんか思ったのと違う。病棟には鍵がかかっているし、なんでこんなにうるさいの?それに看護婦さんたちもあんまり構ってくれないし。それに何だろうこの雰囲気。みんな雰囲気が不気味だし・・・せっかく運ばれてきた給食なのに、みんな死んだような眼をして食べてる・・・なんで?私はどんなとこにきたの?


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あの後、堰を切ったようにさみしさが溢れて、あんなに嫌いだった母に泣きついて離れなかったのをよく覚えている。

そして時刻は6時。2回目の食事の時間になり、向かいに座った隣町のお兄ちゃんに話しかけた。

「なんでご飯を見てそんな顔するの?結構おいしいのに」

すると彼はぶすっとした顔で、

「君もそのうちわかるよ。最初はおいしいけどね」

とだけ言った。

 いろいろあって、そしてこの先も色々と起こりそうな予感のするこの日から、私の世界への見方は変わった。

 そしてその4日後の4月19日、主治医の先生が診察に来た。そこで私は、こう言った。

「話が違う。こんなにうるさいはずじゃない。とにかく家に帰してほしい」と。

しかし主治医の先生は、じぶんで決めたことだろう?と言って聞く耳を持たなかった。

そして、なんで私の苦しさが分かってくれないのだ。と思った私は、あふれる感情を爆発させ、主治医の先生を、泣きながら殴り、ほぼ同時に噛みついた。しかし、そのことはかえって逆効果となります。私はすぐに4人がかりで押さえつけられ、隔離室に押し込められたのです。それと同時に、もともと通常入院だったのが、強制力のより強い、医療保護入院となってしまったのだった。

 しかし、あの時のことを思うと、今でも目が回りそうになるほどの、強い苦しさに襲われる。隔離された部屋はまるで牢獄のようで、マットしか置いてない殺風景な部屋に、丸見え状態の金属製の便器。そしてほんの小さな口から差し込まれる食事。逃げ出そうにも窓は2重に施錠されており、用を足すときであろうと、常に看護師さんが私のことを見張り続けていた。「いつまでここに閉じ込められているんだろうか???」そんな不安ばかりが渦巻いていた。

 あのとき私に先生のした事は、病院としては正しい判断だと思う。当時の私のような危険因子を、病棟内に野放しにするのはあまりに危険すぎた。しかしながら、もっと他の方法はなかったのかと思わざるを得ない。何しろ、その時負ったトラウマはずっと私を苦しめ続けたのだから。この日から、私はありのままの自分を偽り、模範囚・・失敬、優等生を演じ続けたのだ。

 あれから2週間の間、病院になれるためとして、すぐ脇にある分校には行かせてもらえなかった。意外に思われるかもしれないが、私はどちらかというと学校が嫌いではなかったため、早く行きたかったが、主治医の先生は断固として聞いてくれない。そればかりか、ほかの子たちから文句が出るからという理由で、授業時間はトイレ以外で病室から出ることを禁じられた。どうしてものどが渇いて、給茶機のある所に出ようものなら、看護師さんに問い詰められるのですから困ったものだった。何とか水分補給はできたのでよかったが。

 それから2週間すると、色々と社会をわきまえずに、ずかずかとものを言う私に対するいじめが始まった。中学生の女子3人が、私に対して悪口を言ってくる。それに対して私は対抗したが、当時11歳の私に、到底言葉での勝ち目などなかったのは、言うまでもないだろう。

しかしそのころから、学校が始まったのが救いだった。私は勉強に熱を注ぐようになり、特に理科の授業と野菜作りが楽しくて仕方なかった。ある時は近くの川にメダカやヤゴを取りに行ったり、サツマイモを植えたり夏野菜を育てたりと、充実した日々を送った。

 そして5月も終わりに近づいたころ、外泊許可が下りたことにより、私は久しぶりに帰宅した。その後は汽車の旅に初めて行き、スイッチバックを走るトロッコ列車に乗ったり、「ここには昔はうどん屋があったんだが・・・」という祖父の話を聞きながら、無人の今にも崩れそうに見える駅で乗り換えて、山の中の1両だけの鈍行に乗ったり、乗り心地のいい古い特急電車と、新しい特急気動車の中で、デブ車掌さんとお話をしたり。何よりも祖父母と久しぶりにゆっくりと時間を過ごせることが幸せであった。

 それでも・・いや、だからこそ楽しい時間はあっという間に過ぎて、病院へ戻る日になった。いくら私が戻りたくないと言っても、母に医療保護入院の事を言われれば、私には力などない。仕方なく戻ることにした。

 そしてその後も外泊をはさみながら、特に変化のない入院生活を送る・・・はずだった。6月になると、私の1つ上、つまり小学校6年生の男の子が入院してきて打ち解けあったり、それから少し経った頃から、私のことをいじめたりもしていた中学生の女子たちとも、一緒に談笑できるまでになりました。なんだかこの頃から、病院の生活が少しだけ華やかに見えるようになった気がした。

 そして、もうすぐ7月となったあるとき、皆でキャンプをしに山奥へ行くという話を聞かされ、そこで料理をしたり、みんなでレクリエーションをするという説明がああった。そこからは、歌の練習をしたり、いろいろな料理の案を出しては、みんなで投票をしたりして、やることを決めたりと、充実した日々を続けていた。

 そして、7月15日夜7時。夕食も済ませた私のところに、突然主治医の先生がやってきた。どうしたのかと思っていると、私の退院が決まったとのこと。思わずうれしさで舞い上がってしまったが、決して私から不安がなくなることはない。退院予定は3日後。それまでは演技を続ける必要があるわけだから。ひとまずこの喜びを伝えようと、備え付けの公衆電話から祖父母に電話を掛けた。

 「じいちゃーん!退院が決まったよ!」

この言葉を言うのをどれだけ私が待ちわびていたか。その夜は不思議とよく眠れた。

 そしていよいよキャンプ。計画通りに焼きりんごを作ったり、バンガローで寝たり。入院生活の最後に、面白く、楽しい体験ができた。

 その後に病棟へと戻り、7月18日午前、荷物の運び出しを完了して、入院生活に別れを告げた。その時に、みんなも苦しいだろうに、私に向けてくれたみんなの笑顔と祝福は、きっと一生忘れないだろう。


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検証~あのとき私の信じた根拠は正しかったのか~


ここでは、平成26年3月の診察のとき、私の見聞きした情報が本当であったかを検証する。

① 東部の給食は美味しい。⇒確かに給食はおいしいらしい。だが、私に提供されたのは給食ではなく、病院食である。

② 病棟が静かであった。⇒確かにあの時はすごく静かだった。しかしあの日は春休み中。つまり外泊期間。そりゃあ静かにもなります。だから看護師さんも時間が有り余るわけです。

③ 学校も冷暖房完備、菜園もできるよ。⇒これは本当。学校については嘘偽りもなかった。

④ 入院期間は3ヶ月。⇒ンなわけあるか。本当は1年だったらしい。が、私が本当の自分を隠してしまったのと、余りにも手に負えず、入院治療での改善が見込めなくなったため、当初の表面上の説明通り、3ヶ月で退院となった。

⑤ 病棟でも農作業ができるよ。⇒確かにできた。セロリも食ったし、トマトだっておいしいのができた。確かトマトが原因で女子中学生と大喧嘩をやったけど、一緒に農作業をやった准看護師で兼業農家のマッチョなおじいちゃんのブドウがおいしかったからいいや。ありがとう。オージービーフの宣伝のマッチョに似てるおじいちゃん。


そう考えると、騙された中にも、楽しいこともいっぱいあったなあ。と思う。だがあの頃の私は、「騙されたアアアア!!!!!!」という感情に駆られていたから埋もれていたのかも。


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この入院を機に、私の世界観は大きく変わった。帰った当初は複雑な感情が渦巻きながらも、自分の苦労を正当化してみたり。その後は、病院や家族への不信感や騙されたという感情に駆られてみたり。そんな中でも、入院というものへのトラウマは強かった。ドライブに出ても、今度は私に黙って病院に引き戻そうとするのではないかと、不安に駆られて、いつ逃げ出すべきかと、逃走計画を思い浮かべてないといられないほどだった。今でも、行き先を告げられずにドライブへ出ると、時々フラッシュバックすることがある。しかしあれから月日がたち、今は一連の入院騒ぎで起こったすべてが、私の人生を結果的にいい方向に動かしていると思っている。何故ならば、あそこに行かなければ、閉鎖的な価値観の中で、自分の行動はそう簡単に変わらなかったと思われるからだ。あの時の苦しさや、流した無数の涙、それにみんなが時折見せる笑顔、そして監視されている中でも見つけることができた、自然の美しさ。それらすべてが、今の私をつくっているのだ。そう考えると、トラウマや堪えようのないほどの苦しみを超えた幸せは、本物なのかもしれない。そう考えられるようになるのには、まだ膨大な時間を要する。


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いかがでしたでしょうか。小学校高学年は、最初から大波乱にて幕を開けました。さて、この先どうなっていくのか。お楽しみに!

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