暗転/無知

 怪物は地鳴りみたいな声でえた。大荒れの日の船の上みたいにに地面が揺れて、立つのもやっとのところに岩が落ちてくる。横に跳んで避けて、見上げた岩は私の背丈より大きかった。こんなのが直撃したらそれは死ぬだろう。

 熾火の両眼がこちらを向く。見上げるほどの巨体だけど、四本の脚は太くて短く、岩のような体は見た目どおりに動きも重そうだ。

「――神王様、ご加護を!」

 松明を放り出して全力で駆け寄って、横に出た右前脚を目がけて戦棍を叩きつける。岩が砕けて、深くえぐれても中身は見えない。いや、中身も岩なのかもしれない。魔物っていうのはそういうものだ。他の生き物の常識は通じない。

 それでも――もう一、二発当たれば、折れる。

 また振りかぶろうとすると、脚が上がった。立っている私を踏みつぶせるほどには上がらない。ゆっくりと右に動く脚を追って走って。

 ――風圧を感じて、後ろに跳ぶ。

 目と鼻の先を、岩が目にも止まらない速さで横切った。地面に落ちて止まってようやく分かる。岩が連なったようなそれは怪物の尻尾だった。いくら動きが遅くても、長い尾の先なら話は別だ。実際、今ので燭台の火のいくつかは消えてしまった。放り出した松明を戻って拾う。燭台に火を点けなおすべきだろうか? いや、体力が惜しい。

 岩は横に、尻尾は後ろに跳んで避けながら、さっき抉った右前脚を追いかける。松明から手を離し、戦棍を両手で振り下ろした。根元の方がさらに抉れてひびが入る。あともう一発。松明を拾って、回避に備えて距離を取って、エルンが一人でしていた訓練を思い出した。攻撃は武器を振り下ろすだけ、回避は横か後ろに跳ぶだけ。人と戦うなら大きすぎる動きだけど、この怪物と戦うなら正しい。

 戦棍の三発目が、怪物の右前脚を砕いた。怪物の巨体が傾いて、右肩から崩れ落ちる。巻きこまれないように避けて、その距離で勢いをつけてから、怪物の右肩を急坂みたいに駆け上がった。怪物は残った三本の脚でどうにか立ち上がる。私は怪物の背中から振り落とされないようにして、松明で照らしながら一番揺れないところを探す。

 そこは首の付け根だった。これだけ怪物が暴れているのに、物音が変なくらい遠く聞こえる。私は松明から手を離した。炎は背中から滑り落ちて、潰されて消えた。

 私は全身の力を込めて戦棍を振り上げて、叩き下ろす。首の付け根の岩が浅く抉れる。怪物が吼えて、激しく暴れて、でもここには岩も落ちてこなければ尻尾も届かない。ただ燭台の火だけが消えていく。構うものか。何度も何度も、私は戦棍を振るう。怪物の動きが鈍くなっていく。あと少し、あと少しで――。

 ふっとエルンの顔が思い浮かんで、力が抜けた。

 怪物が吼える。体を大きく震わせる。足元が揺れて、私は滑り落ちた。暗闇の中で、全身の衝撃と、遠ざかっていく地響きを感じた。



 気がついたら、ボクは谷を走ってた。ランプで照らしても道は暗くて、岩だらけででこぼこしていて、何度も転びそうになる。それでも急いだ。お姉さんがこの先にいるかもしれない。危ないから、いない方がいいけど。嫌なことを考えてたら、今度こそ転んじゃった。

 山の神様のいる洞窟の方から、何度も何度も地響きが聞こえる。こんなふうになるのは、誰かが神様と戦ってるときだけだ。宮殿の人が戦いに行くなら、絶対に一人じゃ行かないし、みんなで見送る。そうじゃないなら、あそこには。

 洞窟の入り口に、お姉さんの荷物が放ったらかされてた。背負子から外されてばらばらになった箱には穴が空いてる。中に入ってるはずの細工物もどこにもない。地響きはもう聞こえてこなかった。ボクはランプを高く上げて、洞窟の中に入っていく。燭台の火は全部消えてた。戦いは終わったんだ。なら、お姉さんは――。

「見つかった、か」

 ボクが見つけるより、お姉さんの方が早かった。洞窟に入ってすぐそこだ。ボクは走って、ランプで照らしてお姉さんを探す。

「お姉さん」

 その先は言わせてくれなかった。

「いいかい、エルン。私は本当は山の神様を倒すためにここに来たんだ。神殿を追い出された時、そうすれば帰れるって言われたんだよ」

 お姉さんは冷たく言った。ボクは別にびっくりしなかった。お姉さんが神様と戦ってることは分かってたし、それに。

「帰れるって、本当?」

「嘘だろう」

 ボクはお姉さんのそばにしゃがむ。お姉さんはあっさり答えた。

「だったら、なんで」

「神様にあんたを殺されたくなかったからだ」

 お姉さんの声が洞窟に響く。ボクの代わりに戦おうとしたってこと?

「ボクが神様と戦うのは、ずっと先のことだよ」

「だとしても、あんたはその日まで、世界を知らずに生きるんだろう? 岩だけじゃない、緑の葉っぱや青い海に覆われた景色も、赤や黄色の果物も、綺麗な服を着ることの楽しさだって」

 どうしてそれで代わりに戦うことになるのか、分からないけど。

「そんなの、知らなくてもいいよ」

「そんなこと、知らないうちから言うもんじゃない」

 それは、そうかも。……でも。

「お姉さんもね」

 手をつかんでくる力がゆるんだ。ボクはするりと手を引き抜いて立ち上がる。洞窟の壁に並んでる燭台に、片っ端から火をつけていきながら、お姉さんに向かって笑ってあげた。

「ボクはこの山が好きなんだよ。綺麗な景色も服も果物も、この山にはきっとかなわないと思う。お姉さんにも知ってほしいな」

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