第27話 遺すべきもの②
望月は一部始終をヘリの中から見ていた。
「晴斗! SSTの到着まであと何分だ!」
『最低でもあと20分はかかりますよ!』
「急がせろ! 嬢ちゃんたちが死んじまう!」
突入から20分ほどで、嗣道が捕まった。
それから10分して、ミカが捕まった。
二人は甲板の中央、コンテナの一段低くなったところへ集められ、首謀者の尾久らしき人物と言葉を交わしている。
望月には二人の声を拾う方法はなかった。
しかし、何か良くない展開であることは明白だった。
「くそっ、発砲許可は!」
『黙ってついてきてるんです! 今部長に連絡しますからっ!』
「遅いんだよッ!」
望月は悪態をつく。
それは晴斗に向けてではない。彼はこんな状況の中で最善を尽くしていた。
『どうだ! SSTはこれそうか!?』
ヘリの機長も最善を尽くしている一人だ。
備え付けられた暗視装置の表示装置に無理やり情報端末のカメラを固定して記録を取り続けている。
その記録が公式採用されるためには、秘密裏に行った飛行を公にしなければならない。自身の経歴に傷をつけるかもしれない行為だ。
「くそっ」
自分だけが何もしていないのではないか。
望月はそう感じ、そしてそれからはそうとしか思えなかった。
上着の内ポケットに入れている小さな紙片を望月は服の上から撫でた。
そして過去を思い出す。
「……おい、機長さんよ」
『どうした!』
「このヘリのドアガンは使えるのか?」
望月はヘリのドアにある機関銃を指して言った。
帰ってきたのは打てば響くような答え。
『弾は補充してあるし、電源も生きてる! だが銃手がいない! あんた、できるのか!?』
「ああ、こいつの使い方は『知っている』」
その答えに機長は笑った。
『ははは! あんたも訳ありかい!? よっしゃ、ここはひとつ、学芸員たちを助けに行く騎兵隊と洒落込むか!!』
望月は腹をくくった。
「……ああ! 気前よくやってくれ!」
『任せろ! コパイ! 行くぞ!』
『了解!!』
機関銃に備えられたシートに望月は体を収め、慣れた手つきで機関銃の電源を入れる。
瞬時に機関銃は立ち上がり、緑色のランプを灯した。
開け放たれたドアからは、二人が突入していったコンテナ船が視界一杯に迫ってきていた。
『船へ接近中! 銃撃戦は、船の右舷側に集中している! 対象を目視!』
「こちらでも見えた!」
『発砲を許可する! 自由射撃! 任せたぞ!』
「任されたッ!!」
そして望月は引き金を引く。
「始末書よりも! 大切なものが俺にはあるんだよぉぉぉおおおおおおッ!!!」
望月が引き金を引き続ければ、機関銃はうなりを上げて弾丸を吐き出し続ける。
途切れなく打ち出された弾丸は光の尾を引き、ヘリと船とをつないだ。
「散れッ! 散れ!!」
「うわぁああ!」
「俺の足が!!!」
弾丸の光の列が左右に揺れ、逃げ惑う兵隊の群れを、物言わぬ骸の山へと変えていく。
銃声が止んだ時には、もはや船の一角に立っているものはなかった。
望月はその光景に少しの後悔を覚え、再び胸元の紙片を服の上から撫でる。
「嬢ちゃん! 無事だったか!!」
だが、コンテナから顔を出した一人の少女を見て、望月は安堵して胸元にやった手を離した。
望月から見えるミカは戦いの余波を受け、多少は怪我をしているようだが、重傷なようには見えなかった。
「……しないでする後悔よりはよっぽどいい」
望月は、小さく呟いた。
そして、コンテナの影から顔を出したミカへ望月はバッグを放った。
「いまだ! お嬢ちゃん、これを受け取れ!」
ミカはヘリの轟音で望月の言葉を聞きとれなかったが、ヘリから投げられたバッグはしっかりと受け取った。
ずっしりと重いリュックサックを開けると、中にはいくつもの弾倉が詰まっている。
嗣道の戦いぶりを見た望月がその苦戦の訳を見抜き、機内の備品を投げてよこしたのだ。
「ありがと!」
ミカは瞬時に理解し、礼を言う。
その言葉も望月には届かなかったが、ミカには望月がすっきりとした顔で笑っているのが見えた。
ミカは急いで、コンテナの中の嗣道の元へと戻る。
「嗣道!」
「……大丈夫だ、大したことはない」
ミカが戻った時には、嗣道は肩の止血を終えていた。
そして、嗣道は即座に立ち上がる。
「……助かった。だがミカ、まだ終わりじゃない。……探そう」
「うん!」
頭上では、ヘリからの銃撃の音がまた聞こえていた。しかし、すぐにそれも止み、ミカが見上げるとヘリは急な動きで方向転換をした。
そして先ほどまでヘリがいた辺りを、上空に向かって打ち上げられたロケット弾が襲う。
「あんなものまであったなんて!!」
ミカは驚き足を止めてしまったが、その背中を嗣道が押す。
「ヘリは大丈夫だ。俺たちが見つけることこそが、彼らの助けにもなる」
「そうだね、嗣道!」
ミカは再び瞳に光を宿し、残るコンテナの方を向いた。
そして、次のコンテナを選ぶ。
「嗣道、今度はあっちのコンテナを!」
「分かった」
二人はひと固まりになって、コンテナの隙間を進む。
「ミカとまれ!」
「ッ……!」
そこかしこに敵の足音が聞こえる。
(……いったい何人いるの……!?)
ミカの心の叫びの通り、次から次へと兵隊は現れた。
「……、角か…。それならッ」
次の角の先で待ち構えているとにらんだ嗣道は、すでに空になった弾倉を片手で放る。
そして高い放物線を描いだ弾倉は角の先の甲板に落ち、金属が転がる音を立てた。
「手榴弾!?」
「逃げろ!!」
その音に素人に毛が生えたほどしか訓練されていない兵士が慌て、角から無防備に飛び出してくる。
「馬鹿め、罠だ」
生半可につけた知識が仇となり、嗣道のライフルで撃たれる。
そして、ミカは三つ目のコンテナにたどり着いた。
尾久は甲板の様子を、コンテナの上から眺めていた。
傍らには秘書もいる。
「邪魔が入りましたね」
「先生、申し訳ありません。二人を下ろした後、あのヘリは船の周りを周回するだけでしたので、攻撃力はないものと判定していました……」
秘書が尾久に頭を下げる。
「多くの勇敢で優秀な兵士を失いました……。ですが、もう後には戻れないのです」
「はい、先生。現在、損耗率は55% この場を乗り切れても、今後が危ぶまれます」
秘書の持つ端末には、甲板に展開する兵隊のデータが並んでいた。
少しずつ、戦闘不能の文字が増えていく。
「そうですか。……その時は考えましょう」
「いえ、先生。何とかします」
そういって秘書は、端末を操作し始めた。
その様子をしり目に、尾久は秘書へ話しかけた。
「彼女たちは見つけられるでしょうか?」
「通常の方法では不可能です」
「だからですか、あなたがあのコンテナの中に本物を隠すといった私に賛成してくれたのは」
「はい。木を隠すなら森の中。たとえどのような審美眼があろうとも、この状況下で見つけることは不可能です」
尾久がそこまで聞いて少し詰まらなさそうにしているのに、秘書は気付いた。
「彼女らが、見つけることに期待されているので?」
「……そうですね。私は、彼女たちに期待しているのかもしれません」
尾久は秘書を見て言う。
「あなたの期待に沿えなくなってしまいますが」
「私は、先生のこれまでの活躍を見ています。先生はたくさんの物をこの国に遺されました。あとは先生の好きなようにされてください。……私は最後までご一緒します」
尾久は重ねて秘書に尋ねた。
「私はこの国に遺せたでしょうか?」
「……先生は、この国のために十分尽くされてきました。あの国から資金提供を受けたのも今回が初めてです。先生はこの国で一番この国を考えていた政治家です。 ………それなのに、よく大国であるあの国からあれほどの大金を引き出せたものだとは思いましたが」
「ふふふ、あなたももう気付いている、ある繋がりがあるからですよ」
「私は先生の『すべて』を疑ってはいません。日本のためになすべきことをなされている方です」
「ありがとう。あなたがそう言ってくれると私は一番うれしいのです」
三つ目のコンテナの中で、ミカは変化を感じた。
(……さっきのコンテナと違う……)
荷物の積み方も、梱包材も全く一緒なはずなのに、何かの違いをミカは感じ取っていた。
(……ここにある)
外では嗣道の銃撃戦の音が続く。
時折、ミカのいるコンテナにも跳弾の音が響くが、ミカはそれを気にせず、コンテナの中を進む。
ミカは手を伸ばし、積まれた中から一つの箱を取り出した。
(これだけ違う。……ひねくれた想い。悔しさ、自己満足)
そして、蓋を開けることなく、コンテナの外へと出る。
「ミカ! 本当に見つけたのか!?」
箱を掲げて出てきたミカに嗣道が驚く。
その様子をどこからか見ていたのか、スピーカーが尾久の声を響かせた。
『……双方、一時、銃を収めなさい。学芸員、作品を確認させてもらいましょう』
ミカは嗣道の前を通り過ぎ、コンテナの上に立つ尾久のそばまでやってきた。
コンテナの上の尾久を見上げ、ミカは木箱を掲げた。
「それが、あなたの見つけた本物ですか?」
ミカは、頷いた。
「……これが、原本。本物の、江戸街並図」
ミカはそう言い、作品を収めた木箱を開けた。
中から、古びた紙片の浮世絵が現れた。
ミカはつづけて言う。
「売れると思って自費で出版した自身最高傑作の浮世絵。でも、現実には全く売れず、茶碗を包む紙に使われる始末。その中の一枚を救い出し、大切に保管した。後年歌川広重がもてはやされ、自身の不運を嘆きつつ、自宅に飾り続けた。そのうち色が退色し、いつの間にか、元の色がわからないほどに」
尾久が問う。
「それはあなたの知識ですか?」
「そうじゃない。全部、この作品が教えてくれた」
ミカはその時初めて作品を見た。
ミカが言ったとおりの様子の作品が箱には収められていた。
そして、探すうちに浮かんだある疑問を尾久にぶつけた。
「答えて。なぜ、『遺しておいた』の?」
「……あなた方、学芸員からそう言われるとは思っていませんでした」
尾久は素直に驚いていた。
「私もさっきまでは違うことを考えていた。本物は残っていて当然って。私は学芸員だからね。自然とそう思った。本物はどこかに遺しておくものだろうって」
ミカは作品に目を落とす。
想いはこもっている。本物であることも間違いない。
だが、その作品はこれまで注目を浴びることがなかった、埋もれた作品だった。
理解がない人間なら、それこそ茶碗の包み紙に使われたように、捨ててしまっていたかもしれない。
それほどに、価値がわかりにくい作品。
「……でも、見つけてから思った。あなたにとって、これはアキレス腱。遺しておくべきものじゃなかっはずだよ」
一般の目にはどう映るか。そして、それを利用して犯罪を企てようとしている人間が、これほど『どうでもよく見える本物』を遺しておくだろうか。
だから、ミカは疑問に思った。
「私も何故だかわかりません」
尾久はつぶやいた。
「ただ、なんとなく。なんとなく、あなた方に見つけてほしかったのかもしれません」
それが、尾久の罪悪感なのか、犯罪の背景なのか、ミカは問わなかった。
「……あなたが何を目的としていたのかは分からない。犯罪の動機も、私たちは問わない。私たちはそれを罰さない。私たちは学芸員だから」
ミカは作品から顔を上げる。
「私たちは、学芸員。私たちが守るのは、文化財、博物館資料たち。私たちが調査をするのは、その文化財の歴史と背景。遺していくのは、当時の人の想い」
「ええ、そうでしょうとも。わかっていました」
尾久はなぜか安堵したように微笑んでいた。
「だから、なのかもしれません」
「……尾久典司、約束は守ってくれる?」
「ええ、もちろん。私を逮捕してください」
ミカは、安堵した。
そして一歩、尾久へと近づく。
その隙を、認めようとしないものに邪魔される。
「ちょっと待ったぁ!! 先生、こんな宝探しに負けたからって、ハイ終わりってそりゃないぜ!! 兵隊はまだ残ってる。目の前にいは武器を構えていない学芸員!」
隊長と呼ばれていた男が、突如現れ、ミカに銃口を向けた。
「貴様!!?」
嗣道も、銃を構えるが、ミカが狙われていれば、嗣道は撃てない。
「あと10分。SSTがやってくる。そうだ、俺たちは破滅だ!! ……だから最後は楽しく殺しあおうぜ!」
ダブルアクションのハンドガンのハンマーを男が起こす。
あとはピクリと引き金を引けば、ミカの頭は吹き飛ぶ。
「さぁ! 最後の祭りの始まりだ!!」
そして男が引き金に指をかけた時。
男の頭が弾け飛んだ。
脳漿がばらまかれ、辺りを赤く染める。
「なっ!!」
ミカは弾道をたどった。
弾頭は男の側頭部、斜め上から入っていた。そうやって辿っていけば、一人の男にたどり着く。
「あなた……!」
隊長を撃ったのは、秘書の男だった。
秘書は隠し持っていた散弾銃を男に向けて放ったのだった。
「先生、不始末を排除しました」
「ありがとう。それでは、一緒に彼女らに投降しましょう。じきに海保の部隊も来るようです」
尾久は何事もなかったかのように秘書に言う。
しかし、秘書は同意しなかった。
「いえ、先生。ここでお別れです」
「……なにを。……!?」
尾久も驚愕に目を見開き、秘書の男を見た。
秘書の男がスーツの上着を脱いだのだ。
白い塊といくつかの電子部品がついたベストが皆の目の前に現れた。
そしてその場にいる全員に聞こえるように声を張る。
「全員よく見ろ!! 私は今、爆弾ベストを着ている! 今ここで宣言しよう! これまでのすべての犯罪はすべて私がやったことだ! 先生の活動しやすいように、私が忖度したに過ぎない!! 先生はすべてを『ご存じない』!!」
「あなたは何を言って!!」
ミカがそういっても、秘書は止まらない。
「この爆弾が爆発すれば、この船は大被害を被る! 海に沈むかもしれない! これを止めるには、この爆弾の起爆装置を破壊するしかない!」
秘書は自分の胸のあたりに取り付けたタイマーとボタンの付いた装置を指さした。
「すでにカウントダウンは始まっているぞ、学芸員! さあ、私をこの起爆装置ごと撃ち抜き、見事爆発を止めてみろ!」
(この人は急に何を言ってるの? 何が、どうなっているの?)
ミカは混乱した。
しかし、ミカがの横で、嗣道がライフルを構えた。
「いいだろう」
「嗣道……!!」
ミカ嗣道を止めようとした。
「止めるな、学芸員! 私が爆発すれば、キミの持つ本物も一緒に永遠に失われるだろう!」
「そんなっ!!」
嗣道が、スコープを覗き込む。
「ミカ、見ておけ。あれも一つの『遺し方』だ」
嗣道が引き金を絞り、放たれた弾は寸分たがわず起爆装置を破壊し、有り余る破壊力は秘書の体をも砕いた。
秘書はそのままコンテナの上に崩れ落ちた。
尾久はその傍に駆け寄り、ミカと嗣道の視界から消える。
「なんということを! 止血しますよ!」
「いいんです、これで。………よく聞いてください、先生。この国には、大変良い言葉がございます。先生は、2つの言葉をおっしゃればよいのです」
秘書は傍に寄ってきた尾久に向かって言った。
「こんな時に何を言っているのですか。あなたはなにも……」
「この国では百年も昔から、こういう時に、言うべき言葉が、決まっております。『記憶にございません』そして、『すべて秘書がやりました』と。そう、繰り返されればよいのです」
「何を考えているのですか」
秘書はそう問われて、尾久に微笑んだ。
「先生、私に『あなたの名前』を付けてください。私が『あなた』になる。………最初から、最後はこうするつもりだったのです」
「なんてことを……」
仰向けになった秘書が尾久の顔を通り越し、空を見る。
空には星が輝いていた。
「先生、見てください。あの時と同じように、星がきれいです。これだけは遺せましたね。ごほっ……ごほっ……先生、耳を……」
尾久は、秘書のその懇願にすぐに耳を彼の顔に近づけた。
「先生、………私の、本当の名前は……」
耳元でささやかれた言葉に、尾久は目を見開く。
「先生、どうか私の名前ではなく、先生の、秘書であったことを、覚えておいてください。……もう、お会いすることは、ないでしょう」
秘書はその命を失おうとしていた。
「あなたは……」
尾久の脳裏にいろいろな言葉がよぎる。
しかし、この場で掛ける言葉ではなかった。
だから、彼が求めた言葉を捧げる。
「先生……」
「あなたは大変良い秘書でした。私の、最高にして最後の秘書です」
秘書はにっこりと目を細めて笑った。
「……あり、がとう、ご……」
そのあとは言葉にならず、息の抜ける音だけが響いた。
尾久はそっと、秘書の瞼を閉じ、両手を胸の前で組ませた。
そして、自身は空を仰ぐ。
上空にはヘリが飛び交い、いつの間にかコンテナ船を囲んだ船から探照灯で照らされ、辺りは真昼のよう。
そんな空は、雲一つなく。
星が輝いていた。
船を取り囲んだゴムボートから続々と黒ずくめの兵士たちが現れる。
「海上保安庁だ! 武器を捨て、投降しろ!」
「手を挙げて、膝立ちになれ!」
大挙して現れた人数も、練度も勝る兵士たちの様子に、武装していた仲間は抵抗する間もなく制圧されていった。
まもなくして、絶えず聞こえていたエンジン音が停まり、船の行足も止まった。
周囲の船やヘリの音に紛れて、船腹をちゃぷりと叩く、波音が聞こえた。
その様子が、尾久に一つの情景を思い出させていた。
「私は………」
尾久典司は、すでに昔の名前を忘れていた。
いや、記憶力の良いこの男が『そんなこと』を忘れるわけがなかったが、昔の名前を自分のものと認識できなくなっていた。
それは、戦争後期。日本国内が焼かれることがなくなり、あとはどこで線を引くのか、各国が互いの思惑を巡らせていたころのこと。
尾久が初めて日本という国の土地を踏んだ時だ。
祖国からの密命を帯び、時が来るまでの待機を指示された状態で、尾久は日本に入った。
入国は秘密裏に。
祖国と戦前から付き合いのあった過激な環境団体の手引きにより、尾久は入国をすり抜けた。
「これからよろしくお願いします」
「おかえりなさい! 大変だったでしょう? 国にとって都合の悪い事実を知ってしまったあなたを国外追放にするなんて、政府のやり方はいつの時代もなんて卑怯なんでしょう!!」
尾久のカバーストーリーを一人が口にした。
その女は秋山瑞枝と名乗った。
それからも、女は声高に私の正当性と、政府の陰謀を語った。
私はその話を聞きながら、ちらりと周囲の様子を探った。皆、彼女の話も私のカバーストーリーも、疑いなく信じているようだった。
でっぷりと恰幅のいい男が前に進み出て、尾久へ話しかけた。
「私は、在明良英と申します。よろしく。いや、本当に、帰って来られてよかった」
男はそう名乗り、手を差し出した。
尾久もその手を取り、悪手する。
「これからの話をしましょう。……何とか入国はできますが、国外追放されてしまったあなたが、元の名前のまま活動することは難しい。しかし、今は戦後。情報がなくなった戸籍など、いくらでもある。そこで、用意させていただきました」
在明がいくつかの資料の挟まったクリップを差し出す。
「……これが、新しい名前?」
カバーストーリーで設定されたのは、環境保護活動中に日本政府の不都合な事実を知ってしまったために国外追放された、日本出身の活動家、ということだけ。
そんな自分に、日本国内の活動家が支援して、戸籍や名前を得たほうが、ぼろが出ないだろう、という作戦だった。
そんな作戦要項を思い出しながら、尾久は手元に回された資料を見た。
「尾久、典司」
「そうです。ちょうどよい土地で死んだ男がいましてね。戸籍を『買って』きました。妻も、両親も死亡、他に親しい親戚もいなかったようです。一人、歳の離れた息子はいたようですが、その疎開先も空襲で消滅。おそらく生きてはいないでしょう。状況は先生にばっちり。……年齢的にも、違和感はないはずです。それに、今日あなたに会って、その名前がぴったりだと思いました」
「そうですか。私が、尾久典司」
「ええ。……これからあなたには、政治家になっていただきたい」
「政治家に」
「ええ、そうです。東京は今や焼け野原。これから復興していきます。そんな中で、あなたには、環境に配慮された開発が行われるよう、政治の世界で取り計らっていただきたいのです。活動実績も問われるかもしれませんが、あなたのこれまでの活動を主張するわけにはいかないですが、私たちのグループとこれまで活動してきた、ということにはできます。何、ご心配なく。私たちは、WEBサイトを持たない。活動実績をごまかすことも簡単です。……どうですか、やっていただけますか?」
在明は意思に燃えた純粋な目で、尾久を見た。
「……わかりました。お任せください」
日本国内に入った後、尾久はいくつかのメンバーを紹介され、自身の生まれ故郷となった東京に入った。
「ここが、東京……」
「ええ、前人類の汚物にまみれた都市は一層されました。次に立てる都市は環境に配慮された完璧な都市を私たちの手で作るのです」
「そうですね、がんばりましょう」
尾久は無表情に、無感動に答えた。
「では、先生、ご案内します」
「……いえ、少しだけ、街を回らせてください」
「そうですか。いえ、構いません。夕食時には、あちらに見えるホテルへお越しください」
「分かりました」
尾久は在明と別れ、東京の街を歩いた。
いたるところに残骸が残り、遠目にはきれいに見えた高層ビルにも弾痕が目立ち、壁面が崩れているものも多い。
歩いているうちに、夕暮れを迎え、空が見えた。
遮るもののまったくない、暗い空だった。
星が瞬き、天の川が見える。
しかし、尾久はそれすらも無感動に眺めていた。
「おじさんも星を見ているのか?」
そんな尾久に声をかける者がいた。
尾久が目を転じると、そこには薄汚れた少年がいた。
「君は?」
「オレも星を見てたんだ。……オレ、東京で天の川が見えるなんて思わなかった」
「東京では見えないのですか?」
尾久はそう口に出して質問し、後悔した。
それが常識だったら、尾久の存在を疑われるきっかけになってしまう。
だが、少年は怪訝な顔をすることもなく大きく笑った。
「おじさん馬鹿だなぁ! 東京で天の川なんて見えるわけないじゃないか。……まぁ、俺も、父さんに教えてもらうまで、天の川なんて知らなかったんだけどさ! ……今は灯火管制と、それ以前に焼けすぎちゃって、夜明かりをつけられる家も残ってないんだ。だから、こんな都会のど真ん中でも天の川が見えてんだよ」
こんな廃墟の街には似合わない、快活で元気のよい子供だ。
「そうですか。あまり上を見ることがなかったので」
「そういうこともあるよな! んで、おじさんはどこから来たの?」
「私は、帰ってきたんです。家がこのあたりでね」
尾久は与えられたストーリーを何も考えずに答えた。
「へぇ、じゃあオレと同じだ」
その時、尾久は気まぐれに、この快活な子供に同情した。
「あなた、帰る家はあるのですか?」
「……ないよ。今日はどこかで野宿する」
「それならば、私と一緒に来ませんか?」
尾久は無感情のまま、そう尋ねた。
「どこかに泊めてくれるのかよ」
「ええ。あなたが良ければ。私はまだ何者でもありませんが、将来的にこの国の政治家になる男です。あなたの夢も一緒にかなえられるかもしれませんよ」
「じゃあ、先生、その時はオレを秘書にしてくれよ!」
「……そうですね、秘書の一人には入れてあげてもいいでしょう」
「先生! 名前はなんていうんだい?」
「私の名前は尾久典司です」
そう答えたとたん、彼の顔に驚きと、少しの怒りが浮かんだ。
だがすぐに表情を取り繕い、笑顔を浮かべる。
「……そっか、あんたが……。……ええっとな、オレはノリアキっていうんだ! 苗字は、……オグ、っていうんだ」
だが、その時の尾久はなぜ彼がそんな表情をするのか、理解できなかった。
だからこそ、この後尾久は気軽に彼を誘う。
「そうですか、ノリアキさん、では行きましょうか?」
「やだなぁ、先生! オレのことはもう秘書って呼んでくれよ!」
ああ、この記憶は秘書と出会ったときのものだったか、と尾久は理解した。
彼の本当の名前を聞いたことで、尾久は記憶の意味を知った。
「先生、政治家になるんだろう? 政治家は何でも決められるって、父さんが言ってた。……先生、オレは父さんが教えてくれた、天の川がいつでも見られる国がいいな」
尾久はその時、なぜだか彼の壮大すぎる夢をかなえたいと思った。
もしかしたら、心のどこかで、彼の秘密に気付いていたのかもしれない。
同情か、罪悪感か。
「そうですか。ではそういう国を作りましょう」
「約束だぜ」
尾久はその時の気持ちが理解できなかった。
いや、もともと、尾久には感情と呼ぶものに対する意識が低かった。
だがその時、約束したことは、なぜかどこかの国の指示よりも、環境保護団体の思惑よりも、ずっとすっきり、腑に落ちた。
だから、約束した。彼の語る国を作ろうと、思ったのだ。
「ええ、約束します」
それから、数年が経ち、尾久は政治家に、少年は秘書になった。
戦災孤児を秘書にしたのが、人気取りだと批判されたこともあった。
母国からの指令を蹴ったこともあった。
すべては、あの日であった少年との約束のためだった。
そして、今日、少年を失った。
だが、尾久は立ち止まれない。
秘書から、最後の願いを聞いてしまったからだ。
足音が尾久に近づく。
振り返ると、そこにはミカが居た。
「……尾久典司、文化財保護法違反の容疑で、逮捕する」
「ええ、どうぞ。ただ、私は何も『記憶にございません』し、『すべて秘書がやったこと』です」
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