第04話 事務所と展示室②
事務所に戻ると出社した人は増えていたが、幸いなのか、嗣道はまだ席に来ていないようだった。
夜遅くまで展示に時間がかかったからだろう、とミカは当たりを付けた。
この分なら、午後まで嗣道は出社しない。
フレックス勤務様々である。
少し安心したミカは、少しだけ戻ってきた眠気を感じ、コーヒーを自販機で買い、自席に戻ることにした。
自席で回覧で回ってきた情報を確認する。
企画展情報などを確認していると、司会の端にゆらゆらと揺れる影が見えた。
はっと、ミカが見渡すと、通路の方にふらふらと大荷物を抱えた人物がいた。
その荷物は今朝ミカが背負ってきたリュックサックよりも大きく、その人物の視界を遮るほどだ。
「あ、みなさんおはようございます~。ちょっと通してください~」
そんな状況にも関わらず、ふんわりとした口調であいさつする彼女は、ふらふらと自席へとむかう。
しかし、揺れ具合からすると、どうにも席に到達する前に倒れそうだとミカは判断した。
「おっとっと、危ないあぶない、間に合わないところだった。……宮姉ぇ、大丈夫? 持とうか?」
崩れ落ちそうな荷物に手を添えながらミカはその人物に声をかけた。
「あれ? ミカちゃんおはよう。心配してくれるの~? ありがと~!」
荷物の影から持ち主の顔が現れる。
丸顔に長い髪をゆるっと一つにまとめた姿は口調も相まってゆるさの塊のよう。
ミカが宮姉ぇと呼んだ宮前那奈はミカとは異なり、日本美術を専門とする部署に所属する学芸員で、彼女のほうが先輩だが、年の頃も近いということで仲良くしている職員の一人だった。
そんな宮前はさっと助けに入ったミカを見て大きな瞳に涙を浮かべた。
「えっ、ちょっと、宮姉ぇどうしたの!?」
思わぬ年上の涙に動揺しつつ、ミカは尋ねた。
「あのね、企画展のね、目玉が思いつかなくてね~」
「え、例の目玉、決まってたんじゃ……?」
それは数か月前の会議で次回の企画展について話し合われた際に目の前の先輩が自信満々に発表していた作品だったはずであった。
「実は、一昨日先方から連絡来てて、保険かけれなかったんだって。どうしよ~」
(あ、これはもうだめなやつだ……)
ミカは心中で察した。
美術品を運ぶには長期間にわたり綿密な輸送計画を立てて実行する必要がある。
専用の輸送トラックに、海外であれば、航空機か船の手配が必要になる。
それ以外にも必要な手続きは数多いが、その中には、万一のための保険もある。
そして基本的に、保険がかけられなければ、その美術品を発送してもらうことができない。
保険が掛けられないことがわかったということは、つまりそういうことだった。
「あはは……。うーん、手伝えることがあったら言ってね……」
ミカとしては苦笑とともに、そう言うしかなかった。
もっとも、ミカとしては専門外の分野について、自分ができることは限られている、とも思ったのだが。
しかしそれでもこの先輩学芸員には貴重な救いの手だったようだ。
「ほんと? やったー! ミカちゃん来てくれたら百万人力だよー!」
「えっ、わたし、つよすぎない?」
あまりにもきらきらとした瞳を向けられてミカは困惑するしかなかった。
「いいのいいの! いつもほんとに助かるんだから! よーしっ! それじゃあ、今日、もう集まってる展示予定品の確認手伝って~!」
これにはミカもさらに驚く。
「今日から!? えっ、切羽詰まりすぎてない……?」
もちろん、ミカの想像の通り、通常なら企画展がこんなに切羽詰まることはない。
予想外のことにも対応できるよう、大規模なものであれば年単位の時間をかけるのだから。
ただ、ミカがそういうのも聞こえないのか、宮前は小躍りしていた。
「あーあ、聞いてないや」
成り行きから、ミカの今日の午後の仕事は決まったようだった。
しかし、そんな踊る宮前の皮算用は、皮算用で終わるのだった。
「ミカ、おはよう。遅くなった。……宮前はどうしたんだ?」
(……嗣道!!?)
ミカがびくっとしつつ振り返ると、そこにいたのは嗣道だった。
昨日の戦争に行くかのような服装とは異なり、今日はチノパンにシャツという動きやすいビジネス風の格好だ。
「嗣道、おはよ! ……ええっと、これはねぇ……」
突然の登場に驚いたのと、宮前の奇妙な動きの原因についてミカが言いあぐねていると、張本人が先に説明を始めた。
「というわけで、ねぇ、嗣ちゃん、今日ミカちゃん借りていい? 手伝ってもらいたいことがあって……」
しかし、淡い希望は脆くも崩れ去る運命だったのかもしれない。
「残念だが、俺とミカはこれから出かける予定だ」
嗣道が告げた言葉にはとりつく島がなかった。
「え、出かける? 予定にはなかったよね?」
しかし、これにはミカも驚き、嗣道に尋ねた。予定表にはもともとなかった話なのだ。
「急ぎの話だ。ファーストライン装備だけでいい、準備をしたら先に車へ行け」
そういわれ、ミカは嗣道がすでに準備していた車のキーを受け取る。
「了解! ……けど、どこまで?」
ミカは指示された装備を準備しながら嗣道に尋ねた。
「昨日の晩、お前が捕まえた大島とかいうやつ、しゃべる気になったようだ」
「そうなんだ!」
幸い、ファーストライン装備はそのファーストという言葉がさす通り、最も基本的な装備でもある。引き出しにしまっていた拳銃とそれを固定するホルスターをベルトに通せば、あと必要なものは普段身に着けているものだけだった。
「準備できた」
ミカは最速で準備して、嗣道に頷いて見せた。
「行くぞ」
嗣道の掛け声とともに、現場への一歩を踏み出そうとする。
しかし、同時に二人を引き留める声が掛かった。
「ちょ、ちょっと待ってよ~」
捨てられた子犬のような目をしながら宮前がミカに訴えている。
ご丁寧に二人の服の裾を掴んだ上で、だ。
「ミカちゃん、行っちゃうの……」
ミカは罪悪感を覚えるが、何かを言うより先に嗣道が言った。
「おい、そんな目をするな。切羽詰まってるの、お前の段取りが悪い所為もあるだろ」
それを言われて宮前の顔に影がかかる。
「ふふふ、7割ぐらいかな……」
(あ、そんなになんだ……)
ミカも嗣道も顔を見合わせる。
表情を見るに、二人とも同じことを考えていた。
「そうか……。終わったら手伝うから、今日は頑張れ」
代表して、嗣道がそう告げた。いや、二人にはそう言うよりほかになかった。
「嗣ちゃん……」
だが、そんな二人の雰囲気を知らず、宮前は再び神が現れたかのようにきらきらとした目をしていた。
「今、手伝うって言ったよね。……絶対だよー!」
いや、もしかしたらその目の輝きは生贄という名の労働力を見つけた狩人の目だったかもしれない。
宮前はぴょんとはねながら大きく手を振って二人を見送った。
「わかった。……ミカ、行くぞ」
嗣道はため息を一つつくと、話を切り上げた。
「う、ん。そうだね……」
ミカは装備を用意すると、嗣道の後を追って事務所を出るのだった。
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