第3話 小学校時代~中学年編~
時は平成24年4月。私は小学3年生になった。これから、私の人生は少しずつ加速していくことになる。
突然だが、このころの私は春が嫌だった。私の生まれたのは3月なのになぜか?と思われる方もいるかもしれない。しかし私は春が嫌だった。それはなぜか。理由は単純。不安で仕方がないのである。ではどうして不安なのか。それは少し複雑である。まず第一に、年度が替わると学校では担任の先生や周りの環境が変わる。それだけではない。私を取り巻く環境の殆どが、私の見えないところで変えられていくのだ。当時の私は周りの人たちの事を信用できぬまま、それらの人々の恩恵を享受したくはないが、小学生の私には自立など不可能である故、仕方なく享受していたわけだから当然といえよう。
そんな中、私は不安の渦巻く中で始業式を迎えた。その時着任した背の高い女先生。その先生が私の担任になった。しかし、私のその先生に対する第一印象は最悪・・・。何故ならば、当時の私はある程度性質を知った大人でないと、どんな事が降りかかってくるかわからず、近くにいてほしくなかったからである。そこに着任した女先生。次第に私たちは打ち解けて、なじんでいった。あるときは、これまであまりなかった、支援部のほかのクラスとの交流であったり。あるときは乗馬体験で、タクシーを乗車拒否した私と、4㎞の道のりを一緒に歩いてくれたり。それに稲作体験も始まり、「自転車で行きたい~!」という私のために、校長先生に掛け合って自転車移動を認めさせてくれたり。しかし私はその稲作体験の帰り道で、先生に反抗してしまい、挙句先生との「自転車移動は特例であるから、先生の下から離れないこと。その約束が守られるのなら、これから先も行事での自転車移動を許可する」という約束を破棄し、先生の監視のもとから逃げ出して、一人で猛スピードで家に帰るという暴挙に出たわけだが・・・。その後先生は校長先生に怒られ、私は先生に怒られ、3つ上の上級生には私の家に来て心配され、それ以来私には「あの子の運転の安全性は間違いないが、自転車移動を認めると脱走するぞ」という引継ぎ事項&前科が発生したため、それ以来学校行事での自転車移動が、認められることがなくなってしまったのは言うまでもないだろう。
おやおや。少し脱線してしまったようである。話を脱線させてしまうのが私の悪い癖?まったくその通りだ。
山のように積みあがる苦しいことや、楽しいことが段々と濃い体験に変わっていったあの頃も、依然私は暴力をふるい続けていた。このころになると私は体力をどんどんと付けて、最早暴れている私を抑えるには、校長と教頭、そして主幹教諭に代表される、いつでも出動可能な(決して暇ではない)3人もの力を必要としていた。しかし、どんどんと付いていく体力と反比例するかのように、私の登校日数は減少していった。それはなぜか。小学校2年の春を境に、眠る時間が少しずつ、それでも確実に、朝に寝るようにずれていったためである。それでも母に起こされるままに学校へ行っていたが、リズムの崩れが、ある一線を越えると、遅刻を多くするようになる。そのリズムのずれこそが、大きな原因だっただろう。しかし、きっとそれだけではなかっただろうと思う。恐らくは、生活を送るうえで必要とする精神的な体力が、けた違いに必要とされるようになっていたから、きっとそのことが、リズムのずれを招いたのだ。
先述したように、それまでの私にあったのは、性欲を除いた基本的欲求に極めて高い自己顕示欲と承認欲求。そして自分を取り巻く環境への、苦痛からくる不満。それと似つかわしくもない高い知能であった。しかしこのころより、それらの感情に加えて、人への感謝と後悔の感情が顕在化しただけでなく、自分以外の人の動きにも少しずつ目を向けられるようになり、結果として処理しなければならない情報量が増えるとともに、もたらされる情報と自分のふるまいとの乖離も強く感じるようになった。
それらの事が重なり、疲労が増しただけでなく、過度のストレスに常時さらされ続ける事になる。しかし、それに対しての耐性をまだ私は持っておらず、回避行動として、私はテレビに逃げた。連日のように、一日5時間家のテレビを暴力によって占領し続けたのだ。そうなれば当然ながら、母が会社から帰ればいつも、テレビを見るのをやめさせようとするし、祖父もテレビの線を切ることを試みた。しかし私は見るのをやめようとはしなかったし、電波を止めさせないために、テレビの配線の構造を学習して抵抗したし、構造を学習していることは誰にも告げなかった。そのときテレビの配線の構造を研究した事が、メカの探究をする原点になったであろうことは、この頃の私には想像もつかなかった話であった。
この様に目まぐるしく、そして荒々しく、変化しながら生きていた小学校の中学年時代も、いよいよ4年生の初夏になった。この頃、総合的な学習の時間で食育の授業があり、近くの当時79歳の農家さんのお話を皆で聞くという会が控えていた。私は農業に非常に強い興味があったが、皆と一緒にその話を聞くというのは到底不可能な話だった。そこで担任の女先生と、当時すごくお世話になっていた栄養教諭の先生が、その農家さんの元へ連れていってくれたのである。そこで聞いたお話は素晴らしく、昭和18年の水害のことや、33年に単身渡米された話や、58年の水害と飼っていた牛の話、そして畑の紹介や農業のお話まで。私はお話を聞き、すごい方だなあと感銘を受けた。そのとき先生たちはこう言った。「弟子入りしたら?」この言葉をきっかけに私は弟子入りさせてもらうこととなった。この出会いが、16年の私の人生史上最大の転換点であったことは間違いないだろう。
それからの私は、学校もそこそこに、師匠の所で作業をし続けた。ある時は豪雨の中、ある時は熱波の中、そして季節は回って吹雪の中でも。茄子を取り、キャベツを植え、スーパーや市場に出荷に行き、大みそかが近づくと年貢を納めに市内中を回ったりもしたし、師匠たちの世間話にもしばしば混ぜてもらった。
しかし、その頃の私は到底弟子入りできるような状態ではなかった。作業の約束は守れないし、寝坊はするし電話にも出ない。どれだけ私が師匠たちにご迷惑とご心配をかけたか。それはそれは計り知れないほどのものである。
そして同じ頃、学校では何が起こっていたか。それはずばり、バイオレンス先輩との戦い(?)である。1学年上の先輩が支援部にやってきて、私と一緒に授業を受けることも増えた。しかし、私と彼はすぐに激昂する性質であり、授業などで互いに協力することもあるものの、よく流血騒ぎを起こしていた。つまり、「仲良く?喧嘩した」である。その戦いはなんと、私が中学2年になるまで続くのだから、これまた自分でも驚きだ。
学校で起こっていたことはそれだけではない。クラスメイト達に、私への理解を深めてもらおうと、1クラスづつ、特別授業を女先生が設定してくれて、これまで「よく分からない変な奴」だった私に対するイメージを少し進展させてくれた。この授業のおかげで、私は大人数の中で生き残ることができたのではないだろうか。そうなのだとしたら・・いや、たとえそうでなくとも本当にありがたい話である。
では学習面では何が起こっていたか。残念ながら、低学年のころとほとんど変わらない。理科では先生の助手をして、同級生に教えたりもしていたが、得意科目ではいつも満点に近い点を取り続けたことと、嫌いなことは全くやろうとしない点は変わることはなかった。しかし平成26年も終わりに近づくころ、郷土史についての検定があり、私はその検定に非常に強い意欲を示した。もちろん勉強もしたし、社会科の先生と、水利用として江戸時代に作られた間歩に特別に入ったりもした。だが、試験結果は82点。同級生に84点の人がいて、私は初めて、テストでの負けを知った。それまで、自分はこの学校内で最も賢いと思っていた私にとっては驚きであったが、まぎれもない事実として受け止めざるを得ない事であった。
この経験が恐らく、周りをより深く見えさせるきっかけとなり、私のストレスや疲労が激しさを増すきっかけともなった事だろう。
そして4年生も終わりに近づくころ、私の周りに暗雲が立ち込め、雷鳴が轟き始めた。その暗雲の正体とは、「自殺願望」である。当時の私は、何もかもに押しつぶされそうで、こんなに苦しいのなら、いっそ死んでしまったほうがいいのではないかと考え始めていた。しかし、あの頃の私には死ぬ勇気などなかった。だが、私がこぼした「死にたい」という言葉に、母と精神科医は敏感に反応した。当時私が暴力を激化させており、周囲の人間の体力も限界に達していたことも手伝って、精神科医と母の呼びかけに祖父母も賛同した。更には医療保護入院制度もできていたことによって、私は病棟と付属の小学校の見学に行くことになった。
そこで私が目にしたものは、静かな病棟に、大勢いる優しい看護師さん達。庭は広く、農作業もできると説明があった。それだけではない。学校のほうも、冷暖房完備の上、木目調の内装に高い天井と、これまでいたところとはまるで違う静かな環境。そして母からは、「県東部の給食はおいしいらしいよ」との囁き。あの頃の私の情報処理範囲からすれば、魅力的にしか映らなかった。それにこれまで慕っていた女先生の転任が決まっており、「あの先生以上先生などいるわけがない」という決めつけにより、先述した「春の不安」が助長されたこともあって、私は与えられた情報を鵜吞みにして入院を決断し、平成26年3月30日、入院する事が決定したわけである。入院開始は4月15日、期間は7月18日まで。だが伸びる可能性もあると説明を受けた。
このときの決断は、私の人生の更なる分岐点であり、また波乱の幕開けでもあった。
以上、小学校中学年編終わり。いかがでしたでしょうか。この時の私は、まだわからないことだらけでありました。しかし、霧中にいながら、必死になって掴んだ様々なことは、のちの私にとって、明暗あれど大きな影響を与え続けています。現在に繋がる私の基礎が、無意識の下で形作られた最後の時代。このころを境に、新しい私の物語が幕を開けるのです。
では、次回もお楽しみに!
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